で、ジョージって誰だっけ
ホワイトホール宮殿では、いつもの使用人通路から違う場所に出た。オーフェリア、ヨランダの後に続いたグラディスは、侍従に導かれてとある応接間に招かれた。大きな花瓶が置かれた隅に、グラディスらの座るらしい椅子があった。侍女達が控えるのと似たような場所だ。思わず不安になったグラディスがオーフェリアをちらりと見やるが、予想外に彼女は落ち着いた風情だった。思わず安堵の息を吐きそうになったグラディスの耳に、指をしきりに動かしながら小声で何事かを呟くオーフェリアの声が聞こえた。ヨランダに視線をやると、半分に開いた目で首を横に振った。落ち着いているように見せつつ、衝撃を聖書の朗読で緩和させようとしているらしい。ほとんど聞こえないほど小声なのが救いか。
室内は華やかに飾られ、幾つもの布張りの椅子が置かれている。一番中央の椅子が最も豪華で、張られた布は金糸で輝いている。背もたれに見えるのは宝石だろうか。
「来ましたね。わたくしが合図する方が、アン様が最も疑わしいと思われる人物です。あなた、悪魔の気配は分かるのでしょうね?」
「誰に聞いてるんだ無能」
思わず言葉を洩らしてしまったが、グラディスの声に被せるようにしてオーフェリアが、
「もちろんですわ。この子がサザークの聖女と呼ばれる由縁をご覧いただけると、わたくし確信しておりますのよ」
と声を張って言った。険しい顔の貴婦人がさらに顔を険しくさせたところを見るに、グラディスの言葉は届いていたような気がしなくもないが、それ以上の言及がなかったので恐らく大丈夫なのだろう。オーフェリアからは鋭く睨めつける視線を感じたが、そのために彼女を呼んでいるのだ。いい仕事をしていると微笑んでみたが、余計に睨まれた。解せない。
険しい顔の貴婦人が部屋の準備を確認するためだろうか、室内をそぞろ歩き始めた時、ヨランダに肘で横腹を突かれた。
「ちょっとあなた、もう少し自分でも直そうとは思わないの」
「直らない。だから直そうと思っても無駄だ」
無駄な努力をするつもりのないグラディスはそう言い切って、さらに横腹に肘をめり込まされて、うぐ、と呻いた。けっこう痛い。
「少しは。オーフェリア様や、わたくしの、立場を、おもんばかる、知恵は、ないのかしらぁ?」
ぐりぐりと肘が横腹に入ってきて、グラディスは呻きつつ答えた。
「分かった。黙ってる」
「それが限界ってどうなのかしら……」
呆れたような声音とともに肘が離れていって、ようやくグラディスは息をついた。自分がほほほと笑いながら『わたくしぃ』と言いつつ腰をくねらせる姿を思い浮かべて、吐きそうになった。人間、できることとできないことがある。泳ぐ魚は飛べないのだ。しょうがない。
「--そろそろ客人方がいらっしゃいます。そこで静かに、動かず待機していなさい。アン様の名誉に関わりますからね」
特に視線がグラディスに集中していたように思えるのは気のせいだろうか。その一方で侍従やら侍女らが部屋に入ってきて、茶菓の準備を整えている。さらには部屋の対角線では楽士がヴァージナルを弾き始めた。そうやって準備が万端になってから、貴婦人達が部屋に入ってきたのだった。
どうやらアン・ブーリンが中央の椅子につき、朗読をするための会であるらしい。一番最後に入ってきたアン・ブーリンは、一冊の本を手にして中央の椅子に腰掛けた。
「皆様ご機嫌よう。今日はわたくし、皆様にご紹介したい本がございますのよ」
その本は分厚いものだった。本を装丁する表紙も分厚い。その表紙には、十字架が書かれていた。
「……っ、なんていうこと……」
ごくごく潜められたオーフェリアの声がグラディスの耳をくすぐった。オーフェリアは胸元で十字をきっている。
「これまで、神のお言葉は異国の言葉のみで語られてきたでしょう? ですけれど、この聖書はイングランドの言葉で書かれていますの。これならばわたくし達にも、直接神のお言葉が伝わると思われませんこと?」
ラテン語によらない、イングランドの言葉による聖書。それを聞いた貴婦人達は、だが好意的な歓声を上げた。
「まぁ、それはどちらから輸入されましたの? 噂には聞いておりましたけれど、ウィルトシャー伯爵は長い手をお持ちですのね!」
ローマ教皇の教えに異議を唱えるプロテスタントの者らが、ラテン語によらない聖書を刊行しているらしいとは、噂で聞いたことがあった。だがその本を、直接グラディス自身の目で見ることは初めてだった。
「……へぇ」
グラディスが悪魔祓いの祈祷で使うのはラテン語である。だが、祈祷用の文言を覚えているだけで、グラディス自身がラテン語を自由自在に操れるわけではない。そんなに簡単に習得できるような、生易しい言語ではないのだ。それを自由自在に操れる人間こそ選ばれた存在。それが司祭達なのだ。とはいえ、苦手にしている人間も多いらしいが。
「わたくし、こういった書物がもっと皆様の間に行き渡ればよいと思っておりますのよ。そうそう、今日はわたくしの大好きな言葉をご紹介いたしましょう。マタイの福音書から引用いたしますわね。『人を裁くな。自分が裁かれないためである』ねぇ皆様。ラテン語で拝聴するよりも、わたくし共の心に強く迫りませんこと?」
へぇ、と興味深く聞いていると、険しい顔の貴婦人がそっと近寄ってきた。花瓶の影に隠れて指さす先を見ると、アン・ブーリンの近くに席を与えられた一人の貴婦人がいた。明るい茶色の髪で、笑顔でアンの話を聞いて頷いている。だが痩せた頬と薄い唇が、どことなく高慢で残忍な気配をかもし出していた。
「……アレじゃない」
あの貴婦人は、貴族ということを除けばごく普通の人間である。悪魔も憑いていないし、悪魔を呼びだしたような気配もない。悪魔に特有の気配のいずれも、感じさせない。
「ジェーン様では、ない?」
険しい顔の貴婦人は、意外そうな声を出した。それほどに容疑者として有望株だったのか。
「違う。誰?」
「ジョージ様の奥方です。不仲でいらっしゃるので」
言葉短く伝えた貴婦人は、さりげなくグラディスから身を離してアン達に近寄った。若い貴婦人が喋るのをにこやかに聞いていたアン・ブーリンは、険しい顔の貴婦人から何事かを囁かれて笑みを深めた。驚いたり意外に思ったりといった表情ではなく、微笑みを深める辺りに彼女の冷静さがうかがえる。
「さすが一流」
いかに演技が上手くとも、一瞬だけ顔を過ぎる表情にまで気を配れる人間は、そういない。娼婦は素肌に密着する距離で演技をする。それは想像するよりもずっと困難だ。グラディスだって何度も失敗して、痛い目を見てきた。その過程で男嫌いに拍車がかかったのはご愛敬だ。
「で、ジョージって誰だっけ」
ヨランダを振り向いてそう問いかけると、何故か頭を抱えられた。色好みの青二才であり、アン・ブーリンの悪魔に取り憑かれた弟がそういう名前だったと気づいたのは、指摘を受けてからだった。まぁそういうこともある。たまには。




