再会
トバイアスの指示で、グラディスは再びテムズ川の河口に下っていた。そこから、司祭達の調査によって見つけられた、『扉』があると思しき場所まで案内される。海上とは違って、地面の上にある扉はグラディスにはすぐに分かった。扉をくぐり、行方不明者を救出して扉を閉め、封じる。その作業が繰り返される。そうやって海からテムズ川を遡り、ロンドン郊外まで扉を封じる行進は続き、ついにトバイアスの手に負えなかったという悪魔を祓うためにグラディスは、その貴族の屋敷前に立った。行進の間に日付は変わり、十月は残すところ、僅か数日となっていた。
聖女の行進と揶揄されたが、連日の労働にグラディスの体は疲れ切っていた。いかに強力な悪魔といえど、黒犬を見れば逃げ帰るだろうという思惑もあり、グラディスはルークを引きつれてその屋敷に入った。
「なんだその犬は」
責任者がどうとかで同行したトバイアスは、いきなり現れた黒犬に頬を引きつらせている。
「これか。あたしの使い魔だ」
飼い犬と言い張ってもいいが、相手はトバイアスである。これから先、この黒犬の異常な様子を目にして問い詰められる可能性を思えば、最初から断っておいた方がいいと思われた。
「使い魔ってお前……お前には己が修道女たる自覚はあるのか。おかしいだろう、悪魔を連れている修道女なんぞ!」
「便利なんだ」
いいからさっさと屋敷に訪問の挨拶をしろと促す。これでもこの男は司教なのである。もう少し重々しい、威厳のある姿を見せるべきだ。
「なんでコレに頼らねばならないのだ……」
呻くように呟きながら、トバイアスは屋敷内に声をかける。初めからそうしていればいいのに。
待ちかねていたような執事に案内され、トバイアスとグラディスは邸内に招き入れられた。さっさと悪魔憑きの人間のところに連れて行けばいいものを、執事は客間に通した。そこで主夫妻に出迎えられる。
「司教様、お待ち申し上げておりました。どうか娘を、お救いください。そちらがサザークの聖女でしょう? どうか娘を、悪魔から解放してやっていただきたい」
グラディスに、というよりも主にトバイアスに話しかけている。まるでトバイアスに決定権があるような様子だが、まぁしょうがない。貴族との会話は苦手だ。悪魔を祓うことに変わりはないのだから、さっさと話を終わらせて案内してほしい。
「彼女ならば確実に祓えるでしょう。それで、令嬢はどこに?」
「以前と同じように、あの子の部屋に。部屋から移そうとするだけで異常に興奮しますの」
夫人の方が怯えた様子でそう告げた。なんの気負いもなくそれを聞き流し、それでは、と立ち上がったトバイアスについて歩く。二階に案内されたトバイアスは、部屋の前から夫妻や使用人らを遠ざけた。
「危険なことがあるかもしれません。どうか、我ら二人だけにしていただきたい」
大切な娘を任せることに、多少の拒否感はあったものの、結局夫妻はその場を離れた。それほどに以前の令嬢とはかけ離れた様子らしい。
「……入るぞ?」
「あぁ」
これまでよりも強い悪魔の気配がした。が、それでも司祭の姿を取っていたあの日のルークほどではない。それにグラディスにはお手製の聖水もある。トバイアスが全身を緊張で固めているのに比べて、グラディスはほとんど自分の部屋に入る時と同じような気負いのなさで、その部屋に入っていった。
部屋の窓にはカーテンがかけられ、荒れた様子もない。きぃ、という音に目をやると、続きの部屋があることが分かった。すたすたとそちらに歩いていくグラディスに、おい、と慌てたようにトバイアスが話しかけたが、当然無視である。軋んだ扉を大きく開く。
「あら、お客様ね。呼んでもいないのに不作法なこと」
軽やかな声が、その部屋から響いた。その少女は、寝台の上に行儀良く座っていた。
「大したことないじゃないか、トバイアス」
その体から感じる気配に、後ろを振り返ってグラディスは笑った。
「馬鹿だろお前」
