混ざりあう
修道院の中も、静謐だった。修道院内ではいつも通りの作業が行われていたが、誰もが声を上げるのを恐れるように、息さえ潜めてそれぞれの作業を行っていた。グラディスは影から影に渡る化け物のような、奇妙な静けさで修道院の中を通り抜けていった。誰にも声をかけられず、誰にも声をかけない。そうして自分の部屋にまで帰ったグラディスは、聖水の瓶をじっと見つめた。再び影のように移動して水を汲み、部屋に戻る。それから油を用意して、水と一緒に並べる。
二つの世界を、それぞれの犠牲を最小限にして通り過ぎさせるために、何ができるか。考えて、考える。そうして顔を上げたグラディスは、ついに準備を始めた。グラディスにしかできないことを、するために。
夜になり、再びロンドン市を濃い霧が覆った。その中を、グラディスが歩く。『行進』は、きっと海から始まる。ただの勘に過ぎなかったが、それだけを頼りにロンドン橋に向かう。夜になると格子戸が下ろされて通れないようになっているロンドン橋は、なぜか今夜だけ格子戸が上がっていた。そのことに、グラディスは驚かなかった。なぜか、そうなっているのだろうという、予感があったからだ。
ロンドン橋の、ちょうど真ん中に立ち、海の方を向かって立つ。すなわち、東に向かってだ。濃い霧は遠い月からの光でうねうねと蠢いているようだった。見通すことなどできないほど濃い膜に視界を遮断されていた、その時。
--ざぁぁぁ
風が立ち、テムズ川の上を覆う霧だけが、晴れた。欠けた月がテムズ川を照らしている。遙か彼方まで、どうしてだか見通せる。その不思議に広がった視野の中でさえなお遠く。影が、蠢いていた。
月が照らす川に、ぼこぼこと発酵したエールを覆う黴みたいに、歪な影が遥か下流の川を塞いでいた。ぼこり、と一つの瘤が立ち上がると、それを追いかけるようにぼこぼこと影が持ち上がり、次から次に覆いかぶさる影はあっという間に巨大になっていく。その巨大な影がぶよぶよと蠢きながら、川を遡っていた。悪魔の行進。川を上り、源流を遡り、山の奥で冬を迎えるために移動する、古き神々。
「お母さん。ルーク」
あのぐねぐねと蠢く影の中に、母と黒犬はいるのか。腰にかけている小物入れから、聖水の入った瓶を取り出す。それから聖油も。
瘤のある巨大な蛇のような行進の列は、驚くほど遠かった場所からうねるように、泳ぐ水蛇のような滑らかな速さで川を遡ってきた。ほんの先日、他ならぬグラディスが扉を閉じるために行進してきた道のりを、巨大な蛇は瞬く間に踏破していた。蛇の目指す獲物が、このロンドンにあるのだと気配で分かる。道中の小さな獲物など小腹の足しにもならないのだろう。このロンドンの、サザークの人口を思えばどんな町でも滞在するほどの価値がないのだ。この場所で乱痴気騒ぎをするために遡上する蛇に向かい、グラディスは強ばる頬をなだめつつ嗤った。まずは聖油の瓶を振る。
「エクサウディ・オラツィオーネム・メアム(私の祈りを聞き入れてください)。レクイエム・エテールナム・ドーナ・エイ・ドーミネ(主よ、彼らに永遠の安息を与えてください)」
まずは酔っ払いに水を、ぶっかける。
――しゃぁぁぁぁっっっ!
