白豚司祭
聖メアリ修道院を出て、ロンドン橋を渡りテムズ川北岸に移動する。テムズ川北岸こそが選ばれし者の都、ロンドン市だった。市壁に囲まれたロンドン市街は、醜い者やおぞましい者をサザーク地区に放逐し、正しく美しい者だけで構成されていると胸を張っているような都市だった。とはいえ、国王の暮らす王宮も議事堂も市壁の外、ロンドン市郊外にあるのだから清く正しいと言われても、そうか、としか言いようがない。昨今の、王妃と不仲らしい国王が清らかで美しいかと言われれば話は違うが、かといって国王が醜いなどと言える者もいないだろう。
聖パウロ大聖堂は、そのロンドン市の西側に位置する教会だった。聖メアリ修道院からは一マイルほどの距離だ。散歩がてらに歩けるような近さのその教会が、グラディスにとっての上司がいる場所だった。
「ロットゥウマ、ベェル……」
昼過ぎの雑踏の中、修道服に身を包んだグラディスが密やかに口ずさみつつ聖パウロ大聖堂に向かっているのを、見咎める者は誰もいない。修道士や修道女、それに司祭など、ロンドン市民が目を留めるほどのこともない存在である。馴染みすぎて目が滑るのだろう。
ロンドン市西部に偉容を表す聖パウロ大聖堂には、悪魔祓いの専門家達がいる。本来、正式に叙階された司祭以上の者でなければ悪魔祓いはできないらしい。そのため、悪魔祓いができるグラディスは、この聖パウロ大聖堂にも非公式に籍を置いているのである。あくまでも非公式だし、たとえ非公式だろうと修道女であるグラディスが、権威ある聖パウロ大聖堂に籍を置いているという事実に憤る司祭も多いのだが。
そのため、グラディスは聖パウロ大聖堂の裏手にある、西側に面した通用口から出入りすることにしている。聖メアリ修道院からは遠いのだが、背に腹は替えられない。
さて、白豚司祭はいつもの場所にいるだろうか。そう思ったグラディスは、聖堂内を歩き始めた。こっそりと、影が移ろうような静けさで。だがそこまでしてグラディスが気を配っていても、いけすかない人間は彼女に気づくものだ。
「おや、サザークから娼婦が来ている」
北側の回廊を歩いているグラディスに、そう声を掛けたのは司祭トバイアスだった。まだ二十代前半の若さで、貴族出身の貴公子だ。そして悪魔祓いの同僚でもある。
「いたのか若造。小さすぎて気づかなかった」
移動時には遠慮がちな態度を示していたものの、喧嘩を売られれば買う程度には、グラディスは好戦的である。
「まだ商売するには早い時間じゃないのか」
トバイアスのような、貴族出身の司祭は主教になるのも早いと言われている。神への祈りではなく、出身によって位階が決まるというわけだ。別にそれをとやかく言うほどグラディスも青くはない。
「甘ったれた坊っちゃんが、姐さん達にせいぜい搾り取られないように気をつけな」
とはいえ、トバイアスの積極的なけんか腰は、グラディスにとっては居心地のいいものである。遠慮せずにすんでいいし、それほど後も引かない。厄介なのは遠巻きに嫌がらせをしてくる種類の人間なのだ。隙を見て空き部屋に引きずり込もうと虎視眈々な人間の方が、実害がある分グラディスにとっては厄介だった。
「今日もエイベル様に媚びを売りにきたのか。懲りない女だな」
「夢想家は黙ってろクソが」
何故こうも白豚司祭が尊重されているかというと、この聖パウロ大聖堂内で最も主教位に近い男がそのエイベルという司祭なのである。白くむちむちとした肌がやけに艶やかで、グラディスにとっては食べ頃の豚にしか見えないのだが、トバイアスや修道院長には彼がどのように見えているのだろうか。
「エイベル様に失礼のないようにするんだぞ」
グラディスの罵声を聞き流せる様子は好感が持てるものの、あの白豚を尊敬しているらしい様子なのには理解ができない。どこがいいのだ、あんな白豚。グラディスだって義務がなければ会いたくもない豚なのだが。
「意味が分からない」
