ティル・ナ・ノーグ
威勢良く馬車を飛び出し、悪魔の気配を追って屋敷内をうろついたものの、一向に本体の気配が掴めない。しばらくは後ろをついて歩いていたオーフェリアもヨランダも、とうに音を上げて客間でくつろいでいるらしい。
「--邪魔するぞ」
残り香のような気配を追って扉を開くと、酒類の貯蔵室の中で絡み合う二人の男女がびくりと大きく震えた。休憩時間にしけこんでいた恋人達に舌打ちをして、扉を閉める。
「ったく、どこだこら」
ちっと舌打ちをしたい衝動をこらえる。あれほど簡単に祓える悪魔相手にこれほど手こずっているなど、自分でも認めたくはない。
振り返って廊下を歩き始める。宮殿とは違い、使用人通路の数は多くない。屋敷のあちこちを、客人に遠慮するように、だが確実に使用人達が行き交っている。
「外、か?」
厨房を通り過ぎ、裏手にある勝手口を開ける。目の前には井戸と、翻る洗濯物だ。悪魔の気配は薄い。だが、ないわけではない。
「逃げられてる、とか?」
もしやグラディスの気配を悟って、撒いているのだろうか。
「……いい度胸じゃないか、クソが」
今度こそ確実に舌打ちをして、腕を組む。勝手口を閉め、屋敷内に戻りながら考える。罠を張ってそこに誘い込めればそれが一番いいが、この悪魔の好物が分からない。恐らく好物だろうジョージ・ブーリンは、今の時間は宮殿にいる。邪魔だから祓った後にロザリオを渡して待機を命じておいたのだ。その指示がここにきて裏目に出るとは、業腹でしかない。
憤りを込めて歩き始めたグラディスの肩に、誰かの腕が回る。司祭の着るカソックが見えた。ぎくり、と強ばった体を抱き込むように、そいつはグラディスを抱き寄せて手近な部屋に押し込んだ。
「--っ」
「手間取っているようですね」
もの柔らかな言い方は、いつもの黒犬の姿とは全く違っていた。かつて、この男が司祭だった頃と同じような、穏やかで清廉な空気。
「お手伝いしましょうか、シスター・グラディス」
体を抱きかかえるようにしているせいで、男の顔は見えない。そのことが心の底から救いに感じた。体に回る、腕の感触に肌が粟立つ。鳥肌だ、と自分に言い聞かせる。全身が茹だりそうな熱など、気のせいに違いない。
「はな、せ」
後ろから抱き込まれている。背中に当たるその男の胸板の感触に、その大きな体で包み込まれる感触に、何故だか泣きそうになる。
この男は、グラディスを騙していた。大聖堂の司祭達を、惨殺した。穏やかな笑顔で血をまき散らした。あれ以来、ルークという名の司祭は存在しなかったことになっている。どこにも彼はいなかった。あれほど神に愛されたようだった彼の存在は、なかったことになった。あの黒犬が、彼に取り憑いていただけだったなら、どれだけ良かっただろう。彼自身が悪魔だったなんて、ひどすぎる現実だ。憧れていた。彼のような、選ばれし人間になりたかった。この世の汚濁なんて、見たくもなかった。
「……離せ、ルーク」
未練だ。あの男に対する。
苦く嗤って、グラディスは命じた。コレは、黒犬だ。かつてグラディスが憧れて、見つめることさえ叶わぬほどの思いを抱えていた男ではない。アレは偽物だった。張りぼてに間違った思いを捧げていただけだ。
「許可なく人間になるな」
手に聖油の瓶を持つ。その手が僅かに震えていることなど先刻承知だ。それはグラディスの弱さだ。だが、だからどうしたというのだ。消せない憧憬ならば、封じればいいだけだ。なかったことになど、簡単にできる。あの淫売宿でグラディスの体をいいように扱った男達を思い出せ。その男と、アレは同じだ。グラディスの心を弄んで、手に入れたように錯覚する愚物。怒るほどの価値もない。ただ冷ややかに軽蔑するのみだ。
「あたしの役に立て、悪魔。あたしの悪魔祓いを何度もやり過ごす、弱くて狡猾な悪魔をあたしの前に連れてこい」
見据えて命じれば、司祭の姿をした男は困ったように笑ってから黒犬に姿を変えた。
「御意、主」
そう言って煙のように消えていく悪魔を見送り、ようやくグラディスは濡れている頬に気づいた。
「ちっ」
トゥニカの袖で乱暴に拭い、頬を叩く。
「出てこい悪魔」
今度こそ祓ってやる。跡形もなく。
男に押し込まれた部屋から外に出る。黒犬と悪魔の気配が、遠くでめまぐるしく駆け回っているのを感じる。屋敷の中から気配は遠ざかったのに気づいて、再びグラディスは舌打ちをして裏手の勝手口に向かった。厨房では昼食が終わり、夕食準備までの弛緩した休憩時間を楽しむ料理人達の姿がちらりと見える。
勝手口を開き、外に出る。その向こうには井戸が見えるはず。そのはずだったのに、グラディスの視界を埋めるのは、濃厚な霧だった。足元さえ覚束ないほどの、大量の白い霧だ。
「--っ」
ふと気づいて背後を振りかえると、勝手口も、それどころか、屋敷自体もかき消えていた。影すらも見えない。
「……罠、か……?」
これは、黒犬と小悪魔が組んだ罠だろうか。
--くすくすくす……
密やかな忍び笑いに目をやると、僅かに霧が晴れた。大木の根元、その藪の中で、何かがくすくすと甲高い声で嗤っている。
--ねぇまだ? まぁだ?
