第1話 用済みの妻
嫁いだその日に、夫は私に赤子を差し出した。
泣き声だけが、広すぎる寝室に響いていた。
「この子を、お前の子として育てろ」
オスヴァルトの声には、謝罪も説明もなかった。
まるで領地の管理を任せるように、事務的に命じただけだった。
私はその赤子を受け取った。
生まれたばかりの、まだ目も開かない小さな命を。
指が震えていたのは、怒りではなかった。
産着に包まれた赤子が、あまりにも軽かったからだ。
羽毛のように頼りなく、それでいて確かに温かい。
(……この子に、罪はない)
それが、ヴァイスブルク公爵家での私の最初の仕事だった。
婚礼の夜に花嫁衣装を脱ぐ間もなく、他の女が産んだ子を抱かされる。
そんな結婚があるだなんて、嫁ぐ前の私には想像もつかなかった。
実家の伯爵家は名門だが、財政は苦しかった。
公爵家との縁組は家を支える最後の柱であり、私に拒否権はなかった。
だから私は泣かなかった。
泣いたところで、何も変わらないと知っていたから。
◇
あれから12年が過ぎた。
「イルマ様、リタお嬢様の薬湯の調合が済みました」
侍女長のアネッタが、銀の盆を捧げ持って部屋に入ってくる。
湯気の向こうに、甘い薬草の香りが漂った。
カモミールの落ち着いた芳香に、ほのかな蜂蜜のような甘さが混じっている。
「ありがとう。今日はカモミールを多めにしたのね」
「ええ。お嬢様、最近寝つきが悪いとおっしゃっていましたので」
アネッタは公爵家に40年仕える古参の侍女長だ。
白髪の混じった焦げ茶の髪を常にきっちりとまとめ、背筋はいつも真っ直ぐだった。
私がこの屋敷で最初に信頼した人であり、リタの体調を誰より把握している。
薬草の調合は、実家の伯爵家で幼い頃から学んだ技術だった。
西方諸国では薬草学は医術の一部とされ、薬草師は正式な職業として認められている。
だがこの国では「女の手慰み」程度にしか見られていない。
宮廷魔法が華やかな光を放つこの王国では、地味な薬草学は学問としてすら扱われなかった。
それでも、私はこの知識でリタの虚弱な体を支えてきた。
生まれつき気管の弱いこの子に、季節ごとに調合を変えた薬湯を用意し、食事に薬効のある香草を混ぜ込んだ。
冬はタイムとセージの蒸気浴、春はネトルの煎じ茶、夏はペパーミントの冷薬湯。
四季を通して、リタの呼吸を守り続けた。
12年かけて、リタは健やかに育った。
社交界では「公爵家の才媛」と呼ばれるまでになった。
「お母様」
扉の向こうから、透き通った声が聞こえる。
「お母様、今日の薬湯はいつもと違う香りがしますね」
リタが小走りに入ってきた。
亜麻色の髪に、空色の瞳。夫に似た面差しの中に、知らない女の面影がちらつく。
12歳にしてはすらりと背が高く、動作の一つ一つに品がある。
それは天性のものではなく、私が教えたものだ。
12年。
赤子を渡されたあの夜の衝撃を飲み込むのに、私は1年かかった。
受け入れるのに、3年かかった。
この子を心から愛おしいと思えるようになるまでに、5年かかった。
そして残りの7年で、私はこの子の「母」になった。
「カモミールにリンデンの花を少し加えたの。リンデンは菩提樹のことよ。花には心を鎮める作用があるから、眠りが深くなるわ」
「リンデン……。確か、西方では街路樹に植えて、花を摘んでお茶にするんですよね。本で読みました」
この子は聡い。
知識の吸収が早く、一を教えれば三を理解する。
実の母が誰であるかなど、この子は知らない。知らなくていい。
「よく勉強しているわね」
「お母様に教わりましたもの」
リタが笑う。
その笑顔を見るたびに、私の胸は軋む。
愛おしさと、いつか来る別れの予感が、同じ場所で重なるからだ。
リタが何気なく抱きついてきた。
背丈はもう私の肩まである。去年まで腰の辺りだったのに。
窓の外に目を向ければ、薬草園のラベンダーが風に揺れていた。
