消えろごみクズ
聖パウロ大聖堂は、天高くそびえる尖塔を霧の中に埋めつつ、グラディスの前に現れた。いつもなら入ることを拒む、東側の扉が開いていた。きぃ、きぃと風もないのに揺れている。まるで、グラディスがここから入ってくることを、他ならない扉自身がそう望んでいるかのようだった。
「エクサウディ・オラツィオーネム・メアム(私の祈りを聞き入れてください)」
グラディスは、胸元のロザリオを手に持ってそう囁いた。聖別されているはずの場所が、悪徳に汚れているから聖句で身を守ろうとする、臆病な司祭のような仕草だった。己のそんな、怯えと惰弱さに嗤う余裕もない。それほどに、悪魔の気配が強い。
開いたままの扉を越え、大聖堂の中に入る。霧は、大聖堂の中にまで侵入していた。白く濁った視界のせいで、見知っている大聖堂の回廊が、未知の場所に感じられた。その中を、切らした息を整えながら、歩く。ロザリオは離さないし、聖水の入った瓶も手の中に握り込んでいる。そのまま歩を進め、主祭壇のある聖堂へ向かう。いつもなら修道女たるグラディスが足を踏み入れることの決してない場所だ。だが今日は。そこに全ての根源が『いる』のが、はっきりと分かった。
「エクサウディ・オラツィオーネム・メアム(私の祈りを聞き入れてください)」
再び、聖句を唱える。主祭壇は、もうすぐそこだ。鼻をつく臭いに、気のせいだと自分に言い聞かせる。血の匂いなど、大聖堂の神聖なる祈りの場所で嗅ぐはずもない、と。ならばなぜ聖句を唱えた、と、他ならない己が嘲笑う。現実を見ろ。悪魔がそこにいる。すぐ、そこに。
「なにを、している」
回廊と聖堂を区切るための、幅がごく狭い場所に立ってグラディスは声を出した。強く見開いた目で、聖堂内を見渡す。
神の御子の像がかかっているその神聖な場所に、引き裂かれた血肉の塊がかかっていた。ぽたり、ぽたりと糸を引くほどに粘度の高い血が、温度さえ感じる熱を保ったまま、滴り落ちていた。
「シスター・グラディス。もう少し待っていれば良かったのに」
穏やかな声。選ばれし人間。天から与えられたような、美貌。
これまでと同じ、慈愛さえ含まれた微笑。
「ルーク司祭」
ぴちゃ、と肉塊から血が床に落ちて、慈悲深い顔をしたルークの足元に広がる。聖堂内のあちこちには、司祭達の亡骸が転がっているのが見えた。
「にげ、ろ……っ」
呻き声に、聖堂内に足を踏み入れた。入口付近の壁に背中をつけて、息も絶え絶えにロザリオを掲げるのはトバイアスだった。
「生きてたのか、若造」
憎まれ口を叩きつつ、トバイアスの前に立つ。別に親しいわけでもなかったが、それでも生き残りがいると知れただけで心に灯がともるようだった。
「あたしが祓ってやる。敬い跪け」
「ばかだろ、おまえ……っ」
重傷を負っているらしい顔見知りの言葉に、グラディスはふん、と鼻を鳴らした。いい度胸だと自分でも思っている。
「アレは、憑いてるのか? それとも?」
改めてルークを見つめたグラディスは、鋭い眼差しを細めた。悪魔は、神に愛された人間ほど取り憑きたがる。神に愛された人間というなら、ルークはこの上ない対象だろう。だが、違和感がある。
「--私に何かが憑いている? とんでもない疑惑ですよ、シスター・グラディス」
穏やかに通る声が、祭壇から響いた。
悪魔に取り憑かれた人間は、普段とは全く違う行動をとる。異常で奇矯な振る舞いを見せるのが普通だ。このルークのように、穏やかに落ち着いた様子を、悪魔憑きは見せない。そんな例など、聞いたことがない。
