異変の始まり
本来ならばグラディスのような身分の低い出自の修道女に与えられるのは、二人部屋である。場所によってはもっと多いが、聖メアリ修道院では二人部屋が基本だ。だがグラディスが一人部屋なのは、元娼婦と同室になりたくないと訴えられたからだ。おかげでグラディスは、一人の部屋でゆったりとくつろぐことができるというわけだ。
井戸からこっそり汲んできた水で、下半身を洗う。とはいえ、小さな盥に一杯分だから、洗うというより拭くという方が正しい有様ではあった。今はいいが、冬場には厳しい生活だ。淫売宿なら少なくとも湯はもらえたのだが。
「なんだっけ……ソルヴェト、セークルム?」
足を濡れた布で拭きつつ、今日読んだ本の聖句を思い出す。聖書はラテン語で書かれているから、普段話す言葉と全く違う。全くというか、共通点はあるのだが、それが遠い。薄い共通点だけで覚えるには厳しい言語であった。
「クワントゥス、トレモル……」
ふくらはぎをごしごし、力を入れて拭きながら呟く。グラディスにとって、ラテン語は飯の種である。夢魔を自力で退けたグラディスだが、完全に滅ぼすにはやはりラテン語の聖句が必要だ。それに聖水。
グラディスのような親のない、貧しい娘が生きていくには、娼婦か修道女になるしかない。いや、修道女になれるのは裕福な女の方が優先順位は高い。だからどちらかといえば娼婦として稼ぎ、それから稼いだ小金で商売をするしか、生き延びる術はなかったはずだった。それが異色の修道女としてここにいることを許されているのである。であるからには、その腕を磨かなければ、いずれこの場所からも追い出されるのではないか。その危惧が、グラディスに知識を得ることへと駆り立てていた。
「もしかしたら……いや、考えすぎか」
禁書を読み、知識を蓄え、居場所を作る。
『この子は攫ってきた子どもだ』
自分の力を必要としてくれる場所でなければ、安心できない。
『いつか、我が神に捧げる生け贄にするため』
理由のない愛情で作られた巣は、訳の分からないものが原因で、理不尽に奪われるものだから。
『あたしの子どもじゃない』
あなたの子守歌を覚えている。今でも気づけば口ずさんでいる。でも。
『愛したことはなかった!』
お母さん。あたしは、愛していた。
エールを作って売ることは、修道院の貴重な収入源である。大麦の麦芽を大鍋で茹でて、それを樽に入れ発酵させるのだ。
「ねぇ、大聖堂で変なことが起こってるって知ってる?」
布教と称し、悪魔祓いに行くのがグラディスの日常である。悪魔祓いをすれば寄付も、エールを作って売るよりも稼げる。だから積極的に外に『布教』しに行くのだが、こうしてエール作りを命じられる日もある。何人もの修道女達と一緒に大鍋に薪をくべるのだが、その間は修道女達のお喋りの時間だ。本来なら修道院は祈りと静謐の場らしいのだが、そんな綺麗事がいつも通用するわけではない。なにせここの修道女達は若い女が多いのだ。鍋の煮える音に紛れて小声で噂話を交わすぐらい、可愛いものではないか。
「知ってるわ。あの人のせいなの?」
ちらり、と集まる視線に、グラディスは無表情のまま息を吐いた。なぜ当人がいる場で噂話をしようと思うのか。当てつけにしてはどことなく、寄せる視線が大人しい。大人しいというか、怯えているようでさえある。
「……ねぇ、エイベル様のご様子が変だって、あなた知らない?」
躊躇いがちな沈黙の後、一人の修道女が思いきったように、グラディスに問いかけてきた。思いがけない問いかけに、グラディスは目を見開く。
「はぁ? あたし?」
あの白豚の様子が変なのかどうか、そんなことを知るはずもない。性交渉でしか関わることがないし、その交渉でさえ短時間だ。
「この前のミサで、聖杯が浮いたんだって」
聖杯というのは、神の御子である主の血を模した赤ワインを入れる、金属製の器のことである。ミサで分け合って飲むのがしきたりだが、その聖杯が浮いたことと、グラディスと白豚とが、いったいどういう関係があるのか。
「あたしにそんなことできませんけど?」
参加してもいないミサの場で、聖杯を浮遊させるような力は、グラディスにはない。
「聖杯がひっくり返って、エイベル様の上に落ちたって」
白豚にぶっかけられた赤ワインを思い浮かべ、
「へぇ」
と、気のない返事が出た。けして旨そうだと思ってはいない。
「悪魔の仕業だって噂で」
「よりによってエイベル様だなんて。でも分かるわ。一番主に愛されてる方だもの」
