弔鐘
逃げ出すように聖パウロ大聖堂を出たあの日から数日。グラディスの『布教』活動は大した寄付を得られないでいた。悪魔が少ない。それまで、必ずといっていいほど感じた夢魔の気配が、淫売宿から消え失せていた。人を惑わす悪魔は都市部に多い。さらにはロンドン市の汚濁を一カ所に集めたようなサザークに、悪魔がいないはずはない。それなのに、気配が薄い。気配を辿ろうにも、風に散ってしまう。それほどに存在が、遠い。
代わって感じるのは、テムズ川の向こうから感じる、重々しい気配だった。なにかが、いる。夢魔のような低級悪魔ではなく、もっと高位の悪魔がいる。そんな気がする。悪魔はかつて天使だったという。そういった類いの、ともすれば神に近しいような存在感。それを感じる。
「……誰かがなんとかするだろ」
なんとかしなければ、という焦燥と、ロンドン市には聖パウロ大聖堂があるという、諦めにも似た許容。あの場所には悪魔に対して神の権威を示す、最高の人材が揃っている。白豚は悪魔祓いの司祭達を統括する地位にいるが、まぁあれには大した働きはできまい。だがその下には、トバイアスがいる。それに、ルークも。それならば、グラディスの出る幕はない。
「ねぇ、やっぱりエイベル様の様子がおかしいんですって」
グラディスの焦燥を余所に、修道女達は意味深な視線を交わしてグラディスの様子を窺っている。今日はライ麦からパンを作ることを任された日だったが、修道女達は手を動かしつつ、大聖堂の噂話に余念がない。祈りと静寂という理念はどこにいった。
「夜中にいきなり叫び出されたんだとか」
「祈祷の最中に、いきなり獣の鳴き声を出されたとか聞いたけど」
その情報源はどこだ。まさかトバイアスか。淫売宿に寄る前に、この修道院で粉でもかけているのか。
「悪魔でも憑いてるんじゃあ?」
どう考えても悪魔憑きの典型だが、場合によっては悩みすぎてそうなることもあるらしい。だがあの白豚に悩みというのが想像つきにくい。抜いてないから溜まってるんだろうか。
「そうなったらどうなるの? シスター・グラディス。誰がエイベル様に取り憑くような悪魔を祓えるの?」
「誰でもできるんじゃないか? トバイアス司祭でも、ルーク司祭でも」
「そんなはずないでしょう! あのエイベル様よ。次に司教になられるという声も高いエイベル様。そんなエイベル様に取り憑くほどの悪魔を、いったい誰が祓えるというの?」
あの白豚はそんなに大した聖職者じゃないんだけどな、とグラディスは思いつつ、求められているらしい表情が困惑や不安らしいとようやく勘づいて、顔を伏せた。
「それは……分からない」
新米の司祭でも可能じゃないかと思いはするが、ロンドン市内には今、重い気配をまき散らす悪魔がいる。アレが聖パウロ大聖堂に関与していたら、確かに厄介だろう。トバイアスでは無理かもしれない。だがルークの手に負えない、ということはないのではなかろうか。ルークの悪魔祓いの腕をこの目で見て知っているわけではないが、ルークの手練れの気配は伝わっている。実戦経験に薄いトバイアスよりは使えると思う。
「悪欲の化身がエイベル様に近づくから」
不意に、吐き捨てるような声が聞こえた。
同輩たる修道女達には、グラディスが悪魔祓いという特権をもってエイベルから特別待遇を得ているとやっかまれているらしい。あの待遇を、代われるものなら代わってやりたい。金を握って淫売宿に駆け込む修道士の方が、ずっとましだ。
「悪魔祓いがしたいなら、やり方を教えるけど?」
グラディスは顔を上げてその修道女を見た。真正面から見つめるグラディスと目が合うと、さっとその女は目を逸らした。雑談に紛れた悪口を叩くのが上手い彼女は、上目遣いで他の修道女に助けを求めている。
「私達に戒律を破るようなことを唆さないで」
案の定、正義感に満ちあふれた同輩がグラディスをたしなめる。他の修道女達も眉をしかめてグラディスを見ている。
「--アホらしい」
ぼそりと口の中で呟き、グラディスは八つ当たりのようにパン生地を、机に叩きつけた。
修道女達が密やかに交わす噂話は、日ごとに不穏さを増していった。白豚の行動は常軌を逸し、それに対して聖パウロ大聖堂の誰かが行動を起こすでもない。誰かがこの件を沈静化すべきと思うが、そうすべき大主教と司教はホワイトホール宮殿に滞在中らしい。この宮殿は去年火事で使えなくなったウェストミンスター宮殿の代わりに使われるようになったものらしいのだが、最近大主教は国王の側に侍り、頻繁に相談を受けているとも聞く。
「なにやってんだ無能どもが」
白豚が心配というよりも、この事態を放置する大聖堂の姿勢が不安だ。なにか良くないことが進行しているのではないかという、朧な予感がする。
ルークから警告を受けて十日後、グラディスはついにロンドン橋を渡ることに決めた。大聖堂の様子を外から眺めて、自分が納得できれば帰る。ロンドン市内の不穏な気配、その原因が分かれば調査してもいいし、出過ぎだと判断できればサザークに帰ればいい。グラディスは修道女だ。本来ならば悪魔祓いをする権限も能力もないはずの、娼婦上がりの修道女。グラディスが行動を起こさなかったからと、責められる筋合いはない、はずだ。
ロンドン橋は夜明けとともに格子を上げ、橋の上に人を通し始める。朝の祈祷が終わってすぐに、グラディスはロンドン橋を渡った。格子が上がりたてのロンドン橋は、まだ人が少ない。海から上がってきた霧が、テムズ河からロンドン市街を、それにサザーク地区を白く覆っていた。五月なのにこれほど濃い霧。異常な光景。
「ロットゥウマ、ベェル、ラリルゥリ、ルゥリ……」
だがロンドン橋を渡ってしまえば、切羽詰まった危機感は溶けていった。いつもの鼻歌を歌いながら、木靴を鳴らして歩く、どこか不敵な修道女の自分が帰ってくる。右手にロンドン塔、左手に曲がれば聖パウロ大聖堂、という角で、グラディスはふと立ち止まった。ロンドン塔の先端も、聖パウロ大聖堂の尖塔も、真っ白な霧に埋もれて影すら見えない。身の回りを二回りほど広げた距離の石畳だけが視認できる範囲だ。その霧の向こうから、聖パウロ大聖堂の鐘の音が聞こえた。
なぜか、弔鐘だと思った。時間を告げる鐘ではなく、誰かの不幸を弔う鐘の音。そう思った瞬間、グラディスは駆けだしていた。
誰もいない。霧に怯えて扉の向こうで縮こまっているような静寂の中、グラディスは木靴の音を響かせて街路を駆けた。他ならぬ聖パウロ大聖堂の方から、邪悪な気配が立ち上っている。その気配に連動するように、脳裏に現れたのは、黒髪の青年だった。生まれながらに選ばれし、教皇になるのが相応しい司祭。神に愛された男。彼を案じていたから連想したのか、それ以外の理由からか。
「はぁ、はぁっ」
息を切らして走れば、大聖堂までの時間は短い。短いはずだ。それなのに、取り返しのつかないほどの時間をかけてしまったような、そんな罪悪感が消えない。




