狭間の天秤
洞穴の中は仄かに明るかった。じんわりと青い光を放つ苔が生えていて、大木の内側をそこここで彩っていた。古き神は数歩進んだ場所でグラディスを待っていて、現れたグラディスを見るとふ、と微笑った。それから前を見て進む。その後を、今度こそ遅れないようについていく。
といっても道は一本道だった。なだらかに下る一本道は、蛇行しながらもほどなくして最奥にたどり着いた。道の突き当たりは枝垂れた葉が扉のように覆っていて、グラディスらが近づくとふわりと持ち上がり、その先へと通した。その先は、広間だった。広間を見下ろす露台のような場所に立ち、グラディスは口を開いた。
「ここ、は……」
頭上遥か高くから、ちらちらと光る粉が舞い落ちてくる。それを受け止める、天秤。その天秤が傾いた方から粉はちらちらともう一つの天秤に降り積もり、その粉の重みで傾いた天秤からまた先へと、粉が降り落ちていく。そう、無数の天秤。それが大樹の中に浮いていた。傾き、粉を零し、その連続がさらに下への天秤を傾けていく。無限に連なっていくような、天秤の数。視線を下に向ければ、遥か下に巨大な三つの天秤が見えた。光り輝く天秤と、静かに光る天秤。その少し上に浮いている、小ぶりの天秤は青く揺らめいていた。そのさらに下にも天秤はあるようだったが、露台から覗き込んでも暗さに目が眩んで、杳としてしれない。
「ほら、あれが我の動かそうとした天秤だ」
そう話しかけられるまで存在を忘れていた古き神の声に、グラディスは一瞬肩を動かした。言い訳をする前に、視線が吸い寄せられるように、その壊れかけの天秤に向かった。
「あれ、が」
その天秤は、グラディス達の視線より頭一つ分上に浮いていた。粉を受ける台が割れ、せっかく受け止めた粉が宙に消えてしまっている。
「無理に動かした天秤は、壊れるのだ。ほら、聖なる砂が零れてしまっている」
「お前のせいか」
グラディスには触る気にもならない天秤だ。何故だろう。もし触って、その釣り合いを損ねたら恐ろしいことが起こるような気がするのだ。
「そう。そして……ほら、見るといい。あそこにほら、新しい天秤ができつつある」
古き神の指さす方を見る。
無数の天秤が浮く場所にも、なぜか境界があった。薄く透明な布に分断されているような場所が、幾つかある。そのはっきりと目に見えるわけではない薄い布を跨がるようにして、視線の頭二つ分上に、天秤の形が少しずつ現れかけていた。
「なんだあれ……」
「あれは、そなたが作ろうとしている天秤だ。ティル・ナ・ノーグの天秤と、新しき神の天秤を結びつける、狭間の天秤なのだよ」
「狭間の、天秤」
「そう。天秤が境界を跨ぐことはない。なかった。だがそなたの天秤は、こうして境界を跨ごうとしている。そしてほら、我が壊した天秤の粉を、零さぬように上から取り除こうとしている」
壊れた天秤に降りかかる粉を横取りするような位置に新しい天秤はあって、台がきちんと形作られれば無駄になる粉がなくなるのだろうと思わせた。
「……おい、どういうことなんだ。この天秤はなんなんだ。あたしが天秤を作った? どういう意味だ?」
さらさらと粉が零れ落ちる、その音を邪魔しないような小声で古き神に問いかける。
「ここは調和と循環を司る、天秤の間だ。冬の寒さと夏の暑さの釣り合いが、翌年の収穫を左右するな? つまりはそういう小さな釣り合いから、大きな存在への循環を司っている。とはいえ、我が関与できる天秤は少ない。境界から向こうへは無論、手の届かぬ場所の天秤には影響の与えようがない」
「小ささのたとえがおかしいだろ」
