繋いで封じる
翌日、まだ日の昇らない時間に、グラディスはスザンナに連れられてテムズ川に接岸した舟に乗った。十人ほどが乗れそうな舟に帆が張ってあって、スザンナの兄だという筋骨隆々とした青年二人が乗っていた。ああいうのは見かけに寄らずすぐに終わってくれて、いい客なんだよなぁと思いつつ、紹介されるのもそこそこに欠伸を飲み込んだ。
「父さんは?」
「河口に呼び出されてる。昨日も行方不明者が出たんだ」
眉をしかめて情報交換しつつ、舟を出す準備をしている兄妹達を横目に見て、グラディスはテムズ川から見上げるロンドンに驚いていた。ロンドン橋を下から見上げる機会なぞ、そうそうない。
「急がなきゃね」
「あぁ。聖女様を呼んできてくれてありがとよ」
「ううん、大丈夫」
こういう時思うのだが、なぜ呼んできた人間が労られて当の本人であるグラディスは放置なのだろうか。労りとか感謝のエールを振る舞ってもらえてもいいと思うのだが。
「さぁ、早く出ましょう。このままじゃ夕方になっちゃうわ」
「はぁ!?」
夕方と聞いて勢いよくスザンナを振り返ると、可愛い顔をして笑っていた。男に向けるならばともかく、グラディスに向けられてもありがたみの欠片もない。
「聖女サマはお忙しいから、舟を飛ばしてちょうだい」
スザンナの言葉で舟は岸から離れ、グラディスはしょうがなく口を噤んだ。貴族も大概だと思っていたが、庶民だって大概だ。せめて寄付は奮発してほしい。そう心から思いつつ、舟の揺れに身を任せるグラディスだった。
着くのが夕方になるというのは脅し文句だったらしい。川を下る勢いも加わって、舟は昼前には河口に着いていた。
「意外に早かったな」
「帰りがねぇ……夜になっちゃうから、明日の朝出たほうがいいかもね。やっぱり夜の方が行方不明になりやすそうじゃない」
「夜の方が多いのか?」
「調べたわけじゃないから、なんとなくだけど……」
「なんだ、憶測か」
一般的な印象として、夜の方が悪魔は活発に動くように思われているのだろう。実際に数を比べてみないことには、なんともいえない。黒犬が大聖堂で惨殺事件を繰り広げていたのも日中だったし。
「ねぇ、なにか気配でもする?」
憶測か、と言われて一瞬だけむくれたスザンナだったが、すぐに立ち直ってグラディスに問いかけてきた。テムズ川が海に向かって開けているこの河口は、見渡す限りの水が広がっていて、海を見たことのないグラディスの心を打った。とはいえ、太陽がその巨大な水面を照らしており、感動するよりも眩しさで目が痛む方が先だったが。それでも、ロンドンのような街並みのない、開けた海辺はグラディスに初めて感じるような開放感を与えた。
「……これは悪魔も開放的になって活動的にもなるだろうな」
思わず軽口を叩くと、スザンナが真っ青になって
「そうなの!?」
と叫んだ。問答無用で連れられてきた意趣返しとしてもいいのだが、このままでは支障がある気がして付け加える。
「冗談だ」
「質の悪い冗談ね!?」
ぷりぷりとした返事に薄く笑って、スザンナの兄に指図する。
「もうちょっと海に近づいてくれ」
初めての場所で、その場所は海である。いつもの街中で感じる悪魔の気配とは違っているかもしれない。そう思って舟をゆっくりと動かしてもらう。
「……ん?」
独特の、潮気のある匂いの中に、深い森の苔むしたような匂いが混ざった。
「止まってくれ」
そう言って振り向いて、それから深いため息をついた。
「おいおいおい……やっぱりか。やっぱりそういうことか」
舟に乗っていたはずのグラディスは、振り向く一瞬であちらの世界に立っていたのだった。
しょうがなしに深い霧の中、異形の木の根を避けつつ前に進む。
--くすくす……くすくす
前から、そして横から。時折背後からさえ、忍び笑いがこだまする。
「うるさい。生きてる人間をどこにやった」
笑い声の方に聖水をまきつつ尋問すると、ぎゃあっっという悲鳴とともに沈黙が戻り、そしてひそひそと囁き合う声が立った。
--凶暴な巫女だよ
--怖い巫女だよ
--ケル……ノ……は嘘つきだよ
「誰だそれ」
聖水の小瓶を揺らして存在を誇示しつつそう問うと、辺りがしんっと静まりかえった。
「おい、さっさと人間の所へ案内しろ。それからこっちとあっちの世界を混ぜるな」
海からこちらの世界に来たということは、境界を越えたということだろう。
--混ざるんだよ
--あちらとこちら
--季節を巡らせる境の日
くすくすという笑いとともに、異形の木々がざわりと動いた。グラディスの立っている場所から斜め前の方向に、道が開ける。
--僕らにはどうにもできない
--季節はそういうもの
--持って帰って。要らないから
「要らないならなんでこっちにいるんだ」
はぁ、とため息をつき、開けた道を進む。どうやら悪魔にも想定外の事態らしいが、それが事実なのか悪魔の戯れ言なのか、判断する材料が足りない。でこぼこした根っこが張る道を進んでいくと、泉のある開けた場所に出た。その泉のほとりに、何人もの男達が茫洋とした面持ちで立っている。
「おい、大丈夫なのか?」
駆けより、男達の頬を軽く叩く。が、彼らと視線が合わない。
「くっそ……これ、どうやって連れて帰るんだ……」
焦りながら泉を見下ろして、不意に思いつく。
「泉……海、水、聖水……」
水と水は、繋がらないだろうか。泉から海へ、聖水で道を作れば?