トバイアスは扉の影に身を潜めるようにして立っている。どれだけあの悪魔に脅かされたのだろうか。司教になってから玉なしになったんじゃないのか。サザークのお姉さん達に遊んでもらっていないツケが、ここにきて出てくるとは難儀な男である。
「あなただぁれ? この子を虐めにきたの? 忌まわしき神の僕。呪われるべき卑しき民よ。この子を決して害させはしない」
少女は相変わらず、軽やかな声でグラディスを罵った。歌うような、と形容してもいい、澄んだ声だ。その声で、悪魔への忠誠を歌う。
「去れ小悪魔。お前らなんぞに何ができる。お前らは結局、自分たちの巫女さえ守れない卑小な存在だろうが」
返す言葉に、苦みが走る。こんな悪魔なんぞに仕え、盗みを働いたせいで焼かれた母を思い出す。季節を回し、恵みをもたらす力のあった母が、どうして人間の暴力に負けなければならない。どうして彼女の信じる神は、彼女を人間の暴力から守らなかったのか。
「あなた、面白いことを言うのね。巫女は自分で命を断ったのよ。そうして己の命で季節を巡らせた。それを誇りに思いこそすれ、恨みになど思いはしない」
母の命さえ愚弄するような悪魔の言葉に、頭が煮えた。
「お前に何が分かる!」
最も攻撃力の高い聖句を込めた聖水を、躊躇なくまき散らす。
「ソルヴェト・セークルム・イン・ファヴィッラ(この世は破壊され灰燼へと帰する)!」
そうだ、あの日、グラディスの世界は破壊され、灰燼に帰したのだ。大切なもの全てが地に落ちた。信じていた愛情さえ、穢された。
「誰が季節を回したと思っているの。あなた達がのうのうと恵みを貪っている背後に、私達の供犠があったのに。流された血を知らぬ振りで果実を貪る、冒涜者」
「供犠を要求し、命を刈っておいて施しを垂れるとでも言うのか悪魔。お前達のために焼かれたあの人を思うと、怒りしかない。クワントゥス・トレモル・エスト・フトゥールス(どれほど震えることだろうか)」
あぁ、震えている。怒りで、震えている。
「焼かれた、あの人……?」
「代わりにあたしが裁いてやろう。クンクタ・ストリークテ・ディスクッスルス(全てのものが厳しく裁かれるときに)」
あの村人達も、母を救わなかった、あちらの世界の生き物たちも。泣き叫ぶしかできなかった幼い自分も。それら全てが裁かれるべきだ。
「その気配……どうして。あの子は、グラディスは十歳なのに、どうしてあなたからあの子の気配を感じるの」
「--っっ!」
次の聖句を唱える声が、縮こまった。
「あなたの中にあの子がいるの? どうして? あの子にあなた、いったい何をしたの!」
『落ち着け。そなたの記憶は十年以上前のものだ。子どもは、少女は大きくなる。そなたの愛する娘は、大きく育ったのだよ』
黒犬が優しげに囁く声が、妙に大きく感じた。
「--ぅ、そだ……そんな、まさか……っ」
「嘘よ、あの子はこんなに小さい子どもなの。私が守ってあげないと、泣いてしまうぐらい小さい子なのに……っ」
グラディスの前に立つ、貴族の少女は己を抱きしめて震えた。そうだ、あの頃のグラディスはこんなに小さい子どもだった。まだ胸も膨らみ始める頃で、今はこんなに鮮やかな金髪も、あの頃は茶色がかっていて。
「あなた、なの……? グラディス……?」
少女は、己を抱きしめる腕を解いてグラディスに差し伸べた。その目の色は、母とは違う。それなのに、母が浮かべていたのと同じ、慈愛に満ちているような気がした。
「--お、かあさ……」
悪魔の戯れ言だ。母の振りをしているだけだ。おぞましい小細工だ。そう思うのに、グラディスの心の深いところが、確信していた。母だと。
「あぁぁぁ駄目よ、あの子は私を恨んでいる! ひどいことを言った私を憎んでいる! 一人にされて、泣いて、置いていった私に裏切られたと思っている……!」
突然、少女は体を掻きむしった。髪を振り乱し、地面を強く踏む。
「恨まれている悲しまれている嘆かれている憎まれている!」
絶叫とともにその言葉を吐き出し、直後、少女は力を失った。かくん、と絨毯の敷かれた床に頽れる。硬直したように佇んでいたグラディスは、慌てて駆けよった。少女を抱き起こし、寝台に寝かせる。悪魔の気配は消えていて、穏やかな寝息だけが空気を震わせていた。
