テムズ川を遡る
「びっくりしたわよ、いきなりいなくなるんだもの」
どうにかスザンナの舟と合流し、やれやれと安堵したのもつかの間、グラディスはスザンナの怒濤の抗議を受ける羽目になった。恐らくは心配したことの裏返しだと思うのだが、そこは素直に心配してほしいと思う。
「あたしのせいじゃない」
「分かってるけど! でもいきなり消えたと思ったら、全然違う場所で溺れてたなんて聞いて、生きた心地がしなかったのよ!」
「悪かった悪かった」
終いには遠い目でおざなりな謝罪を繰り返すしかないではないか。
「ねぇ、それで行方不明の人を、いったいどうやって見つけたの? 溺れかけてたってことは、海の中に捕まってたってことなの?」
「陸で話せないか。もう海は懲り懲りだ」
それにどうせなら着替えたい。グラディスがそう言ってようやく、一行は陸にある漁師のための休憩小屋に場所を移すことになったのだった。
「ティル・ナ……なに? どこなのそれ」
いちおう、グラディスも誠実に説明しようとはしたのだ。だが短絡的な答えを求める相手に、詳細な説明をしても意味がないのではなかろうか。
「つまり、悪魔の世界に連れ去られてた。悪魔祓いを応用した方法で連れて帰ってきて、その扉みたいなもんも閉じた。他の場所で扉が開かなければ、もう行方不明者は出ない。と、思う」
スザンナと、その父親である親方に向かってグラディスは、結局そういう説明をすることにした。嘘はついていないし、多少説明を端折ったところで問題はないと判断したからだ。
「父さん」
スザンナが不安そうに呼びかけ、スザンナの父親も顔を曇らせて頷いた。
「シスター。実はまだ帰ってきていない男達がいる。戻って来た奴らは北側で漁をしていたんだが、南側で漁をしていた奴らが帰ってこない。シスターが言ってた、その、扉ってやつは、南にもあるんじゃないだろうか」
「……聞かなかったことにしていいか」
もう一度あの手順を繰り返すのか。いや、百歩譲って泉に飛び込むまではいい。が、海で溺れる体験は一度だけで充分だ。
「頼むよシスター」
「溺れるのはあたしなんだぞ」
はぁぁ、とため息をつき、スザンナを見る。縋るような視線にため息しか出ない。
「……あたしが溺れてたら、可及的速やかに救出することを約束してくれるなら」
知り合いのそういう視線に弱いグラディスは、結局のところ、そう取り決めるしかなかったのだった。
テムズ川の河口で、あの後南側の扉を閉じ、礼にと歓待を受けた翌日に修道院まで帰り着いたグラディスは、うんざりとしたため息をついた。
「遅くってよ、シスター・グラディス。昨日はサザークの人間が何人もあなたを呼びに来たのだから」
サザークの悪魔騒動は続いているらしく、グラディスの帰還は喜ばれるよりも『早く帰ってこい愚か者』というような罵声にも似た懇願を帯びていた。理不尽である。
「くっそ悪魔どもが」
そしてそのグラディスの苛立ちがぶつけられる先は当然決まっていて、悪魔祓いは過熱気味に終息していった。サザークがようやく落ち着いたと思いきや、次はまたテムズ川で行方不明問題が起き、そしてそちらに出張していれば今度は聖パウロ大聖堂から呼び出しがかかる。
「あたしを殺す気か」
さすがのグラディスも、もはや過労気味であった。
「なんの話だ」
呼びだした司教トバイアスは、怪訝な顔をした。
「あたしはこの前からサザークとテムズ川を往復してくたくたなんだ。いったいなんの用事で呼びだした? ちんけな用事だったらひねり潰すぞ」
「下世話な脅しはやめろ」
ヨランダには通じなかった脅しがトバイアスに通じて、グラディスは満足げににやりと笑った。
「で、なんの用事だ」
「貴族の間でも悪魔憑きが流行っていてな」
「勘弁してくれ!」
グラディスの喉から悲鳴のような叫びが零れた。
「サザークでも悪魔憑きが流行ってるのに、この上貴族まで相手してられるもんか! お前ら司祭で片付けろよ!」
そう、本来ならば悪魔祓いは司祭が本職である。修道女のグラディスに依頼する方がおかしい。
「ブーリン家の伝手で、お前を名指しで依頼してくるんだ。お前が蒔いた種は自分で刈れ」
「断る!」
素っ気なく言い捨ててグラディスは踵を返した。どうしてもグラディスを指名したいならば修道院に依頼が来るはずだ。少なくともアン・ブーリンはそうしていたし、そうしないということは、司祭達の何らかの企みを感じる。そんなものに構っている時間は、グラディスにはないのだ。せめて今夜の睡眠時間は確保したい。
