境界を越える
次の日、グラディスはオーフェリアを尋ねていた。音楽に対して相談できる相手、と考えた時に、真っ先に頭に浮かんだのが彼女だったからだ。
「どうしたのです、シスター・グラディス。昨夜のミサは、あなたがトバイアス司教様に無理を言ったからだと、もっぱらの噂ですよ」
修道院で一番広い部屋で、彼女は刺繍をしていた。何かあるといつも胸に抱えているリュートは、壁近くに置いてある家具の上に鎮座している。
「事実無根だ」
トバイアスは結局、万聖節の前夜にミサをした。しかも一晩中。そのことに関して感謝はしているが、グラディスが強制したことではない。しかも一度は断られているのだ。よってグラディスのせいではない。事実無根である。
「なんだか昨夜はとてもおかしな夜でした。けれど不思議と清々しい心持ちでもあるのです。……あなたにはこんな繊細な心持ちは分からないでしょうが」
ちくちくと白い布に糸を縫いつけながら、視線をこちらにやりもせずそう言うオーフェリアに、グラディスは笑った。
「頼みがある」
そう告げると、オーフェリアはむっとした雰囲気をかもし出しながら刺繍を机の上に置いた。顔色は変わらないのだが、不服だという雰囲気が伝わってくるのだ。グラディスも貴族の女性の機嫌が分かるようになってきたということだろう。
「なんです」
「賛美歌を作ってほしい。曲はある。だからその曲に合わせた歌詞をつけてほしい。あと、楽譜? っていうのか? そういう、演奏者が見れば演奏できる指南書を書いてほしい」
「なんのためです」
オーフェリアがグラディスをじっと見た。返答のしようでは断ると言わんばかりの視線の強さだった。
「季節を正しく回すためだ」
古き神を新しき神のやり方で祀るために、教会で歌う賛美歌を作る。音律さえ正しければ、語句が変われど関係ないだろう。古かろうが新しかろうが、『神』を称える歌だ。古き神の旋律に乗せて歌えば、届くはず。そして、祈りは力だ。賛美歌に乗せた祈りの力を、古き神に届ける。そうすれば、血にまみれた生け贄など必要なく、季節は回るのではないか。足りなければグラディスが歌う。昨晩グラディスが歌い、祈りの力を捧げて彼らの力としたように。
「全く意味が分かりません。……聞くだけ聞いてみましょう。歌ってごらんなさい」
僅かに眉をしかめてオーフェリアが急かした。表情が動く、ということは、表情通りの不愉快な感情を抱いているわけではなさそうだ、と判断してグラディスは頷いた。全く貴族の女は分かりにくい。
「ロットゥウマ、ベェル、ア、カミドゥ、クリィデ」
「不思議な言葉ですね。ロンドンにはない、土着の言語に聞こえます。それに旋律もそのような」
「ほら、貴族の世界だけがカトリックなわけじゃないだろ? たまには下々の者のための賛美歌があってもいいじゃないか」
へらりと笑って誤魔化すと、オーフェリアは仕方なさげに笑った。
「シスター・グラディス。あなたは、少し変わりましたね。表情が豊かになりました」
貴族の女に表情が豊かになったと言われることは、果たして褒め言葉なのかどうか。
「褒めているのですよ、これでも。あなたは今まで、自分の世界にだけ閉じこもっている傲慢な人間に見えていました。そういう特徴が、和らいだ気がします」
「貴族の女に、傲慢だって言われるのか……」
軽く、どころか大いに衝撃的だった。あんなに目立たないよう、大人しく過ごしていたというのに。
「お黙りなさい。わたくし達は誇り高いのですよ。……その音楽は聞き慣れませんが、悪くありません。さぁ、続きを歌いなさいな」
オーフェリアに促されて旋律を口ずさむ。
この賛美歌ができたら、聖パウロ大聖堂でも歌わせるよう、トバイアスに依頼しに行こう。顔をしかめるだろうが、神は、信仰はシステムだ。この世界と神々の世界を上手く回すように作られた、システム。最終的には納得するだろう。するといい。
「ロットゥモ、スルゥテン、ニィルゥ、スゥネッシェ」
歌いながら、グラディスは知らず微笑んでいた。
春を控えたある日、自室に帰ったグラディスは、一人部屋のベッドで大きな顔をして寝そべる黒犬に、うんざりした顔をした。
「おい。冬を迎えに行進してったんじゃないのか」
