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夫の隠し子を12年育てましたが、そろそろ自由になってもいいですよね  作者: 渚月(なづき)


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第1話 用済みの妻

嫁いだその日に、夫は私に赤子を差し出した。

泣き声だけが、広すぎる寝室に響いていた。


「この子を、お前の子として育てろ」


オスヴァルトの声には、謝罪も説明もなかった。

まるで領地の管理を任せるように、事務的に命じただけだった。


私はその赤子を受け取った。

生まれたばかりの、まだ目も開かない小さな命を。


指が震えていたのは、怒りではなかった。

産着に包まれた赤子が、あまりにも軽かったからだ。

羽毛のように頼りなく、それでいて確かに温かい。


(……この子に、罪はない)


それが、ヴァイスブルク公爵家での私の最初の仕事だった。


婚礼の夜に花嫁衣装を脱ぐ間もなく、他の女が産んだ子を抱かされる。

そんな結婚があるだなんて、嫁ぐ前の私には想像もつかなかった。


実家の伯爵家は名門だが、財政は苦しかった。

公爵家との縁組は家を支える最後の柱であり、私に拒否権はなかった。


だから私は泣かなかった。

泣いたところで、何も変わらないと知っていたから。



あれから12年が過ぎた。


「イルマ様、リタお嬢様の薬湯の調合が済みました」


侍女長のアネッタが、銀の盆を捧げ持って部屋に入ってくる。

湯気の向こうに、甘い薬草の香りが漂った。

カモミールの落ち着いた芳香に、ほのかな蜂蜜のような甘さが混じっている。


「ありがとう。今日はカモミールを多めにしたのね」


「ええ。お嬢様、最近寝つきが悪いとおっしゃっていましたので」


アネッタは公爵家に40年仕える古参の侍女長だ。

白髪の混じった焦げ茶の髪を常にきっちりとまとめ、背筋はいつも真っ直ぐだった。

私がこの屋敷で最初に信頼した人であり、リタの体調を誰より把握している。


薬草の調合は、実家の伯爵家で幼い頃から学んだ技術だった。

西方諸国では薬草学は医術の一部とされ、薬草師は正式な職業として認められている。

だがこの国では「女の手慰み」程度にしか見られていない。

宮廷魔法が華やかな光を放つこの王国では、地味な薬草学は学問としてすら扱われなかった。


それでも、私はこの知識でリタの虚弱な体を支えてきた。

生まれつき気管の弱いこの子に、季節ごとに調合を変えた薬湯を用意し、食事に薬効のある香草を混ぜ込んだ。

冬はタイムとセージの蒸気浴、春はネトルの煎じ茶、夏はペパーミントの冷薬湯。

四季を通して、リタの呼吸を守り続けた。


12年かけて、リタは健やかに育った。

社交界では「公爵家の才媛」と呼ばれるまでになった。


「お母様」


扉の向こうから、透き通った声が聞こえる。


「お母様、今日の薬湯はいつもと違う香りがしますね」


リタが小走りに入ってきた。

亜麻色の髪に、空色の瞳。夫に似た面差しの中に、知らない女の面影がちらつく。

12歳にしてはすらりと背が高く、動作の一つ一つに品がある。

それは天性のものではなく、私が教えたものだ。


12年。

赤子を渡されたあの夜の衝撃を飲み込むのに、私は1年かかった。

受け入れるのに、3年かかった。

この子を心から愛おしいと思えるようになるまでに、5年かかった。

そして残りの7年で、私はこの子の「母」になった。


「カモミールにリンデンの花を少し加えたの。リンデンは菩提樹のことよ。花には心を鎮める作用があるから、眠りが深くなるわ」


「リンデン……。確か、西方では街路樹に植えて、花を摘んでお茶にするんですよね。本で読みました」


この子は聡い。

知識の吸収が早く、一を教えれば三を理解する。

実の母が誰であるかなど、この子は知らない。知らなくていい。


「よく勉強しているわね」


「お母様に教わりましたもの」


リタが笑う。

その笑顔を見るたびに、私の胸は軋む。

愛おしさと、いつか来る別れの予感が、同じ場所で重なるからだ。


リタが何気なく抱きついてきた。