「その疑惑を晴らすためなら、推測できる答えは一つだけだ。--悪魔の本体がお前。それしかなくなるが?」
届くはずもない、遙か高みにあった尊敬すべき人間。それがルークだった。卑賤で汚れたグラディスには、まともに見つめることも叶わぬほどに、眩しい存在だった。
「ふむ、私が悪魔なら、こうして教会にいるのはおかしくありませんか?」
「穢れた存在、神を恐れるその辺の小物ならそうだろうが。神の教えがこの地に渡る前から君臨していた、古き神。信仰における勢力争いに敗れた神ならばどうだ? 新しい神の威光に恐れひれ伏すような、そんな可愛げはあるのか?」
禁じられた知識だ。司教以上の人間しか読むことを許されない、秘匿された書物に書いてあった存在。神と争ったほどの存在と、ただの人間が戦う術は、あるのか。
「シスター・グラディス。いや、今はグラディスと呼びましょう。古き言葉で王女の名前を持つ者よ。あなたこそ最後の巫女。我らはあなたからもたらされる供犠を待ち望んでいる。それなのに新しい神などに惑わされて。さぁ、正しい行いをなさい。あなたの母が、あなたに託した祭儀を正しく行いなさい。幸い、生け贄ならばこの場に多くいる」
長く伸びた爪を素早く振って、司祭に擬態したその悪魔は血を払った。穏やかな笑顔に、鋭い爪。
『この子は攫ってきた子どもだ』
その年は飢饉だった。母が毎年行う儀式のために、捧げる動物がいなかった。だから母は近くの町から鶏を盗んだ。飢えて腹を鳴らすグラディスの前で、鶏の首を落として神様に捧げた。
『いつか、我が神に捧げる生け贄にするため』
町の人間は、母の薬草の知識に頼っていた。良い関係が、築けていたはずだった。それでも、飢餓は容易く理性を奪った。母は、鶏一羽のために焼かれた。家の柱に縛りつけられ、その家に火をかけられて。
『あたしの子どもじゃない』
母は叫んだ。グラディスの母は自分じゃないと。
『愛したことはなかった!』
燃え落ちる家の中から、最後まで絶叫は響いていた。
「クソ悪魔が」
グラディスは嗤った。
母のあの言葉は、グラディスを生き延びさせるための言葉だったのかもしれない。共に焼死せずにすむように、叫んだ嘘だったのかもしれない。けれど母の嘘は上手すぎた。それが本当に嘘だったのかどうかも、グラディスには分からないほどに。
「私の巫女。もちろん戯れ言は許してあげましょう。私は寛大だ」
「悪魔の戯れ言を聞く聖職者はいない」
母さん。あたしは愛していた。あなたが焼け死んでいく夜を、忘れたことはない。あなたが危険を冒して、命を賭けて祈りを捧げた神は、あなたを救わなかった。救いには、こなかった。
「聖職者? あなたの弱い立場を利用して、淫らな行為を強要する者が、本当に聖職者だと?」
ちっ、とグラディスは舌打ちをした。この期に及んでも、この男からそういう話題を聞かされるのは、愉快な気分にはなれない。
「この男はとても旨そうでしょう? ソーセージにするとちょうど良いと、常々思っていたのですよ。私の巫女に手出しするなど、心得違いも甚だしいと」
神の御子の像にかけられた肉塊を見て嬉しげに言う悪魔。それを見てグラディスは、その肉塊が白豚なのだと悟った。ソーセージにちょうど良い人材なんて、あの白豚ぐらいしか思いつかない。他の聖職者は、良くも悪くも骨張ってゴツゴツしていた。
「っ、ぅそだ、エイベル様が、そんな……っ」
背後で悔しげに憤るトバイアスに、グラディスは苦笑した。
「誘惑なんざしてないぞ?」
この男はどちらを選ぶのだろう。そしてどちらかを選んだトバイアスに、グラディス自身は何を思うのだろう。