--はやく回さないと
--正しい季節を
甲高い声にも種類があって、金属が鳴るような声と、乾いた木を叩くような声、それに氷を踏みしだいて割るような声がそれぞれに響いた。
「誰だ」
聖水の蓋を開ける。ロザリオを掲げ、心を整え直す。何も怖くはない。何物も、グラディスの自我を侵すことは許されない。
--最後の巫女
--ほんとうに、最後
--これでおしまい
巫女という言葉に眉をしかめ、聖水を軽く振って地面にばらまいてみせると、きゃぁぁっとどこか嬉しげにはしゃぐ声がした後、沈黙が戻った。
「…………」
ルークと、呼ぶかどうか迷った。これが罠なら、張本人を呼び出せるか否かで結果が分かりやすくなる。だが。
「ちっ」
グラディスは歩き始めた。黒犬なんぞに頼る己ではない。だから、呼ばない。胸を張り、修道服のトゥニカを翻しながら堂々と進む。霧の中でせせらぎの音が鳴り、川沿いを登っていく。白く濁った景色の中に、大小の影が跳ねる。グラディスを歓迎するように、そそのかすように。
「……ティル・ナ、ノーグ……」
母から寝物語に聞かされた、異界の話。この世とあの世の、狭間の世界。生きている人間が迷い込んだら、簡単には帰ることの許されない『あちらの世界』。今のグラディスならば悪魔と断じるだろう、異形の妖精達の住処。妖精は悪戯好きで、善悪の区別が判然としない。
『冬は、神様の季節なのよ』
そうだ、母はそう言っていた。
『冬に、神様が恵みの種をまいていかれるの。そして春が来て、正しく芽吹いて、秋に実る。そうしてまた冬に神様を呼ぶのよ。恵みを願って』
遥か遠い記憶だ。十年以上前の。母が死んでからの十年は、汚濁に満ちていた。汚らわしいもの、醜いもの、おぞましいもので世界は溢れていた。その十年を通して、母の記憶は薄まり消えていったはずなのに。
「ロットゥウマ、ベェル……」
寝物語の最後に、母はこの歌を歌った。優しく、威厳に満ちた顔だった。
『あたしの子どもじゃない』
それなのに、最後の顔は見えない。声だけが、聞こえる。燃え盛る炎の向こうから、あの人の悲鳴だけが、響いていた。
『愛したことはなかった!』
思い出すだけで胸が痛い。己の存在を切り刻まれるような痛みだ。誰に、どんな侮蔑の言葉を吐かれても、これ以上の痛みをもたらしたことはない。
「ロットゥウマ、ベェル、ラリルゥリ、ルゥリ……ニィニィネ、エイル……」
優しい記憶だけを覚えていればいいのに。愛されていた記憶だけを大切にして、最期の叫びはすっかり忘れ去ってしまえればいいのに。
グラディスは首を振った。ぼやけていた頭を覚醒させる。ここは敵地だ。悪魔共の巣窟だ。こんな場所で気を抜くなんて、あり得ない。この霧に込められた罠かもしれない。
「エクサウディ・オラツィオーネム・メアム(私の祈りを聞き入れてください)」
あの汚濁に満ちた場所からグラディスを救い出したのは、ルークらが呼ぶ『新しき神』だ。その神が作ったシステムが、グラディスに力をくれた。負けはしない。決して屈しはしない。
「出てこい悪魔! あたしが滅ぼしてやる!」
ロザリオを掲げて大声で叫ぶ。
「やれやれ。この場所にまで来て、我が主はなんとも変わらぬようだ」
霧の中から黒い煙が立ち、それが凝って黒犬の形を作った。その口元に咥えられているのは……しなびた林檎のような形をした悪魔だった。
「……なんだそれ」
「主の捜し物だろう」
あまりのしなび具合に思わず呟くと、黒犬が冷静に返事をした。
「あたしは悪魔を連れてこいと言ったんだ。しなびた林檎を持ってこいと言ったわけじゃない」
いかにサザークの人間でも、食べるのをちょっとためらうほどのしなび具合だ。
「しなびた林檎……」
