悪食な悪魔もいるんだろ
その夜。グラディスは与えられた一人部屋を、往生際悪くうろうろと歩き回り、回避するためのあらゆる手段を検討した後にため息をついた。業腹だが、致し方ない。ものすごく不本意だが、アレを利用するしかない。ものすごく気が進まないが。
「……おい」
とりあえず、虚空に向かって呼んでみる。名前を呼ばないのは最後の抵抗だ。
「わん」
足元にソレの気配が集まり、犬の形を作った。相も変わらず下手な鳴き声だ。何気ない体を装って、手にしたロザリオを犬の背に擦りつけようとしたが、さすがにそう甘くはなかった。
犬はふわりと宙に溶け、それから部屋の入口に再び姿を現した。
「さてさて、これはどう解釈すべきか。主は我を利用したいのかね? ならば答えは応だが、それにしてもしかるべき手順があるのではなかろうか」
「くっそ黙ってろ駄犬」
「ふむ。それは使い魔として仕えることを許すという意味かね? 実に主らしい、恥じらいに満ちた言葉の使いようではないか」
うるさい無能、という言葉は心にしまっておく。コレの力を必要としているのはグラディスの方であり、コレの好奇心や気まぐれに感謝するべき立ち位置なのだ。そう考えると心底腹立たしい。いっそ貴族の悪魔祓いなど放っておくか。憑かれたら祓うのを繰り返していれば、寄付金も稼げるだろう。うん、それでいいかもしれない。
「やれやれ、主の含羞は我にしか分からないであろうよ。これ以上言を弄して主の機嫌を損ねることは望ましくない。我の名を呼んでさえくれれば、主のいかなる用向きにも応えることを約束しよう」
「名前……」
グラディスの表情はいっそ見物だった。うんざりとして、まるで嫌いな食べ物を口いっぱいに頬張らされたような顔である。
「ルークというのは実のところ、我の真名なのだよ。霊的な力を持たない人間がどれほど呼んだところで、意味のない音ではあるのだが、主ほどの存在ならば我を縛る力にもなろうよ」
黒犬は、人間くさくにんまりと笑った。自由を奪われ、使役される存在になるのならばどれほど腹立たしいことかとグラディスならば思うが、この黒犬にとっては喜ばしいことらしい。とはいえ相手は古き神であり悪魔である。表情がそのままソレの内心を表しているという保証はどこにもない。もしくは、なんらかの罠にかけようと狙っているかだ。
「お前の思惑がどうだろうと、あたしは構わない。あたしが必要としている時に役に立つなら、お前を使ってやろう。だが裏切ったら滅ぼす」
「我を滅ぼすことはできまいよ。この国から秋をなくすことと同義ゆえな」
「だが弱めることはできるだろう。お前という人格を滅ぼすことだってできるかもしれない。季節という存在を保ったままでな」
秋というシステムと、この黒犬の人格というシステムを切り離せばいいのだ。どこかに方法はあるはず。
「実に素晴らしい。主は巫女と呼ぶなと言っていたが、まさしく古き神に四季を巡らせる巫女に相応しい思考力だ。新しき神と遊ぶのに飽きたら、我らのことも思い出しておくれ」
「黙ってろ」
コレを使い魔として使役するならば、この無駄口にもつき合わなければならないのか。裏切りに備え、勧誘の無駄口に耐えるほどの価値が、果たして貴族にあるものかどうか。
「さてさて、我の匂いをその玩具に付けたいのかね? 確かに我の匂いならば、その辺の妖精共など逃げるしか能のない羽虫に成り下がるだろうが」
「分かってるなら動くな」
「それで? 我が主には先ほどの言葉は届かなかったのかね?」
グラディスは長い息を吐いた。それから光の消え失せた目で黒犬を見据え、口を開く。
「……動くなルーク」
「承知」