「…………」
少女の乱れた髪を直してやり、それからグラディスは立ち上がった。部屋を横切り、扉の影に体を丸めるようにして待機していたトバイアスを発見する。頭ごと耳を覆っていたトバイアスの腕を取り、顔を見る。
「おい、終わった」
そう告げると、トバイアスは呆けたように『終わった……』と繰り返し、それから喜色を露わにした。
「さすが聖女だ。礼を言う。教会の面子も保たれた」
「アホらしい。おい、先に帰るぞ」
押し殺した声でそう宣言する。返事も待たずに部屋から出て、急ぎ足で屋敷から出る。引き留める声もあったが、多くはトバイアスの方へ事情の説明を乞うための動きに変わったようだった。
屋敷から出て、なおも歩く。歩く、歩く。
テムズ川が遠くに見えるなだらかな丘を、そこから遠ざかるように、昏い森の方向へと、ほとんど小走りに向かう。
「主」
呼びかけ、同じ速度で移動する黒犬に答える余裕もない。歩く足が早足に、それから駆け足に変わり、森の中に転がり込んで、なおも走る。背後に草原の光も届かぬほど森に入り込んでからようやく足を止め、それからグラディスは大木を殴った。大木の表面を覆う苔が剥がれ、剥がれた場所を左手で再度殴る。ささくれだった樹皮が掌を刺す感触さえ、どこかこの破壊的な心情を慰めてくれるような気がした。
「あぁっ」
大きく息を吐くと、悲鳴のような声が洩れた。
「あぁ、あぁ、あぁ!」
吐く息と同じリズムで、木を殴る。
「お母さん、お母さん、お母さんっ!」
どうして、なぜ。あの気配はどう考えても悪魔の気配だった。あちらの世界の気配だった。それなのに、あの視線はどう思い返しても母のものだった。
「なぜだっ、ルークっ!」
どうして母が悪魔なのか。どうして少女に取り憑いていたのか。驚いた様子もないルークならば、何か知っているのだろうと、木に拳を置いたままで視線もやらずに詰問する。
「古き神だろうが、新しき神だろうが同じだ。神に仕える聖職者は、死んでから神に近い席が与えられる。それが神に仕える者の特権だろう。だから--」
「--だから母さんは悪魔になった! そう言うのか!?」
「古き神の一員に取り上げられた。己の命を捧げてまで、季節を回そうとしたことを称えられて」
「ふざけるなっ!」
だん、と両手で木を殴る。認められない。認めたくもない。どうして己を守らなかった神のために、命を賭けた。死後その魂までその神に蹂躙されて。
「グラディス。我らが愛し子」
「黙れ!」
「我らはそなたの苦境に、何度も人間達に警告した。冬は厳しく、秋の実りは少なかったはずだ。それなのに、人間達は我らからの警告を読み解く力がなかった。巫女も、司祭もいなかったからだ」
「黙ってろ!」
聞きたくないと首を振るのに、ルークの言葉は途切れずにグラディスの耳に入り、理解を繋げていった。
「我らにとってそなたは巫女であり愛し子。我らの声を伝える者であり、愛される者でもある。だから、そなたの意志を尊重しよう。季節を回さないという、そなたの意志を。……もうすぐあちらとこちらが重なる。冬への行進が、始まる。愛し子よ、その日は新しき神の聖堂にこもっておいで。そなた一人ならば守ることは容易い。決して外に出てはならない。その日は我らも理性を喪うから。新しき神に、よろしく伝えておくれ」
ふわり、と頭を何かが撫でた。触るな、と言う前にその感触は消え、黒犬の気配が宙に溶けていくのを感じた。
「っ!?」
振り向き、誰もいない森に言葉を失う。
「……行進が、始まる……?」
始まったら、どうなるのだ? グラディス一人が聖堂にこもっていれば安全ということは、聖堂にこもれない人間はどうなる。聖堂にこもれたとして、グラディス以外の人間はどうなる。理性を喪った古き神は、いったいどんな『行進』をする。巫女に季節を回されなかったこの十年のツケは、誰が払う。
「ルーク!」
グラディスの叫びにも似た呼び声は、ただ空しく森の中で響くだけだった。