黒犬は、かしかしと前足で地面を掻いた。咥えられた林檎はじたばたと暴れていて、どうやら生物ではあるらしい。
「……まぁいい。それが悪魔なら、祓えば分かるだろ」
聖水を、黒犬を中心とした場所にまく。そうすると黒犬は、しなびた林檎を口から離した。
「何故我まで巻き込むのか。主の寵愛は時として重いものだ」
「黙ってろ駄犬」
聖水程度でどうにかなる悪魔なら、とっくに祓っている。先ほどの非礼は忘れていない。
『おい、お前どういうつもりだケルヌ――っ!?』
喚く林檎の言葉に答えるように、黒犬はべしゃりと前足で果物を押しつぶした。
「やれ、無粋な妖精だ。異名を明かすのはお互いの仲がもっと深まってからと決まっておろうに」
「ほんっとにもう喋るなお前。ついでに祓うぞ」
頭を振って気を取り直す。その隙に林檎が叫んだ。
『冬を呼べ! 早く! 正しい季節を巡らせろ! 生け贄の血でテムズを清めろ!』
グラディスは薄く笑った。
「あたしに命令するな塵悪魔。あたしがすることは、あたしが決める。レクイエム・エテールナム・ドーナ・エイ・ドーミネ(主よ、彼らに永遠の安息を与えてください)」
掲げていたロザリオから、濃い霧をつんざく光が放たれた。思わず目をすがめ、その眩すぎる光の中で、しなびた林檎が影ごとかき消えていく様を見つめた。黒犬も影を散らしはしたが、消えはしなかったようだ。
「あぁ……この国では魂の力が強く出る。主の術に巻き込まれてみようなどと、酔狂を起こすのではなかったな」
どこか輪郭のぼやけた姿に変わり果てた黒犬は、ふてぶてしい態度ながらもそう嘆いている。
「おい。どうやって帰るんだ」
ロザリオを掲げた姿勢のまま、質問というより尋問という響きの方が似合う口調で、グラディスは黒犬に尋ねた。
「ふむ。しばらくここを散策してはどうかね」
「却下だ。お前の作戦に乗るつもりはない」
「懐かしい顔に会えるかもしれない、と言っても?」
グラディスは、心を見透かしているかのような黒犬の視線を、険しい目つきで受け止めた。
「お前の、いかなる指示にも従うつもりはない。あたしは誰にも屈しない。あたしを屈服させたいなら、殺す気でこい」
誰の機嫌も取らない。誰にも、もう二度と尊厳を奪わせたりしない。グラディスの誇りはグラディスだけのものだ。
「では、主の忠実なる下僕の懇願なら?」
「お前の忠実さをあたしが信じてるとでも思ってるのか」
グラディスは鼻で笑った。聖パウロ大聖堂での殺戮を、忘れるはずがない。あの時この黒犬は、グラディスにとって一番大切だったものを穢し、壊した。そんな相手を信頼できるはずもない。下僕として使えというから使ってやっているだけに過ぎない。
「主。もう十年だ。十年も、正しく祭が行われなかった。この大きな島は、危機に瀕している。あちらの世界も、こちらの世界も」
「あたしは、命を奪い、血を流す儀式を強要する古き神のために、動く気はない」
黒犬に背を向ける。この犬に懇願して、ここを出る手助けを頼むつもりはない。夕闇のような、満月の夜のような霧の中を、異形の木々が立ちふさがる中を歩き進む。くすくすと笑っていた影は鳴りを潜め、もっと凶悪で力の強い者達の視線を感じる。ここは悪魔の巣窟。だからなんだと言うのだ。ただの視線で、ただの威嚇でこのグラディスが心弱り、屈服するとでも思っているのか。
「……ふざんけんなよクソが」
沸々と沸き上がるのは怒りだ。
正しい祭を、母がしていたのか。その祭を正しく行うために、母はあの年、あの飢饉の年、鶏を盗んだのか。そうして焼きながら殺されたのか。
「ふざけるな」
熱い怒りの雫が目尻に溜まっては流れていく。前だけを見据えて歩くグラディスの前に、やがて貴族の屋敷が姿を現していた。




