神に愛された人間
使用人通路から国王の愛妾の部屋に向かったオーフェリアは、今日はなんの不満も漏らさなかった。先日と同じ侍従の後を黙々とついて歩き、むしろ侍従の方が不安げに振りかえるほどだ。アンの部屋で、険しい顔の貴婦人に相対した時も、オーフェリアは落ち着いて振る舞った。
「ご機嫌麗しく存じますわ、ウィルトシャー、オーモンド伯爵家のアン様」
「まぁ」
部屋の主は今日も盛夏らしい涼しげなドレスを身につけていた。だがその隅々にまで豪奢な飾りが光り、国王の威光が彼女をも照らしていることを強調しているようだった。
「スネリング子爵家の出身でしたか。あなたが一緒にいるということは、どういうことなのです? アン様はご気分が悪くおなりだとご存じでしょう?」
「どうかわたくしの言葉をお聞きくださいませ。このグラディスという修道女は、ご存じの通り貧しい家柄の出身です。国王陛下と親しい仲のご婦人と会話する術など、とうてい持ち合わせておりません。ですが詳しい会話なくして、アン様のご用は果たせないのではないかと、彼女は危惧しております。どうぞわたくしのことは通訳と思し召して、ご寛恕いただけますよう」
オーフェリアは丁重に頭を下げた。それを見てグラディスも頭を下げる。貴婦人のような優雅なお辞儀ではないが、今はこの無骨な礼の方が相応しい気がしている。
「わたくし、とても自信がありませんわ。だって宮廷雀は面白おかしくさえずるのが仕事ですもの。わたくしの弟の、可哀相な境遇でさえ笑いものにするに違いありませんわ」
憐れっぽい口調でアンが訴えた。抑揚の効いた口調は、どこか詩歌を詠っているような空々しさを感じさせた。空々しい美しさ。貴族の社会というものの縮図がこうではないかと思わせる、空虚な美。
グラディスはちらりと、斜め前に控えるオーフェリアを見つめた。相変わらず上質な修道服を纏ったオーフェリアは、喪に服した貴婦人のようにも見える。
「実はわたくし、このグラディスから事情は聞いておりますの。そしてどうかわたくしの、そして修道院の事情をお聞きくださいまし。わたくしは聖メアリ修道院の一員でございます。わたくしの魂は神に捧げられており、スネリング子爵家にわたくしの所属はございません。わたくしの家は聖メアリ修道院なのでございます。この聖メアリ修道院は先日のアン様からの喜捨で、ようやく一息つけたのでございます。我らは己が身に纏うより以上のものを所有してはならぬ。それが我らが修道院の決まりでございますれば、清貧は受け入れてございます。けれどサザークは貧しい地域。その地域で貧しい魂を救済するために、現世のシリングが必要なのもまた、事実なのでございます。我々聖メアリ修道院の者に、アン様への異心を抱く者はおりません。また、万が一、万が一この件が噂になりましたところで……それが何か、問題になるでしょうか?」
アンと、険しい顔の貴婦人は素早く目を見交わし、それからぐっと力の増した目でオーフェリアを見つめた。
「問題? もちろん問題になるに決まっているでしょう。あなた方は世俗の事情に疎い。今がわたくし達にとって重要な時期だということなど、知るはずもない」
「もちろん存じ上げません。けれど、わたくし達は神と悪魔の関係に関しては宮廷の皆様より詳しく存じております。アン様。悪魔に取り憑かれる人間には一つの共通した特徴がございます。それが何か、ご存じでしょうか?」
これらの話はもちろん、グラディスが吹き込んだのである。弱みを弱みと認識するから困るのである。敵に、弱みではないと知らしめられれば、弱みは弱みでなくなる。アンの詳しい事情は知らないが、国王の愛妾である。なんらかの権力闘争が絡んでいるだろうことぐらい、淫売宿の娼婦達で鍛えられてきたグラディスにとっては自明の理だった。
「なんです」
険しい顔の貴婦人が、張り詰めたような響きの声で問いただしてきた。オーフェリアはおっとりと十字を切る。
「悪魔が取り憑くのは、神に愛された人間ですわ。かつて神の御子でさえ、悪魔の試練にさらされました。悪魔が狙うということは、それだけその方が信心深く、神に特別に愛された証拠に他なりません。どこに恥じる必要があるでしょう?」
そういう一文を、書庫で読んだことがあるグラディスはだがしかし、と胸内で呟いた。あの色男のどこに、神の目に止まるような美点があったのか。まぁどこにでも例外はいるんだろうな、と早々に結論づけたグラディスは、熱弁するオーフェリアを尊敬の眼差しで見つめた。吹き込んだとはいえ、その熱意には頭が下がる。よくもまぁ、グラディスのために動いてくれたものだ。
「まぁ……あの子が、神に愛された……」
「どうか聖パウロ大聖堂の司祭方にもお尋ねくださいまし。わたくし共のついた、その場限りの嘘ではないことを証明してくださることでしょう」
「まぁ……」
アンと険しい顔の貴婦人は互いに顔を見合わせ、それからにんまりと笑った。どうやら貴族にとって満足のいく回答だったらしい。外聞さえ取り繕えば大人しくなるだろうと思った、グラディスの考え通りだった。
「スネリング子爵家の令嬢。あなたの知識にどれだけ深く感謝していることか。わたくしはあの子に訪れた突然の不幸に、とても悲しんでおりましたの。そしてわたくしの不幸を喜ぶ声に、とても辛い思いをして参りました。けれど今、あの子の不幸が選ばれし者の試練と知ることができて、これ以上嬉しいことはありません。あなたを歓迎します、スネリング子爵家の令嬢。いえ、聖メアリ修道院のシスター・オーフェリア」
「感謝いたします、アン様」
三人の貴婦人達は軽やかに笑って頷き合い、グラディスは隣のヨランダと目を合わせてため息をついた。貴族の社会というのは面倒くさい。まさしく、オーフェリアの生まれた社会らしい様相だった。
それからアンの弟、ジョージ・ブーリンが呼ばれ、今度もごくあっさりと悪魔祓いを成功させたグラディスは眉をしかめた。簡単すぎる。
「シスター・グラディス。これは呪いなのかしら? 誰かが弟を呪っていて、それで弟は何度も悪魔に取り憑かれてしまうのかしら?」
アンもことの異常さを感じ取ったらしい。これで終わらないのではないかという不安を滲ませていた。グラディスは、こそこそとオーフェリアに耳打ちをする。
「呪いというより、悪魔の本体がどっか別にいるのかもしれない。あの愚図の周囲で不審な人間がいないか、調べた方がいいかもしれない」
オーフェリアは呆れたようにグラディスを見つめ、それから美しい言葉で言い直してアンに伝えた。アンはその言葉に頷く。
「そうね。わたくしに心当たりがあるわ。次にもしまた弟が取り憑かれてしまったら、犯人と思しき人間を集めましょう。あなた、来てくれるわね?」
オーフェリアではなくグラディスを見据えるその黒い瞳に、グラディスは肩を竦めて頭を下げた。隣から横腹を突かれる気配がしたが、きっと気のせいだと思っている。




