ルークという司祭
夕方まで図書室で禁書を読みあさっていたグラディスは、夕刻の鐘の音を聞いて伸びをした。そろそろ修道院に帰らなければ、夕食を食べ損ねてしまう。残しておいてくれるなんて慈悲はないと知ってもいるし。
「しょうがない、帰るか」
書架に聖書の解釈本を戻し、鍵をかける。確かに下級聖職者にはとても読ませられない、挑戦的な書だった。満足しつつ鍵をいつもの、書架の影になる窪みに置いておく。明日にでも白豚が取りに来るだろう。
図書室から廊下に出て、来た時と同じく回廊を北側から西の通用口に向かって進んでいく。もうすぐ夕方の祈祷の時間だ。だからこの辺りを歩く人影はいない。いない、はずだった。
「シスター・グラディス」
グラディスは前方から歩いてくる司祭を見て、僅かに棒立ちになった。いつもなら咄嗟に取り繕う表情が、強ばったまま動かない。この男と会う時、グラディスはいつもこんな風になってしまう。どんな態度をとるべきか分からない。トバイアスに対するみたいに、冷笑と僅かな油断を込めた、ずうずうしい態度をとったり、白豚エイベルに対するみたいに必要最低限の言動に留めたり。そういう、こういう時はこうするのが一番楽で害がない、という行動が、この男に対してはとれない。
さらにはこの男に対して、どういう態度が最善で最悪なのか、それも分からない。加えていうならば、どんな態度をとったとしても、この男にはなんの影響も与えないのだろうと確信できるからこそ、余計にどんな態度でいればいいか分からなくなるのだ。そして何より無表情でいることを妨げるのが、グラディスの体温だ。どうしてだかふわふわとして熱っぽい状態になってしまう。そのせいで無表情ではいられない。何故か間の抜けた表情になってしまうのだ。
「……ルーク司祭」
司祭ルークは、この教会でも異色の司祭だった。悪魔祓いの聖蹟もこなす上に、その知識量も莫大で、信徒に対する態度も模範的。出身はどうやら貴族家ではないらしいが、高貴で美しい容貌に、恵まれた体格。彼に対しては貶す言葉が見つからない。生まれながらに選ばれた男。グラディスにとって、ルークはそういう男だった。彼が若くしてローマ教皇になったとしても、グラディスにはなんの驚きもなかっただろう。むしろ未だに司祭職にある方が不思議でならない。どうしてあの白豚が司教位に一番近いのか。この教会の聖職者どもの目は節穴かと密かに思っている。
それほどに完璧な男だからこそ、相対する時にものすごく居心地が悪い。なんせこちとら娼婦上がりの修道女である。修道女ということは、聖職者ではないのである。その修道女が我が物顔で聖パウロ大聖堂内を闊歩しているわけで、他の誰に非難がましい目で見られようと平気なグラディスだが、さすがにこの清廉の極みとでも呼ぶべきルークに見咎められれば、おちおち出入りもできなくなる。まぁ好き好んで出入りしているわけではないが、鍵付き書架の本を読めなくなるのは少し残念ではあるわけだ。
「これから帰られるのですか? もう暗い。送っていきましょう」
「いやっ、すぐそこなんで!」
さらに居心地が悪くなるのは、ルークはグラディスにも親切だということだ。グラディスにも丁寧な言葉を崩さないし、グラディスのような生まれ育ちの女にも庇護すべき対象として丁重な姿勢を保っている。正直、どう対応していいのか分からない人種でもあった。
「ロンドン橋の向こうでしょう? サザークは治安もあまり良くないと聞きますが」
「ロンドン橋を渡ればすぐなので。心配、ありがとうございます」
ルークと話す中で自然と身につき始めた、丁寧な話し言葉に、自嘲する余裕もない。
「そうですか? あまり無理なさらないように」
「ありがとうございます、ルーク司祭」
様とつけないのは、最初の頃つける度に訂正されていたからだ。ルークは相対するのが女信徒だろうが修道女だろうが貴族の子女だろうが、同じく丁寧な態度を崩さないので、この界隈ではものすごく人気がある。悪魔祓いで訪れた家の女が、悪魔そっちのけでルークに夢中になるという笑い話も、笑い事ではすまない頻度で聞く話だ。
それなのに、彼が淫売宿に通ったという話も、人妻に手を出したという話も、貴族の夫人の誘惑に乗ったという話も聞かない。トバイアスが淫売宿では人気者というのに比べると、同じ人間とはとても思えない。人間というか、男ではないのかもしれない。男色家という噂も聞かないが、そうであったなら逆に納得できるほどに身綺麗な男であった。
「気をつけて」
穏やかな声に背を押され、丁寧に頭を下げればいいのか、それともいつも通りにさらりと会釈すればいいのか分からないまま、グラディスはぎくしゃくと曖昧な動きで、会釈よりも深くてお辞儀よりも浅い礼をして、その場を逃げるように去った。
世界で一番苦手な男。それが司祭ルークである。
深くなる夕暮れが夕闇に変わる前に、聖メアリ修道院に到着した。それほどに近い距離である。夕方の祈祷がこちらでも始まっていて、入口の扉を開いてそっと加わったグラディスを、仲間であるはずの修道女達が鋭い目で睨んだ。
はみ出し者を嫌うのは集団の本能のようなものだろう。修道女というのは、祈ることで天国へ確実に行けるようになりたいという人間の集団だと、グラディスは思っている。修道士と同じで、つまりは敬虔な信徒の一団というわけだ。
その一方で、聖職者である司祭らは、迷える人々が神の教えを守るために教え導く立場であるらしい。神からその権限を託された聖職者らは、彼らだけが扱うことのできる『聖なる奇蹟』、聖蹟を執り行うことができるのだ。洗礼や結婚、終末の秘蹟など、人間が生きる上で根幹となる事柄に対し、強い権限を持っている。そしてそれは、悪魔祓いにも適用されるのだ。
そう、本来ならば正式に叙階されていない修道女が、悪魔祓いという聖蹟を執り行えるはずがないのである。資格がないのはもちろんなのだが、能力も神から貸与されていない、と思われている。だが、グラディスは悪魔祓いができる。だからこそ、同輩たる修道女達にもやっかまれているし、司祭らからは掟破りだと眉をしかめられる。
――爺が『いい』って言ったんだから、いいんじゃないのか。
娼婦だった頃に、取りついた夢魔を自力で退治し、それを目撃した老司祭によって、悪魔祓いのできる修道女として修道院に預けられたのがグラディスである。文句を言うなら、グラディスを悪魔祓いに推薦したあの爺に言ってほしい。ロンドンからローマに異動して、今はもういないけれど。
祈祷が終わり、夕食の時間になって、グラディスの前に運ばれてきたのはスープの一皿だけだった。これにライ麦パンが一つつくのが食事であるはずだが、グラディスの前にはない。
「えぇと」
ちらりと回りを見渡して、すぐにグラディスは諦めた。同輩らのひやりと鋭い目に、パンの一つで彼女らの気が晴れるならばしょうがない、と悟ったのである。遅刻したグラディスが悪いと言われればそうでもあるし。
薄いスープをゆっくりと飲み干し、グラディスは同輩らを置いて席を立った。女同士の衝突は、淫売宿に比べれば甘いものだ。だが上品な分、どこか陰湿でもある。これ以上彼女らを刺激しないためにも、グラディスはそそくさと部屋に引っ込んでいった。