「繋ぐ……いや、封じる? 繋いで封じる。聖句、解き放つ、こちらの世界から。そうか、それで休息を命じれば」
一つの思いつきから数珠つなぎのように発想が浮かぶ。失敗してもやり直せばいい。どうせこのままここで呆然としていたところで、事態は解決しない。グラディスは腰に着けていた小物入れから、聖水の瓶を取り出す。出したのは鎮魂の聖句を込めた聖水だ。男達の手を引いて一カ所に集め、彼らと自分に聖水をふりかけ、泉にも散らす。
「エクサウディ・オラツィオーネム・メアム(私の祈りを聞き入れてください)」
散らばり、泉に溶けたはずの聖水が光り始める。それに励まされるように、次の聖句を唱える。
「リーベラ・アニマス・オムニウム・フィデーリウム(全ての信者たちの魂を解き放つて下さい)!」
聖句と同時に、泉全体が光を放ち始めた。それを見てグラディスは頷き、男達を一人ずつ泉に放り込んでいく。呆然と立ちすくむ男達は、グラディスが背中を蹴れば簡単に泉に落ちていった。水しぶきは、立たない。全員を蹴り入れてからグラディスは頷いた。最後は自分の番だ。聖水の瓶の蓋をきっちりと閉め、小物入れに戻してから泉に飛び込んだ。
光を通り抜け、薄く暖かい膜を破ったような感触の後に、今度こそ水に飛び込んだ感覚がグラディスを襲った。
「--っっっ!」
慌てて見開いた目の中で、眩しすぎる太陽に照らされた海面が見えた。迂闊に開いていた口から空気が抜けていき、代わって塩辛すぎる水が流れ込んでくる。
泳げないんだが!? という悲鳴を上げる余裕さえない。慌てて手足を闇雲に動かすが、修道服が絡まってろくに動けもしないまま、海面が遠ざかっていく。冗談じゃない、という気迫も、沈んでいく体を浮かすには足りない。苦しい呼吸に水を吸い込みそうになって、その時に伸ばした腕を力強く引っ張られた。そのまま両手を違う方向から引っ張られ、海面に出たグラディスは咳き込みながら思いっきり息を吸い、波しぶきまで吸い込んでしまってまた咳き込んだ。
「おい、シスター、大丈夫かっ?」
グラディスを助けてくれたのは、複数の男達だった。
「おい、舟があっちにあるぞ! おぉぉ~い! こっちだ、こっちにいるぞぉぉ!」
他の男が手を振り、そうこうしている間に舟が集まり、泳げないグラディスは無事に舟に上げられて保護されることになった。
「し、死ぬかと思った……」
飢え以外の生命の危機というものを、久方ぶりに味わったグラディスはぐったりと船縁に体を預けた。
「シスター、あんたがあいつらを助けてくれたのかい? 親方が、聖女様が来てくださるって言ってたけど、あんたのことだろ? ほら、ジョンがいる。ジョージも、スティーブンも」
誰だそいつら、と顔を上げると、先ほど背中を蹴り落とした男達が舟に上がってきたところだった。生気のある表情とは雲泥の差だったが、いかにも海の男といった体つきと、髭の濃さには見覚えがある。
「あぁ、そうだ。……ちょっと舟を動かしてくれないか? あちらとの境界を塞がなきゃならない」
このまま放っておけば、また境界を越えてあちらの世界に行ってしまう人間が出るだろう。
「いいけど、どっちだい? どっちに進めばいい?」
聞かれて、グラディスは周りを見回した。煌めく海面に視界を焼かれつつ、視力以外の感覚を広げる。
「--あっち、かな」
ゆっくりとそちらに進ませると、潮の香りに森の香りが混ざった。
「止まれ!」
停止を命じて、それからグラディスは休息を命じる聖水を、濡れて開きにくい小物入れからもたつきつつ取り出した。それを海面にふるう。
「レクイエム・エテールナム・ドーナ・エイ・ドーミネ(主よ、彼らに永遠の安息を与えてください)」
聖句を唱えると、森の香りがふ、と消えていった。境界は閉じられたらしい。
「……これで大丈夫だ。なぁ、スザンナの舟を探してくれないか?」
用事が終わってぐったりしつつ、舟の男達に問いかけて、スザンナ達の舟を探してもらうことにした。もはや体力の限界である。まさか海の水があんなに塩辛いとは思わなかった。見た目は泉の水と同じなのに、詐欺である。スザンナの舟が見つかるまで船縁でぐったりとしていたグラディスは、強い太陽の光で修道服が乾き、その上に塩が吹き出したのを見て、もう海は懲り懲りだという思いを新たにしたのだった。