背丈はもう私の肩まである。去年まで腰の辺りだったのに。


窓の外に目を向ければ、薬草園のラベンダーが風に揺れていた。

あの園を作り始めたのは、リタが2歳の時だ。

歩き始めたばかりのリタの手を引いて、一緒に土を触った。

小さな指が泥だらけになるのを見て、アネッタが慌てていたことを思い出す。


あの頃の私は、まだ「耐えている」つもりだった。

いつか報われる日が来ると信じて、ただ耐えていた。


今は違う。

耐えているのではなく、この場所を「選んで」いるのだと、思えるようになっていた。

リタがいるから。この子の笑顔が、私の選択を肯定してくれるから。


(……いつまで、この日々が続くのだろう)


その問いの答えは、思ったよりずっと早く、突きつけられた。


夕刻、オスヴァルトが私の部屋を訪ねてきた。

12年の結婚生活で、夫がこの部屋に来たのは数えるほどしかない。

大抵は書斎からの呼び出しだ。わざわざ足を運ぶということは、人に聞かれたくない話だということだ。


「話がある」


書斎でもなく、応接間でもなく、私の部屋を選んだ。

それだけで、嫌な予感がした。


オスヴァルトは窓際に立ち、こちらを見ようとしなかった。

かつては端正だったその横顔に、この数年で怠惰の影が差している。

顎の線が緩み、目元に疲労が滲んでいた。


「今度の社交季に、私は正式にエルザをこの屋敷に迎える」


エルザ。

名前だけは知っていた。夫がここ数年、王都で囲っている女だ。

使用人たちの間では公然の秘密であり、社交界でも噂が立ち始めていた。


「そして、お前には離縁を申し渡す」


呼吸が止まった。

一瞬だけ。


それから私は、深く、静かに息を吸った。

胸の奥で何かが割れる音がした。だが、表面は平静を保った。


「……理由を、伺ってもよろしいですか」


「理由は明白だ。お前との間に子ができなかった。公爵家の血筋を繋ぐ義務がある」


子ができなかった。

できるはずがない。この人は婚礼の夜から、ただの一度も私の寝室を訪れなかったのだから。


(……12年間、この人の秘密を守り、この人の子を育て、この人の家を守った。それが、この言葉か)


「リタは、エルザが引き取る。あの子の実の母だからな」


その瞬間、私の中で何かが音を立てて外れた。

怒りではない。

もっと静かな、冷たいもの。

長い間ずっと我慢していた鎖の、最後の一輪が外れた音だ。


12年かけて積み上げたすべてを「用済み」と呼ぶなら。

その12年が、どれほどの重さだったか──教えて差し上げましょう。


「承知いたしました。ただ、いくつか確認させていただきたいことがございます」


私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「離縁の条件は、婚姻契約に基づくものでよろしいですね。契約書の写しは、私の手元にございます」


オスヴァルトの表情が、一瞬だけ固まった。

その目に、明らかな動揺が走った。


結婚とは契約だ。

特に貴族の結婚は、愛ではなく法で成り立っている。

感情に訴えても意味はない。だが法には、必ず穴がある。

そしてその穴を見つけるのは、12年間この家の書類を管理してきた私だ。


12年前の私は、泣くことしかできなかった。

でも今の私は、泣く代わりに記録を残してきた。


「では、正式な手続きに入りましょう。……楽しみにしております」


夫の顔から血の気が引いたのを、私は見逃さなかった。


扉が閉まった後、しばらく残り香のように夫の気配が部屋に漂っていた。

高価な香水の匂い。この家の家計からは出ていない費用で買った香水だ。


私は窓に歩み寄り、額をガラスに押しつけた。

冷たさが心地よかった。


薬草園の向こうに、使用人棟の灯りが見える。

あの灯りの下で、アネッタが明日の支度をしているはずだ。


(……アネッタには、まだ言えない。けれど、近いうちに)


夜風がカーテンを揺らした。

書棚の奥に並ぶ12冊の革手帳に、月光が静かに落ちていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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