二度と出てくんな
「お前は馬鹿なのか」
呼ばれて聖パウロ大聖堂にまで出向いてやったのに、新しく司教に叙任されたトバイアス元司祭は、挨拶もそこそこに罵声から話を始めた。
「ああ?」
トバイアスは女性ではない。故に遠慮など少しも感じないグラディスは、堂々と睨みつけた。
「なんで私に禁書を薦めるんだ」
「司教以上なら読んでいいんだから、お前も読めるだろ。読んで悪魔祓いの技を磨け」
「……お前は……もう少し丁寧な言い方もできたんじゃなかったのか」
「必要を感じない。男はすべからくクズだ」
白豚も、白豚を崇拝していた輩も、クソな理由でグラディスを所有物扱いしたクソ悪魔も、全てクズで塵である。
「聖書を初めから読んだことはあるのか阿婆擦れ」
「坊っちゃんがなかなか頑張った物言いじゃないか。ソレで司教か笑える」
「あぁ! もういい。お前とまともに会話が成立するはずがなかった! とにかく、あの禁書を読んだところで、お前のように霊的攻撃力、だったか。それを上げられるとは思えない」
「試す前から諦めるな。早漏かお前は」
トバイアスの額に青筋が浮かんだ気もしたが、きっと気のせいだろう。
「あの悪魔が、お前は巫女だと言っていただろう。お前にはそういう素質があったのだと思っている。……これを言うのは非常に業腹だが、実はエイベル様もお前と同じ聖句を唱えようとしていらしたのだよ。途中で途切れてしまったが」
「豚が人語を唱えようとしても無意味だろ」
どん、とトバイアスは机に拳を振り下ろした。
「私はあの人を尊敬していた。世俗の欲になど囚われない、高潔な魂の持ち主だと! 私とは違うのだと!」
グラディスは怒りに俯くトバイアスを、ひどく冷徹な眼差しで見下ろした。
「じゃあお前はあたしがアレを誘惑したと言いたいわけか?」
トバイアスの言葉も待たず、グラディスは踵を返した。所詮男はみんなそうだ。常にグラディスが悪いと、男共は口を揃えてそう言う。
十二歳のグラディスを保護した家の主人は、未成熟なグラディスが誘惑したのだと罵った。母を亡くし、その傷が癒えないうちにグラディスを強姦しておいて、そのグラディスに責任があるとのたまい、グラディスを淫売宿に売り払った。その後、客として現れたあの男を殺さなかっただけ親切だったと、今でも確信している。
「--思っていない。お前は誰も誘惑していない。この大聖堂を出ることが少ないあの人と、修道院に暮らすお前の接点は少ない。いつもあの人がお前を呼び出していた。お前はいつも嫌そうだった。私はそれが気に食わなかったが……そういうことだったんだ。あの人が、お前に無理強いをしたのだ。私はそれに気づいて、あの人をたしなめるべきだった。お前を庇護すべきだったのだろう。私は無能で、間違えていた。……でもな、それでも、あの人はあんな風に殺されるべきじゃなかった。お前は知らなくても、あの人にはたくさんの功績があったんだ」
「へぇ?」
グラディスは気のない返事を返しつつ、それでもしょうがなくトバイアスに向き直った。気乗りはしない。どれほどの功績があろうと、あの白豚はソーセージの中身になってしかるべき人間だ。
「お前に分かってもらおうというのが、間違いなんだろうな。だが、私はともかく、大聖堂の連中にそういう姿勢を見せるべきじゃない。少しは賢く振る舞って、利口な世渡りをしろ」
グラディスは少し困った。非常に不思議なことだが、トバイアスの言葉にはグラディスを案じている雰囲気を感じる。
「別に一介の修道女がどう振る舞おうが関係ないだろ。そんなことよりお前の方が大変じゃないのか。もうサザークの姐さん達と遊べないんだろ? これから先右手だけがオトモダチなんて、気の毒なことだな」
「そういうところだぞ!」
トバイアスは歯をぎりぎり噛みしめながら恨めしげにグラディスを見た。
「どういうところだ。こっそり姐さん達と連絡とってやろうか?」
「うるさい。もういい。とりあえずお前は大聖堂の連中とは喋るな。頷くか首を振るだけにしておけ」
トバイアスの助言はなかなか的を射ていて、グラディスは満足そうに頷いた。
「やっぱりな。あたしの処世術の方向性は正しかったってわけだ」
「もういい……帰れ……」
呼んでおいて帰れとは異な事だが、どうやら大変な疲労感を覚えているらしいトバイアスの邪魔をするほど性悪なわけではない。
「あぁ。ゆっくり休めよ」
非常に珍しいことながらいたわりの言葉まで言い置いて、グラディスは部屋を出て行った。それが慰安の言葉として効果的だったかどうかはさておき。
夕方だ。ロンドン橋は夜になると格子戸が降りて渡れなくなる。それまでに渡ろうと、急ぎ足で渡っていたグラディスは、ふと足を止めた。先ほどまであれほどいた人が、姿を消している。ふわり、と濃い霧が白く漂い始めた。もう六月なのに。
「…………」
気配を探る。悪魔の気配を、古き神の気配を。アレを神と呼ぶのは業腹だが。
たしたし、と歩み寄る僅かな音に振り向き、グラディスは沈黙した。どう見ても犬である。黒犬だ。毛の短い、耳が途中から折れた猟犬。それに似ている。
「わん」
「いやなにがわんだ。負け犬って言ったの根に持ってんのかクソ悪魔」
隠す気もないらしい不自然な鳴き声に、思わず口を開いて、しまったと眉をしかめた。ものすごく嬉しそうに尻尾を振られてしまっている。相手をしたことに喜ばれている雰囲気を、ものすごく感じた。
「さ、帰るか」
くるりと振り返ってサザークの方向へ歩みを進めると、後ろからたしたしとついてくる足音を感じた。きっと気のせいだと思う。こうなってほしくないという思惑が影響したのだろう。そうだと思う。
「私は餌代がかからないぞ?」
「そういう問題じゃないだろ!」
あまりに突拍子もない言葉に、思わず返してから口を噤んだ。修道院で犬は飼えない。悪魔はもっと飼えない。だから無理。
「防犯目的に強く推薦する」
「お前が言うな虐殺犯」
腹が減ったら修道女を丸呑みしそうだ。そんな犬を番犬と呼ぶつもりは全くない。
「強姦魔は処刑する」
「さいよ--いや、なんでもない」
危うく採用と叫びかけて、我に返る。悪魔の囁きとはこれほどに誘惑力が強いものか。
「お前の関係者には手出ししないと誓ってもいい」
「どれだけの効力があるんだその誓い。そもそもお前って呼ぶな負け犬」
「では、主」
「却下」
もうすぐロンドン橋を渡りきるまで、くだらない問答は続いた。
「やれやれ、職を見つけるのは難儀なことだ」
「そんな就職活動なんかやめてしまえ」
足を進める先に濃い霧はない。格子戸をくぐってしまえばついて来ないという確信があった。
「それでは、また。主」
「二度と出てくんな」
言い捨てて修道院への道を急ぐ。そんなグラディスの背中に、犬らしからぬ忍び笑いが、いつまでもついて回った。