鹿の角を生やした美丈夫はなかなかに立派な姿に見えたのに、だらしなく寝そべっている今の姿はその印象を台無しにしている。
「行進は見届けた。我には別の責務がある」
「なんだ責務って」
なんとなく嫌な予感がする。
「我が愛し子を見守るという責務だな」
黒犬の口元が、にやりと割れて避けたように見えた。
「ふざけるな。言っとくがあたしはまだお前の惨殺事件を許してないからな。被害者がどういう人間だろうが、お前のように命を粗末にする存在は許すわけにはいかない。それにお前、あたしをわざと呼び込んだだろう? 生け贄と巫女を同じ場所にいさせることで、儀式を成立させようとしてなかったか?」
長らく胸にくすぶっていた疑念である。この悪魔にいいように利用されたのではないかという疑念だ。
「我が愛し子は本当に頭が良い」
「肯定してんじゃないくそったれ」
やはりこの悪魔は有害だと、聖水の瓶に手をかけた瞬間、黒犬が大きく伸びをした。
「我の天秤は、どうやらもう保たないようだ。新たな天秤の行方は、さてどうなることか」
ふ、と森の香りが鼻をくすぐる。扉を閉める作業で嗅ぎ慣れた匂いに、グラディスは顔をしかめた。
「おい、どういうつもりだ」
サザークの聖メアリ修道院、その自室に立っていたはずのグラディスは、再びティル・ナ・ノーグに立っていた。そう、何度も悪魔から人間を守るために来た、ティル・ナ・ノーグのはずだ。濃い霧に覆われた、深い森。そのはずなのに、霧が晴れていた。
「……ティル・ナ・ノーグ……?」
頭上高く生い茂る大木から零れる日差しは、どこまでも透明に澄んでいた。葉擦れの音が賑やかな音楽を奏で、まだらな日差しの模様が描かれている地面を、小さな動物がすばしっこく駆けていく。
「ここが……?」
「本来の姿なのだよ、これが。あぁ、いったい何時ぶりの姿だろうか」
黒犬がそう呟き、それから犬の姿を崩した。ぐしゃりとよじれた影は瞬く間に大きく膨らみ、ソレは牡鹿の角を生やした、人間の男の姿に変わっていた。葉脈の浮き出た、不思議な衣をマントのように、ふんわりと体に纏わせている。筋肉の逞しくついた裸の腕が空に上がり、指が一本立ってようやく、グラディスはその男がどこかを指し示しているのだと気づいた。
「あちらだ。行こう」
グラディスの返事を待たず、黒犬だった古き神は歩き始めた。その足をよく見ると人間の足ではなく、鹿の蹄のような形をしていることに気づいた。当然、裸足である。その後を追いつつ、辺りを見回す。まるで違う。これまでのティル・ナ・ノーグが悪魔の世界ならば、今のティル・ナ・ノーグは祝福された大地だ。たかが……たかが、季節を一つ、正確に回しただけで。
木々はグラディスらの行く手を遮らない。視界の真ん前に木々があるように見えるのに、近づけばすいと逸れる。動いているようにも見えないのに、決して彼らはグラディス達の邪魔をしない。まるでグラディスをこの森の客人として歓迎でもしているかのように。
ゆったりと、だが大きな歩みで進んでいた古き神は、そこが目的地だったのだろう、古く大きな樫の木の前で立ち止まった。
「さぁ、こちらだよ、愛し子」
気軽に呼びかけるな、という抗議の声も、不思議なほどグラディスの中には湧いてこなかった。この森の存在に飲まれている、のかもしれない。
樫の木の根元に、大きな洞穴があった。古き神は、その洞穴へと入っていった。大きな体が、洞穴の闇の中に消えていく。グラディスは、すぐにでも後を追いたいと願う本能的な欲求を閉ざした。息を吐く。また吸って、それから吐く。どうしてか、ここが境界なのだと分かった。こちらとあちらを隔てる境界。ティル・ナ・ノーグとロンドンを隔てる境界以外にも、ティル・ナ・ノーグの表面と内奥を隔てる境界があるのだと。
この境界を越える意味が、果たしてグラディスにあるのか。越える必要が、あるのか。ただの人間として、元娼婦であり修道女であるグラディスとして、古き神に仕えていた母を持つ娘として、考える。目を閉じ、己の中を探り、それから目を開いてグラディスは笑った。
「――……意味なんざ、あたしが決めてやる」
越えるからには、越えた意味を見つけてやる。そう笑ってグラディスは、一歩を踏み出した。