「はぁ」
あの白豚が、神から一番愛されているとはちょっと考えにくい。餌としてならともかく。
「神に愛されている者が最も悪魔から狙われるって聞くもの。ねぇあなた、エイベル様のご様子はどうなの? 苦しんでいらっしゃるとか」
「いやなにも」
嬉々として腰を振っていた以外は何も知らない。
「この試練を乗り越えられたら、いよいよ司教様になられるのかしら」
「清らかな方だもの」
「ぐふっ」
零れかけた息を、咳払いでこらえる。
「あら、でもルーク様は?」
「ルーク様はお若いじゃない。貴族ではないし。でもきっとエイベル様のお次に司教になられるに違いないわ」
「その次はトバイアス様ね」
聖パウロ大聖堂はこの修道院から近いだけあって、修道女達にも司祭達の顔が知られている。
「トバイアス様は行いがちょっと……」
「あら、相手にされないからって嫉妬は良くないわ」
若い司祭が娼婦を買うのは、暗黙のうちに認められている。が、年若い修道女にとって、愉快な話ではないのも事実だ。だがグラディスとしては、
「手近な修道女を食い散らかさないだけ、ましなんじゃないか」
と思う。もちろん、囁くような声音は同輩達には聞こえていない。
煮えた大麦の汁を樽に移す段になって、グラディスは修道院長に呼ばれた。
「シスター・グラディス」
厳めしい顔に、どこか疲れが滲んで見えた。
「はい」
樽から離れて院長の側に向かうと、
「大聖堂に向かうように。エイベル様がお呼びだそうですよ。くれぐれも失礼のないように」
と指示され、思わず顔が歪みかけた。交渉を行った後は数日空くはずなのに、昨日に続いて連続だ。いや、もしかしたら性交渉以外の用事があるのかもしれない。そう思い、グラディスは修道院長に頭を下げ、大聖堂に向かったのだが。
「よく来たね、グラディス」
まさかの性交渉だった。
機嫌良くグラディスを"使った"後、鍵を渡して出て行った白豚に、グラディスは首を傾げた。今までの白豚は、もう少し慎重だった気がする。聖蹟を使えないはずの修道女グラディスが、悪魔祓いをした報告を聞くため。それが本当に成功したかどうかを判断するためという前提を崩さず、何日かに一度の交渉だったのだが。
「ふざけんな」
汚れを布で拭き取って、眉をしかめた。こういうことは白豚の評判だけではなく、いや、よりいっそうグラディスの評判に関わってくるからやめてほしい。どうせグラディスが誘惑したとか言われるのだ。やめてくれ。どうせ誘惑するならもっと金持ちの老人にする。
むしゃくしゃする心地のまま、服を直して模写室から出る。そのまま閉鎖書架に向かおうとして、鼓動が跳ねた。
「……っ」
どういう顔をすればいいか、分からない。頬を赤らめ、敬愛の顔を向ければいいのか、それとも素知らぬままの無表情でいればいいのか。この場に合った表情の作り方が分からず、小娘のように立ち尽くす己が不甲斐ない。
「シスター・グラディス。顔色が良くないように見えますが」
本を傷めないために、図書室はそれほど明るくない。その、昼間なのにどこか薄暗い、静謐な図書室に、穏やかな声が響いた。その声に、グラディスは動揺を表さないだけで精一杯だった。
「大丈夫、だけど」
もっといつもの自分でいたい。自分が自分ではないみたいな、ふわふわと落ち着かない状態に嫌気が差す。
「先ほどエイベル司祭が出て行かれたようです。なにか、問題でもありましたか?」
ルークの言葉に改めて見上げると、闇のように濃い黒瞳が、グラディスをじっと見下ろしていた。なぜか、知られている、と感じた。かっと顔が熱くなる。羞恥と、怒りと、情けなさ。頭がそれらの感情で茹でられて、煮えている。
「別にっ」
誰に気づかれても、鼻で嗤って流せる自信があった。この男以外になら。
自分の体の奥の奥を、白豚に明け渡して好き勝手を許したのだという屈辱が、それをよりによってこの男に勘づかれたのだという確信が、怒りの炎を燃やす。だが怒りにまかせた視線は、ルークの温和な眼差しにくるまれて、力を失った。怒りを失えば、待っているのは無力感だ。確かな居場所もない、捨て子で孤児で、娼婦だった女。
「もう、ここに来るのはおよしなさい。事態が収まるまでは」
伏せた目にルークの木靴が映り、穏やかな声が頭上に降ってきた。弱く、情けなく、踏みにじられるだけの弱者であるグラディスを、憐れんで出された声なのか。確かめることさえ、グラディスにはできなかったのだけれど。