「正直なところ、私達の手に負えない。だからお前を呼べという話になっているんだ」
「勘弁してくれ……」
呻いてから振り向いた。
「あのな、あたしは言ったよな。閉鎖書架を解放しろって。あの知識があれば、司祭にも強い悪魔を祓うことができるはずだ。あたしにもできたんだ、お前達にできないなんて、言わせない」
「できなかった。私も書架で知識を得、あの聖句を使って祓おうとした。が、無理だった。お前も対峙すれば分かる。異常な強さの悪魔だった」
「祓う前から腰が引けてるようじゃ、通用しなくて当然だろ。祓ってやるから跪けって気概がなくて、どうやって祓えると思うんだ」
悪魔祓いの心得を熱弁するが、トバイアスはどうも聞き流しているように見える。
「おい、聞いてるのか」
「聞いてる。お前が言う、誰にもできるってことには注釈が必要なんだ。正しくは、お前のような変人にしかできないっていう」
変人扱いされてグラディスは顔をしかめた。
「じゃあ聖堂内でそんな変人を探せばいいんじゃないか。いちいちあたしに泣きつくな。あたしは所詮、一介の修道女なんだから」
「一介の修道女なら言うことをもっと素直に聞いてくれるはずなんだが」
そうぼやいた後、トバイアスは姿勢を正した。
「お前はテムズ川も下っているらしいな? その近辺に屋敷を持つ貴族家からも依頼が来ている。そのほとんどは使用人が行方不明になっているというものだが、一人だけ小さな令嬢が行方知れずになっているものがある。その依頼をまとめた時に、気にかかったことがあるんだ」
「まだ聞かなきゃならないのか」
疲れ切って腰に手を当てたグラディスに、トバイアスは椅子を指し示した。
「座れ。言うのが遅くなった。お前なら勝手に座るだろうと思ってたんだが」
「あたしの礼儀正しさを今さら認識したのかお前」
「そういうところだぞ……」
トバイアスは低く呻き、それから気を取りなおしたように引き出しから地図を取りだした。
「依頼があった日付順に地図に加えている。お前も見ればすぐ分かるだろうが……」
机に置かれた地図を、軽く身を乗り出すようにして眺める。テムズ川と、その周りに点が散らばっている。散らばっている点には日付が書かれていて、それが依頼のあった場所なのだろうと思わせられた。
「……テムズ川を、遡っている……?」
「そうだ。行方不明者の範囲が、テムズ川を遡るように広がっている」
じっと見つめる。河口には点がない。それは恐らくだが、貴族家に由来する行方不明者しか記入されていないからではないか。
「私が対峙した悪魔は、あのおぞましい存在感の持ち主はここにいた」
そう言ってトバイアスが指さしたのは、ロンドン市の東の郊外だった。テムズ川は、ロンドン市を西から東に向かって流れ、海に向かっている。つまり、東というのは海側だ。
「行方不明者と、テムズ川に関連があるって言いたいわけか。いい点を突いてるな、お前」
「事情を知ってるのか。さっさと吐け」
肩を竦めたグラディスは、トバイアスに説明を始めた。あちらの世界とこちらの世界の境界が、混ざっている場所があること。サザークでもそうで、その混ざっている場所から悪魔が発生し、行方不明者はその場所からあちらの世界に飛ばされているのではないかということをだ。
これまでも悪魔が頻繁に出没していたサザークには、開きやすい扉が元々あったのかもしれない。そしてテムズ川周辺の扉は、万聖節の前夜に向けて混じり合う世界の影響を示して、遡上するように扉を開き始めているのかもしれなかった。
「つまり? この広大な場所の、お前が言う『扉』を閉じないと事態は沈静化しないということか? おい、お前さっさと行って閉じてこい」
「簡単に言うな。あたしだって善処してる」
「つまり、扉の場所が分からないんだろ? なら私達がそれを特定できれば、お前の作業もはかどるんじゃないのか」
「それは、まぁ」
だが司祭にそれができるものかどうか。悪魔特有の気配を察知できる司祭が、どれほどいるのか不明だ。
「お前のような変人的な能力がなくとも、私達には頭脳がある。行方不明者の範囲から扉の場所を類推することは可能だろう」
「まぁ頭脳がなけりゃ存在してる意味がないもんな」
精々ご立派な頭を役立ててもらおうと、頷く。せっかく認めてやったのに、トバイアスは渋い顔をしているのが解せないが。