あの園を作り始めたのは、リタが2歳の時だ。
歩き始めたばかりのリタの手を引いて、一緒に土を触った。
小さな指が泥だらけになるのを見て、アネッタが慌てていたことを思い出す。
あの頃の私は、まだ「耐えている」つもりだった。
いつか報われる日が来ると信じて、ただ耐えていた。
今は違う。
耐えているのではなく、この場所を「選んで」いるのだと、思えるようになっていた。
リタがいるから。この子の笑顔が、私の選択を肯定してくれるから。
(……いつまで、この日々が続くのだろう)
その問いの答えは、思ったよりずっと早く、突きつけられた。
夕刻、オスヴァルトが私の部屋を訪ねてきた。
12年の結婚生活で、夫がこの部屋に来たのは数えるほどしかない。
大抵は書斎からの呼び出しだ。わざわざ足を運ぶということは、人に聞かれたくない話だということだ。
「話がある」
書斎でもなく、応接間でもなく、私の部屋を選んだ。
それだけで、嫌な予感がした。
オスヴァルトは窓際に立ち、こちらを見ようとしなかった。
かつては端正だったその横顔に、この数年で怠惰の影が差している。
顎の線が緩み、目元に疲労が滲んでいた。
「今度の社交季に、私は正式にエルザをこの屋敷に迎える」
エルザ。
名前だけは知っていた。夫がここ数年、王都で囲っている女だ。
使用人たちの間では公然の秘密であり、社交界でも噂が立ち始めていた。
「そして、お前には離縁を申し渡す」
呼吸が止まった。
一瞬だけ。
それから私は、深く、静かに息を吸った。
胸の奥で何かが割れる音がした。だが、表面は平静を保った。
「……理由を、伺ってもよろしいですか」
「理由は明白だ。お前との間に子ができなかった。公爵家の血筋を繋ぐ義務がある」
子ができなかった。
できるはずがない。この人は婚礼の夜から、ただの一度も私の寝室を訪れなかったのだから。
(……12年間、この人の秘密を守り、この人の子を育て、この人の家を守った。それが、この言葉か)
「リタは、エルザが引き取る。あの子の実の母だからな」
その瞬間、私の中で何かが音を立てて外れた。
怒りではない。
もっと静かな、冷たいもの。
長い間ずっと我慢していた鎖の、最後の一輪が外れた音だ。
12年かけて積み上げたすべてを「用済み」と呼ぶなら。
その12年が、どれほどの重さだったか──教えて差し上げましょう。
「承知いたしました。ただ、いくつか確認させていただきたいことがございます」
私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「離縁の条件は、婚姻契約に基づくものでよろしいですね。契約書の写しは、私の手元にございます」
オスヴァルトの表情が、一瞬だけ固まった。
その目に、明らかな動揺が走った。
結婚とは契約だ。
特に貴族の結婚は、愛ではなく法で成り立っている。
感情に訴えても意味はない。だが法には、必ず穴がある。
そしてその穴を見つけるのは、12年間この家の書類を管理してきた私だ。
12年前の私は、泣くことしかできなかった。
でも今の私は、泣く代わりに記録を残してきた。
「では、正式な手続きに入りましょう。……楽しみにしております」
夫の顔から血の気が引いたのを、私は見逃さなかった。
扉が閉まった後、しばらく残り香のように夫の気配が部屋に漂っていた。
高価な香水の匂い。この家の家計からは出ていない費用で買った香水だ。
私は窓に歩み寄り、額をガラスに押しつけた。
冷たさが心地よかった。
薬草園の向こうに、使用人棟の灯りが見える。
あの灯りの下で、アネッタが明日の支度をしているはずだ。
(……アネッタには、まだ言えない。けれど、近いうちに)
夜風がカーテンを揺らした。
書棚の奥に並ぶ12冊の革手帳に、月光が静かに落ちていた。
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