水面に膜のように広がった聖油が、煌めく光を放って蛇に襲いかかる。蛇は怒りの音とともに鎌首を持ち上げた。その動きに従って水が持ち上がり、流れ落ちた。水が滝のようにテムズ川を跳ね、その勢いでロンドン橋にさえ水しぶきが飛んだ。それほどの距離に、蛇はいた。
『蛇は再生の象徴なの。冬から春に向けて、皮を脱いで新生する』
わだかまりは当然、ある。許せない気持ちは大きい。だが。
『ほら、あなたも聞こえるでしょう? 冬の女神様が笑う声が』
遠い記憶は。母に抱かれた遠い朝、正しく季節を回した明け方だろうあの朝に聞いた声は。
「くっそ、認めるさ。正しさってやつを」
無邪気で、透明で、喜びに満ちあふれていた。世界が正しく回ったのだと、それだけで確信できるような笑い声だった。だがそれが血まみれの生け贄によってもたらされるのが、気に食わない。気に食わないのならば、システムを変えればいい。それがグラディスにはできるはずだ。あちらとこちら、どちらの世界にも属するグラディスにならば。
グラディスは聖水の瓶を開けた。蛇の動きが止まる。聖水の香りだけで、その中身を察したらしい。グラディスは無表情のまま聖水を蛇に向かってぶちまけた。
「ロットゥウマ、ベェル、ア、カミドゥ、クリィデ」
思い出すのに難儀した。あまりに遠く、切ない大切な記憶だったから。母の声音を何度も思い返し、そうしてようやく再生できた。聖水も、この言葉を込めて作った。
蛇の光る目が柔らかく閉じていく。その様を見届けつつ、グラディスは再び聖水をまきながら、古き神の聖句を唱えた。
「ニィニィネ、エイル、ア、リィシェン、ニィメ」
蛇の体が崩れていく。ぼちゃり、ぼちゃんと蛇から塊が剥がれ落ち、その中から懐かしい声が聞こえた。
『歌って、グラディス』
その声に、グラディスは泣きそうになりながら目を閉じた。
「ロットゥウマ、ベェル、ア、カミドゥ、クリィデ」
今度は、母から教えられた通りの旋律を加えて歌い直す。その声に、母の歌声が加わる。
『ニィニィネ、エイル、ア、リィシェン、ニィメ』
グラディスと、母の歌声が、そして蛇から剥がれ落ちた、あちらの世界の住人達の歌声が加わる。
『ロットゥモ、スルゥテン、ニィルゥ、スゥネッシェ』
剥がれ落ちた目が、黒犬に変じて川の上を駆け、グラディスにすり寄って歌声に加わった。
『ロットゥ、アドゥエェ、イムカトゥ、カッシェ』
蛇の体は完全に姿を消し、その巨体の消えた場所から一体の生き物が姿を現した。大木をそのまま杖にした姿で、花びらと葉っぱの衣装を纏った女性は、あの日聞いた通りの無邪気で透明で、喜びに満ちた歌声を響かせた。
『ロットゥウマ、ベェル、ア、カミドゥ、クリィデ』
大木から光が差す。木々の間を太陽が昇るような荘厳さで、真夜中のロンドンに光が満ちる。歌声とともに女神は川の上を素足で歩き始め、ロンドン橋に至ってグラディスを見上げ、ふ、と微笑った。そのまま優雅な足取りで橋をくぐって歩き続ける。蛇の塊だった黒い影達は、緑の葉っぱを纏った女性や小人、下半身が馬の男性や風のように漂う女性になって、女神の後をついて歩く。そこに、黒犬が姿を変えて降り立った。鹿の角に男性の姿。一際逞しいその姿で、行進を守るように最後尾をついて歩く。その隣に、緑の髪をなびかせて手を振る女性。
「お母さん」
『ありがとう、グラディス』
母の笑顔が、かつての日の笑顔と重なる。宿り木の衣装に体を包んだ母は、女神と同じような笑顔を浮かべていた。
『ニィニィネ、エイル、ア、リィシェン、ニィメ』
グラディスは歌い続けながら、行進がロンドンを越えて西に去っていくのを見つめた。見つめ続けた。
『ロットゥモ、スルゥテン、ニィルゥ、スゥネッシェ』
行進の発する歌声が、小さく夜空に溶けていく。それに合わせてグラディスの歌声も囁くように小さくなり、やがて息を吐くようなかそけき音に消えていった。
季節は、これで回る。正しく。
黒犬の思惑通りなのは解せない。が、これは始まりだ。季節を新しいやり方で回すことの。
グラディスは夜空を見つめて息を吐き、それからにこりと微笑った。やることはたくさんある。この一年で、季節を回すシステムを、変えてみせる。
修道女であり巫女でもある。そんな己が、ようやく混ざりあった気がした。