季節の天候と収穫が小さいことならば、大きなことはどれほどの規模なのか。グラディスは下を覗き込み、即座に目を逸らした。遥か下、大きな三つの天秤よりもさらに下に、その台座の一部しか目にできないほど巨大な天秤がある。闇に慣れた目でも、真っ暗にしか見えないその天秤の、あまりの計り知れなさに目を逸らすしかない。
「あぁ、気づいたか。さすがは我の愛し子。アレは原初の天秤だ」
「いや、いい。説明しなくていい。あたしには見るだけでも荷が重い」
遮ると、牡鹿の神は仄かに微笑った。
「それが分かるだけでも異常なほど素晴らしいことなのだが。――さて」
さて、という言葉で森の香りが消えた。ぽすん、と間の抜けた音が耳に届いてようやく、グラディスは自室の寝台の上に腰を下ろしていた自分に気づいた。
「――おい」
いきなりティル・ナ・ノーグから移動させられて抗議する。
「ただの人間が長居するには苦しかろう。さて、愛し子よ。新しき天秤を作ろうとする勇敢な者よ。我は感謝しているのだ。天秤の守り手として」
「あんなもん、守りようがないだろ」
遥か底にずっしりと存在していた巨大な天秤を思い出して、グラディスは微かに震えた。
「そうだろうか。天秤は、いかに巨大なものだろうが、ほんの少し重さが違うだけで、傾きを変えてしまうものだ。そのほんの少しが、我の管理する天秤の中から起こるかもしれないのだよ」
「どれを動かせばいいのか、分かるのか」
ソレの正体を知ってから初めてグラディスは、鹿の神を尊敬の眼差しで見つめた。
「ま、まぁな」
鹿の神は、人の体から黒犬の体へと姿を変えつつ答えた。
「そうか、腐っても神なんだな、お前は」
アレの動きを予想できるのか。神というからにはこんなんでもさすがである。もう少し丁重に接した方が良かったのかもしれない。
「う、うむ。まぁ、そうだな。それで、だ。狭間の天秤が完成すれば、我も古きやり方は放棄できると考えている。古くからの供犠のやり方が気に食わないのならば、一刻も早く、狭間の天秤を完成させることだ。いいな」
早口で黒犬はそう言い渡してくる。
「狭間の天秤を作るという意味が分からない。あたしが作った? 記憶にないが?」
「今そなたがやろうとしているだろう。古き神と新しき神を混ぜようとしているだろうに」
そう言われてグラディスは、賛美歌の件を思い出した。まさかそれが新しい天秤の作成に関わるとは驚きである。
「賛美歌のことか? たったそれだけで天秤ができるのか?」
季節の変化と賛美歌が、同じような重さを持つとは思えないのだが。
「季節を正しく回すやり方を、新しいやり方で進めようとしているのだろう。巫女がいなくても、この国の四季を正しく回す方法を作りだそうとしている。そんな大それたことで天秤ができない、はずがないだろうに」
黒犬はどこか愉快そうに顔で口を歪めつつ、姿を揺らめかせていった。どうやら姿を消すつもりらしい。
「そっか……」
煙のように揺らめいて消えていく黒犬の姿を見るとなしに見つめつつ、グラディスは作りかけの天秤を思った。
「そうか」
あの場所に、グラディスの作ったものが残る。
グラディスは体中の熱が胸元に集まったのを感じて、胸を両手で押さえた。
グラディスが死んでも、残るものがある。
「そうか……」
グラディスだけが作るものではない。母がグラディスに教えたから、作れたものだ。修道院の同輩が楽譜を作り、聖歌を作り、大聖堂の元同僚が広めてくれなければ完成しない天秤だ。それでも。グラディスと母の生きた証があそこに残っている。
「そう、か……」
顔は歪み、涙が頬を伝う。それなのに、何故か唇は笑いに歪んでいる。おかしな顔だろう。醜い顔だろうと思う。それでも。
「ははっ」
湿っぽい笑い声を、何故だかグラディスはみっともないとは思えなかった。
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