トバイアスの忠告らしきものを聞き流しつつ、グラディスは白豚がいつもいる図書室に向かう。まだ何やら言いたげだったが、グラディスの背中に浴びせるほどの言葉はないらしい。育ちが良いのはいいことだ。サザークではとてもこうはいかない。
回廊を巡り、図書室の扉を開く。エイベルという司祭はこの図書室の管理を任されている。入ってすぐが信徒に開放された部分で、奥には司教しか読むことを許されていない、鍵付きの書架がある。その鍵を持つのが白豚エイベルである。
「司祭サマ」
どうにも口が痒くなるのはしょうがない。
「グラディス、よく来たことだ」
好々爺を装っているかのような、福々しい笑顔を浮かべた白豚が、図書室の奥から現れた。コレが司教に一番近い男、である。言行正しく、清廉で温厚だというこの白豚は、己の評価を何よりも大切にしていた。
「さぁグラディス。話を聞こうではないか。こちらにおいで」
グラディスの手を、エイベルの手が握った。肉厚な手は、筋肉よりも脂肪で構成されているように感じる。じとりと湿った感触に、鳥肌を立てるほどではないが、軽く肩を震わせた。
グラディスの手を引いて模写のための部屋を開いたエイベルは、穏やかな声で言った。
「それでは、服をめくりなさい」
司祭が娼婦を買うのは、半ば公認されている。そうでもしなければ、男性の本能というものが静まらないことを、誰もが自覚しているのだ。だが、その中でもそういった本能に逆らい、身を慎んで清らかに過ごしている者の評価は、やはり高い。
「はい、司祭サマ」
つまり、表立って娼婦を買うことをしない代わりに、この白豚はグラディスで用を足しているというわけだ。娼婦上がりの修道女にして、叙階を得ずに悪魔祓いを成功させる異端。そのグラディスならばエイベルの行いを訴えるはずもなく、たとえ訴えたとしても誰も信用しない。上手いところをついていると、そればかりはグラディスも感心している。
初めて白豚がグラディスを"使った"のは、グラディスを娼婦から修道女に推薦した司祭がローマに転勤になってからだった。彼の代わりにグラディスの上司となった白豚は、その権利を手にグラディスに奉仕を迫った。あの時は絶望したものだ。ようやく体を売らずに生きていけると思っていた矢先に、他ならない救い手から体を求められたのだ。何もできず、子どものように震えて体を好きに使われて、そうしてグラディスは気づいた。このまま、被害者で居続けるか、対等な取引にするかを決めるのは今しかない、と。だからグラディスは選んだ。己の心を傷つけることなど許しはしない。だからこそ、限定的に娼婦になる、と。
娼婦だった頃と違い、今のグラディスを『買う』のはこのエイベルぐらいである。しかもそれほど頻繁というわけでもない。ならば生き残るために娼婦として振る舞うことは必要なことと飲み下せはするのだが、この白豚が聖人と崇められるのは納得がいかない。ただの早漏白豚である。いや、娼婦にとって事が早いのは大変に助かるものではあるのだが。
模写用の机でけしからぬ行いを終えた後、エイベルは慈悲深い顔を取り繕ってグラディスに鍵を与えた。
「夕刻までには返すのだよ」
そう言って渡された鍵こそが、司教専用の書架の鍵だった。グラディスが求めた取引の、成果がこれだった。
「ありがとうございます、司祭サマ」
にこりと微笑って受け取ると、エイベルは実に機嫌の良さそうな顔で頷き、部屋を出て行った。あれほど早い情事では、疑われることもないだろう。早いということはとはまことに良いものである。
「さて、読むか」
司教専用ということは、司教にのみ許された知識があるということである。知識は、知恵は己の身を助けるということをグラディスは知っている。白豚との関係で孕まないのも、グラディスがかつて得た知識で避妊しているからに他ならない。
情交に特有のこもった空気も、あれほど短いものであれば大して気にはならない。布で下半身を拭き取ったグラディスは、何事もなかったように書架を漁り始めたのだった。