黒犬は、グラディスの目にも明らかなほど喜色満面な様子で腹ばいになった。グラディスを見上げる上目遣いの両目が、きらきらと期待に輝いている。その全てを見なかったことにして、グラディスは雑な手つきで黒犬の背にロザリオを擦りつけた。態度はコレだが、この存在力に匹敵する悪魔などそうそういないだろう。あの呆気ない祓われ方からすれば、小物という呼び方の方が相応しい。小蝿のように貴族に群がる小悪魔も、このロザリオを身につけていればそうそう寄りつけはすまい。
「はぁぁ」
それにしても、肉を切らせて骨を断たれた気がしてならない。この悪魔の手綱を握り続けなければならないなど、明らかに貧乏くじだ。
「今夜は主従祝いに羽目を外してもいいとは思わないかね」
「人間に危害を加えた段階で滅ぼすからな」
聖油は肌身離さずに持っていようと、心に固く誓ったグラディスだった。
思い返すも忌々しい主従契約の末、魔除け効果の高いロザリオをアン・ブーリンの弟に贈ったグラディスだったが、その効き目は意外なところで破られた。
「くっそ貴族の若造が。ひねり潰してやろうか」
「あなたにそんな立場はないでしょう? どうやって子爵位をいただいている貴族を潰せるというの」
ヨランダがたしなめてくるが、この場合ひねり潰すのは物理的な下半身に関係するものである。が、育ちのいい令嬢相手への解説を早々に諦めたグラディスは、ヨランダの言葉を聞き流すことにした。
「え、どういうこと? また取り憑かれたってこと? そんなに神様に寵愛されてる方なの?」
「ただの色呆け貴族だ。よりによってあたしが用意した魔除けのロザリオをなくしやがった」
どれだけの犠牲を払ってあのロザリオを準備したと思っている。簡単に紛失するような保管をするな。むしろ肌身から離すな。
「どうしてそんな人に悪魔が取り憑くの? みんな言ってたじゃない。悪魔は神様に愛された人間にしか取り憑かないって」
「悪食な悪魔もいるんだろ」
スザンナには適当な言葉を返し、さて、とグラディスは考え込んだ。もちろん失ったロザリオの代金である。修道院長はロザリオを再支給してくれるだろうか。自腹で買うとなると、非常に困る。なんせグラディスの稼いだシリングは、全てがこの聖メアリ修道院のものになるのである。グラディス自身の財産にはならないのが、この修道院というシステムなのだ。ならば新しいロザリオをどうやって入手するか。
「何を考え込んでいるの? いつもよりももっと気むずかしい顔をしていてよ?」
グラディスはヨランダを、縋るような目で見た。
「ヨランダ……ロザリオを安く買える場所はないかな? それか修道院から借りる方法は……」
「あなた本当に頭の働きは大丈夫なの? 修道院のために使ったロザリオなのだから、修道院長様に新しいのをいただきなさいな。ブーリン様のために贈ったと言えば、断られるとはとても思えないわ」
騎士爵の娘の言葉に、グラディスは目を瞬かせた。
「……いいのか? 怒られないか?」
「あなたねぇ、どうしてそういうところは遠慮がちなの。あなたの悪魔祓いはこの修道院の売りなんだから、いいに決まってるじゃないの」
スザンナからも力強く言葉を足され、グラディスは戸惑いつつも頷いた。必要経費というやつかもしれない。ならば前回、ヨランダの実家にやったロザリオの件も話してみてもいいかもしれない。
頷いて修道院長に新しいロザリオを強請りに行ったグラディスだったが、予想外な部分で怒られた。いわく、グラディスのような下っ端の修道女が持つロザリオを、貴族に贈るとは何事だ、ということらしい。そして贈った分のロザリオと、またこういうことがあった時のためにと豪華なロザリオを与えられ、なんだか納得できないような、その納得できない理由がなんだか分からず困惑するような気分でいながら、グラディスは再びオーフェリアの馬車に乗って宮殿に向かうことになったのだった。




