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匂うな


 茶会は終わり、いつも通される部屋に戻ったグラディスらは、アンから提案を受けた。


「ねぇ、今から弟の屋敷に行ってくれないかしら。あれだけ何度も悪魔に取り憑かれていては、弟の体が心配なの。宮殿でないとしたら、屋敷の人間に原因があるのかもしれないわ」


 つまり、提案という名の命令である。


「はい」


 こういう時の返事は簡単だ。はいか、いいえだけ。そして実質的にいいえという返事は許されていない。はい、と言うだけの簡単な作業である。


「かしこまりました、アン様」


 オーフェリアが丁重に頭を下げて、そこでようやくグラディスは、はいと言うだけでは不足だったのではないかという、僅かな疑問を覚えたのだった。





 そういうわけで、ジョージ・ブーリンの屋敷に向かうため、グラディスらは宮殿から馬車に乗った。何かの紋章が扉に描いてあったから、どこぞの貴族の馬車に違いない。オーフェリアの実家が寄越してくれる馬車よりも格段に豪勢な馬車で、ブーリン一家の権勢ぶりを思わせた。


 その中で、オーフェリアはさっそくリュートを取りだしてかき鳴らしている。聖書で聖者が殉教する場面を囁くように朗読しているところを見ると、彼女にとってイングランド語の聖書という光景はかなり衝撃的なものだったと思われる。


 というのも、ラテン語は神の言葉と思われているのだ。神の言葉を現世の人間が編纂する。それは信仰深い者にとっては、恐ろしいほどの冒涜に映るのだろう。聖書はラテン語で綴られ、選ばれた人間だけがその内容をそれぞれの国の言葉で信者に語って聞かせる。それが教会のあり方であり、古くからのカトリックのあり方である。それが近年のプロテスタントの教えで揺らいできつつはあるが、それは外国での話だと思っていた。ドイツとかそういう、海を越えたどこかで起こっている闘争だと。


「なんでアン様はプロテスタントの聖書なんか持ってたんだ?」


 国王の愛妾が持つには、いささか不穏な書物に見える。ヨランダに問いかけると、ヨランダはオーフェリアを気遣わしげに見やった後、声を潜めてグラディスに語った。


「大きな声では言えないけれど、国王陛下は王妃陛下と離婚したいお考えだそうなの」

「リコン……ってなんだ?」


 聞き覚えのない言葉に首を傾げた。


「結婚を解消するといういう意味よ。結婚から離れるということ。プロテスタントには許されているらしいわ」


「結婚したら死ぬまで夫婦なんじゃないのか?」


 娼婦と肉体関係はあるかもしれないが、結婚したら夫は夫のままだ。妻が妻のままであるように。


「だから、プロテスタントなら許されるのよ。とてもわたくし達には理解できないけれど、離婚して再び違う方と結婚もできるの。国王陛下と王妃陛下の間にはお子様がいらっしゃるし、お互い死別ではないけれど、結婚関係をやめてしまいたいとお考えみたいなの」


「なんでだ? 妻に飽きたんなら浮気すればいいじゃないか。王様なんだから」


「それだと、アン様との間にできたお子様に、王位継承権がないでしょう? 今の王妃様はもうお若くないし、王女殿下しかいらっしゃらない。正統な婚姻による息子を欲しがってらっしゃるのよ、国王陛下は」


「娘でいいじゃないか。次の女王にすれば」

「そういった事情は陛下でないとご存じないけれど、きっと違うとお思いなのでしょうね。女では駄目だと」


「クソだな」

「お黙りなさい」


 正直なグラディスの言葉を叱り飛ばし、ヨランダはため息をついた。


「王妃陛下は外国のご出身だけれど、カトリックの敬虔な信者でいらっしゃる。正直なところ、応援したい気持ちでいっぱいよ。プロテスタントなんぞをこの国に呼び込もうとされているアン様のことを、理解できない気持ちも大きい。でもねぇ……王妃陛下は今、宮殿にいらっしゃらないそうなの。どこかに追いやられておしまいなのだとか。どうなってしまうのかしら、イングランドは」


 物憂げに息を吐くヨランダは、修道女に相応しからない色気のようなものを濃く浮かべていた。まだまだ結婚できるんじゃないか、という失礼な感想を抱きつつ、グラディスは薄く笑った。


「……つまり、地上の都合で神様まで振り回されてるってわけだ。そりゃそうか。信仰は、システムなんだから」


「訳の分からないことを言っていないで、あなたもお気をつけなさい。アン様にあんまり近づきすぎると、修道女として居続けられないかもしれないわよ。あの方は、わたくし達信仰の道を、ご自身の野望でねじ曲げようとなさっている」


「そんなの、あの人が初めてってわけじゃないだろ」


 閉ざされた書架の、禁書がそうだ。本来ならばあれは、全ての人間に与えられるはずの知恵だったのではないか。それを、司教以上の特権階級が知識を独占するために、書架を閉ざした。その結果、力の強い悪魔に、人間達は抵抗する手段を失ったのだ。いつだって弱く、貧しい者がまず最初に割りを食う。


「最初からねじ曲げられてたもんを、今さらどう変えようが大差ないさ。プロテスタントだろうがカトリックだろうが、信仰ってシステムを制した人間が勝てるってだけだろ」


「あなたの物言いには随分前からいかがなものかと思っていたけれど、今日ほどそれを実感したことはないわね」


 ヨランダの言葉には肩を竦め、それから窓の外を流れていく田園風景をぼんやりと眺めた。そうしている間に馬車はブーリン家の屋敷に到着したらしい。領地はノーフォークにあり、そこに広大な屋敷があるらしいのだが、こちらはロンドン近郊に構えている別邸だそうだ。国王の愛妾、アン・ブーリンの弟が住む屋敷である。それまでの田園風景とは打って変わった豪奢な屋敷に、グラディスは驚きを通り越して笑いがこみ上げてきた。


 人間とは面白いものだ。サザークの年若い娼婦と、国王の愛妾の弟。境遇は全く違うのに、悪魔はそれらを超越して苦しめてくる。彼らに人間の世界の権勢など関係ない。そのことが何故か、とても愉快なことに思えてきた。





「……匂うな」

「なぁに? 悪魔の気配がするの?」


 ヨランダの声に、それまでリュートを手放さなかったオーフェリアも顔を上げた。


「なんだろう。薄い、煙みたいな気配だ。残り香みたいなもんかもしれない。さっきまで娼婦とヤってた部屋って匂うだろ?」


「お黙りなさい」


 的確な比喩ができたと悦に入っていると、ヨランダの肘鉄が横腹を抉った。騎士爵の娘は、体術を学ぶ伝統でもあるのだろうか。


「最近遠慮がなくないか? ……さて、悪魔狩りとでもしゃれ込もうか」


 馬車が止まり、開かれる前に扉を勢いよく開く。礼儀作法なんぞ知ったことか。グラディスは悪魔祓いだ。修道女であり、悪魔を祓うのが仕事だ。誰に顔をしかめられようと、構うものか。







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