まぁどちらにしても、やることに変わりはないな、とグラディスは思った。この悪魔は滅ぼす。決してグラディスが許せない一線を、この悪魔は越えてしまったのだ。この悪魔の擬態に気づかず、ただただ神々しいと崇めていた己が呪わしい。やはり男なぞ塵である。ヘドロであるのだ。もっと早くに割り切っていれば良かった。発情して女にのし掛かるしか能の無い生き物などに、期待なぞするべきではなかったのだ。
「ソルヴェト・セークルム・イン・ファヴィッラ(この世は破壊され灰燼へと帰する)」
グラディスが唱えた聖句を聞いて、初めてルークは、彼の姿をした悪魔は表情を変えた。
「おや、珍しい聖句ですね。私の巫女は勉強好きな頑張り屋だ。さぁ、そんな新参の神に義理など通さず、我らの元に帰ってきなさい」
白豚の腰から失敬していた、聖油の瓶を開ける。ぴしゃ、とそれは遥か遠くへと散らばって、ちょうど悪魔を包囲するような曲線を描く。グラディスの口元が、にぃ、と歪んだ。
「クワントゥス・トレモル・エスト・フトゥールス(どれほど震えることだろうか)」
閉鎖書架の禁書を読んで、思ったことがある。どうしてグラディスには悪魔祓いができるのか、どうして修道女が悪魔祓いという、聖職者にしか行えない聖蹟を行使できるのか。
「どうにも不愉快な音ですね。グラディス。私の巫女。火遊びはやめて、帰っておいで」
ルークの頭から、角が生える。牡鹿の角のように、ねじ曲がって太い角だ。
「クンクタ・ストリークテ・ディスクッスルス(全てのものが厳しく裁かれるときに)」
舌の動きが、重くなる。精神よりも先に体が、警告を発する。この音の、この文言の危険さを。だが怖じ気づく肉体を、グラディスは鼻で嗤った。危険がどうした。この悪魔をグラディスが罰さないで、誰が罰する。決して赦さない。さぁ、祈りの力を聖句に込め、霊的攻撃力へと変換するのだ。
「グラディス!」
聖油がしゅうしゅうと、煙を立てる。その煙が悪魔を包み込んで、逃がさない。
「ディーエス・イレ・ディーエス・イッラ(その日は怒りの日)」
悪魔だろうが神だろうが人間だろうが。男はクズでクソだ。
「ウンデ・ムンドゥス・ジュディセトール(それによつて世界が裁かれる)!」
カッと、煙が白熱した。
「--っグラディス! 我が巫女よ! 何故その神を崇める!?」
白熱した煙に巻かれ、悪魔の体が崩れていく。
「頭を使えよ、クソ悪魔。神は、信仰は、システムだ」
グラディスは嗤った。
「性別も職業も関係ない。精神力を霊的攻撃力に変換するシステムさえ構築できれば、悪魔なんざ誰にでも撃退できる」
それが禁書だろう。閉鎖書架の役割だろう。誰にでもできるからこそ、知識を閉じて占有するのだ。
「塵は滅びろ、クソ悪魔。二度とあたしを『巫女』なんて呼ぶんじゃない」
仕上げに聖水をふった。
「消えろ塵クズ」
「我はっ、滅びぬ……っ」
悪魔の最後の言葉に、グラディスはにぃと嗤った。
「遊んでほしいならいつでもつき合ってやるよ、雑魚悪魔。切り刻んで焼いて溶かして、昇天させてやろう。感謝しろよ負け犬が」
はっと嗤うグラディスの言葉が合図になったように、悪魔を包む煙が収縮して光を放った。咄嗟に目を細めたグラディスの視界が戻る頃には、血塗れの祭壇はそのままに、ルークの姿は消え去っていた。
「……悪魔より悪魔らしい戦い方は、どうなんだ……」
思わぬ感想に振り向くと、トバイアスは真っ青な顔で失神していくところだった。とりあえず無事な顔を踏んでおく。
「……これ、片付けが大変だな」
肉塊と死体と瀕死体だらけの聖堂を見渡して、グラディスはため息をついたのだった。




