万聖節まで、あと二日
万聖節まで、あと二日。
その夜。トバイアスに連れられて聖メアリ修道院に戻ってきたグラディスは、自分の部屋の窓を開けて、無為に夜の闇を見つめていた。
「ロットゥウマ、ベェル、ラリルゥリ、ルゥリ……ニィニィネ、エイル……」
母は、悪魔だった。悪魔になった。古き神の眷属に生まれかわった。母にとって、季節を回すことは託された責務だった。己の命を捧げるほどの。そして――。
『この子は攫ってきた子どもだ』
『恨まれている悲しまれている嘆かれている憎まれている!』
発された言葉の重みを見比べる。
『愛したことはなかった!』
『あの子は私を恨んでいる! ひどいことを言った私を憎んでいる! 一人にされて、泣いて、置いていった私に裏切られたと思っている……!』
ははっ、と、グラディスの口から力のない笑いが零れた。
「演技が上手すぎる」
どう考えたって、母のあの言葉は、グラディスを守るための嘘に聞こえる。今になって、母が悪魔になった今になって、なんてひどい真相だ。
「なんで、そこまでして悪魔に仕えたんだ」
言いたいことは、詰りたいことはそれだけだ。置いて逝かれたことも、愛情を穢す言葉を吐かれたことも、今となってはもういい。母の決死の決断だった。だからそれはもういい。けれど、そこまでして季節を回すことに、意味はあるのか。季節なんて母がいなくても回っていたではないか。どんな形だとしても、季節は回るのではないのか。
『豊かで恵み深い大地に感謝するのよ。私達は、生かされている。生きることを、許されているの』
グラディスに父はいない。父のことが、話題に上ったこともない。けれど、母は満たされる大地を、まるで愛しい相手を想うような顔で見つめていた。
「でも、命を捧げるなんてシステムを、あたしは認めない」
どうせ捧げるのならば、他人の生き血でぬくぬくと肥え太った豚共を捧げればいいのだ。それならば納得できる。だが、グラディスが生き抜いてきたこの世界では、彼らが捧げられる命から最も遠い存在だということも、理解している。
万聖節の前日は、明日だ。あちらとこちらが最も近づく日。古き神が行進する日。その行進を、どうやって止める。行進を止めることと、季節を止めること、眷属となった母を害することは、同義なのか。その行進がもたらす、新しき神の信徒に対する危害は。
「お母さん……」
どうしても譲れないものを並べていく。
母を害することは論外だ。悪魔だろうが古き神の眷属だろうが、二度と母の悲鳴を聞きたくはない。
ロンドンの、サザークの人間達に危害を及ぼされたくもない。特に弱い者達を守りたい。
季節が回ろうがどうだろうが、直接的な危害がない限り、問題はない。正しく回り、来年の実りが豊かで、貧しい者達の息がつけるならば。売られる娘達が少しでも減るならば、それに越したことはない。
「つまり、どうすればいいんだ。行進を、何事もなく遂行させる……? こちらの人間に害を出さなくすれば、行進を止める謂われはない……?」
本能を喪った古き神が、どういう騒ぎをするか分からない。が、たとえばそれを酔っ払いのどんちゃん騒ぎと思えばどうだろう? 酔っ払いには水をかけ、殴りつけて家に帰らせる。行進に陶酔して暴れ出す、悪魔共に聖水をぶっかけて、行進の列に戻すのはどうだ? その間、新しき神の信徒達には聖堂にこもらせて。そうだ、いっそ新しき神への祈祷を一晩中行っていれば、聖堂周辺の地帯にも安全な場所を提供できるのではないか。
「明日は、トバイアスを説得すればいいんだな」
よし、と方針を決めたグラディスは、ようやく胸のつかえを飲み下し、微笑った。
万聖節を翌日に控えたその日、ロンドン市は朝から深い霧で覆われていた。昼間にようやく霧は晴れたが、その代わりというように、雲が厚く覆い、糸のように細い雨が天地を繋いでいた。誰もが外出するのを拒んでいるように、不自然なほどに通りには人がいなかった。サザークでも、ロンドン市でも。
「できるだけ多くの人間を大聖堂に保護しろ。保護できない人間にも、できるだけロザリオを配れ」
「どういうことだ。悪魔は祓ったし、『扉』も閉じたはずだ。そうだろう?」
聖パウロ大聖堂の司教室で力説するグラディスに、トバイアスの反応は鈍い。
「万聖節を祝うためのミサを行うとでもなんとでも理屈はつけられるだろう!」
「それを行うことに異議はない。が、一晩中というのは常軌を逸していると思わないか」
「必要だからだ!」
熱弁するグラディスを、トバイアスはどこか途方に暮れた目で見つめた。それを見て、グラディスは悟った。トバイアスは可能な限りグラディスの要求を叶えようとしていること、そして今グラディスが求めていることが、その可能な範囲を越えてしまっていることをだ。
「……頼む」
「……グラディス。私はお前を信頼している。宗教上において、お前は私よりも優れているとも思う。だが、お前は何を抱えているんだ。理由もなくそのようなことができると思うか? この大聖堂は私のものじゃない。司祭達、信徒達全ての家だ。私の勝手でミサを行える場所ではないんだ」
静かな声だった。だからこそ、余計に胸が締めつけられた。どう説明すればいい。悪魔の行進が始まる。それにはグラディスの母も悪魔として参加している。その行進がつつがなく終わるように、季節が上手く回るように見逃せ。そして悪魔の餌食になる人間を少しでも減らすために、教会の総力を尽くせ、などと。
グラディスはじっと足元を見下ろした。
グラディス一人で行進を守ることはできるだろうか。行進を守った上で、季節の巡りという神のシステムを書き換え、新たな流血なしで回すことができるだろうか。
「グラディス。事情があるなら話してくれ」
あちらの世界とこちらの世界。グラディスはどうしてか、その二つの世界の両方に深く関係してしまっている。どちらかを滅ぼすことは、グラディス自身も傷つけることになってしまっている。そうならないよう、深入りすることのないよう、こちらの世界にだけ関わってきたつもりだったのに。
「--……邪魔したな」
ついに、グラディスは諦めた。理解してもらうことを。トバイアスはどこまでもこちら側の人間だ。トバイアスに話せば、あちら側の存在はどこまでも否定されることだろう。母は、切り捨てられる。母は司祭達を惨殺したルークと同じ存在なのだから。
「グラディス!」
トバイアスの声には、グラディスへの親愛と信頼の情が混ざっているように感じた。どうして話してくれないという怒りは、親愛と信頼の裏返しだ。あれほど遠慮のない喋り方を受け入れる得がたい男に、だがグラディスは背を向けた。こちらの世界のためだけに動けない。ならば、彼と話すことは、もうない。
サザークの通りも軒並み鎧戸が降りていた。誰からも指示されていないのに、本能的に悟っているらしい。そういう生存能力の強さを、グラディスは密かに尊敬している。
サザークに開いていた『扉』は、今や全てが閉じているようだった。それは事態の沈静化に繋がるのではなく、『もう扉を使わなくてもいい』という状況にまで事態が進行したからだと分かった。ロンドン橋からサザークを視察していたグラディスは、踵を返して修道院に向けた。準備しなければならない。だがその前に、どんな準備をするか、決めなければならなかった。




