もげろ青二才
「ご機嫌よう、サザークの聖女。あなたに頼みたいことがあって呼んだのだけれど……ねぇ、あの子はまだなの?」
女主人が困ったように、険しい顔の貴婦人に問いかけた。
「申し訳ございません、アン様。そろそろいらっしゃるとは思うのですが」
どうやら誰かを呼んでいたらしい女主人は、客人の遅参に目を細めている。呼んでいるその誰かの身を案じたくなるような気配だった。だが、グラディスをわざわざ呼びつけてやらせたいことなど、範囲は狭い。グラディスの知られているだろう特技など、悪魔祓いだろうと思うのだが、たかが修道女にさせるだろうか。聖パウロ大聖堂の司祭の誰かにさせればいいのに。彼らの方が腕は落ちるが、世間からの信頼は絶大なはずだ。
「ねぇあなた。どうして司祭ではなくあなたを呼んだのか、不思議に思っているのではなくって?」
不意にいたずらっぽく話しかけられ、グラディスは顔を上げた。返事は、はいか、いいえ。
「はい」
簡単なお仕事である。
「ふふ、素直な方ね。……わたくし、優秀な方が好きなの。それと秘密を守れる方。司祭はどうも口が軽くっていけないわ。その点あなたなら、きっとわたくしの信頼に応えてくれるでしょう? そうよね?」
信頼を裏切ったらあらゆる手段で潰されそうである。なんせあちらは国王の愛妾なのだ。
「はい」
そもそも誰に洩らすというのだろう。修道女相手に噂話をしたとしても、彼女が恐れるだろう貴族へ、その噂話が届くことはないと思うのだが。
「嬉しいわ! ねぇ、お名前はなんというの?」
さて困った。はいかいいえ以外の返事が早速必要になった。ですかますを付ける。それでいいはずだ。
「グラディス、です」
淫売宿で喋っていたような、蓮っ葉な女性言葉も駄目だろう。育ちのいい客でも雰囲気を味わいたいのか、あの場所ではたしなめられたことはないのだが。
「グラディス。グラジオラスの花の名前ね。華やかないい名前ね」
グラジオラスがどんな花かを知らないグラディスは、曖昧に頷いた。そしてこういう場合、誇らしげな顔をすべきか恐縮した顔をすべきかもよく分からない。淫売宿では同性を褒めるということがなかったのでなおさらである。
「アン様」
戸惑っているうちに、ようやく訪問者が現れたようだった。険しい顔の貴婦人が女主人に声をかけ、アン・ブーリンは頷いた。貴婦人が扉を開けに行き、開いた扉の向こうから、明るい声が響いた。
「姉上!」
鳶色の髪が性格の明るさを表しているかのようなその青年は、どこか浮ついた声で姉を呼びながら入室してきた。
「ジョージ、遅くってよ」
アンが顔をしかめてそうたしなめているが、その声には肉親に対する親しみが込められていた。怒っている様子なのに、彼を待っていた時の苛立ちは欠片も見えない。明るい弟の様子を見て、毒気を抜かれた姉の態度。まさしくそれに見えた。そしてグラディスは、ジョージと呼ばれた男から感じる気配に眉をしかめた。世の中には悪魔に取り憑かれる人間が多すぎる。
「すみません、姉上。どうしてだか別の部屋にいたんです。うとうととしていたようで」
どことなく焦点のぼやけた目が、グラディスを捉えて見開かれた。
「やぁ、これはなんたる美人な修道女だ。こんなに若くて美しいのに勿体ない。私が世話をしてあげるから、還俗してはどうだい?」
「もげろ青二才」
もはや脊髄反射で言い返したグラディスは、恐ろしいほどに静まりかえった室内に気づいて苦笑した。
「はじめまして、貴族サマ」
きっと早口で聞き取れなかったに違いない。それか汚い言葉過ぎて理解ができなかったはずだ。何事もなかったように振る舞えば、なにもなかったように見過ごされるに違いない。
「そ、そうね。わたくしが紹介したかったのはこちらの、サザークの聖女ですよ。最近あなたは様子がおかしいわ。秘密を守ってくれる口の固い人を頼んだのだから、お利口に座ってなさいな」
呆けたように口を開いたジョージ・ブーリンの目が、ちらりとグラディスを見て、グラディスは目に力を込める。もちろん、大人しく口を閉じて座ってろ、という意味を込めてだ。その意志を悟ったかどうか、ジョージは用意された椅子にゆっくりと腰を下ろした。まるで肉食の猛獣を相手に刺激しないよう、静かに動く草食獣のような動きだった。
「さぁ!」
アンは力強く両手を打ちつけた。パン、という音が室内に響く。グラディスに奪われた主導権を、握り直そうとでもしているかのようだ。そんなことはしていないのだが。
「はい」
グラディスはロザリオを持って、ジョージの前にかざした。聖水の瓶は蓋をとうに開いていて、ジョージの周辺にまき散らしている。気配からしてそう強くはない悪魔だと思うが、どこか不思議な気配がする。祓えると思う。思うが、それだけで終わらないような、奇妙な予感があった。
「エクサウディ・オラツィオーネム・メアム(私の祈りを聞き入れてください)」
ジョージの影が、二つに割れた。片方の影だけが、うねうねと身をよじっている。
「レクイエム・エテールナム・ドーナ・エイ・ドーミネ(主よ、彼らに永遠の安息を与えてください)」
永遠の安息を命じれば、影は大した抵抗もなくジョージの体から離れ、窓からの光に散らされて消えていった。
「終わった……です」
かろうじて語尾を付け加えた自分を、グラディスは褒めた。よくぞ覚えていたものだ。
「……素晴らしい手並みね。聖女という噂は嘘ではなかったようだわ。てっきり聖パウロ大聖堂の醜聞を隠すために、大げさに吹聴しているものと思っていたけれど」
「嘘じゃない、です」
「えぇ、事前に調べさせたもの。嘘ではないと思っていたけれど、ここまでとは。ジョージ、あなた具合はどうなの?」
アンの声に、ジョージは慌てたように何度も瞬きをした。
「え? はぁ、なんだかすごく頭がはっきりしてる。体も軽い。なんだったんだいったい」
「何か悪いものが憑いていたのよ。だからあなた、身の回りに気をつけなさいと言ってるんじゃないの。今が肝心な時なのよ。しっかりしてちょうだいな、ロッチフォード子爵」
グラディスは姉弟の会話をよそに、聖水の瓶の蓋を閉めていた。用事は終わった。できれば国王の愛妾の名にふさわしい額の寄付が好ましい。
「ご苦労でした。修道院長によろしくお伝えなさい」
険しい顔の貴婦人が、グラディスの手に袋を握らせた。ずしりと重い。シリング銀貨だとしても、二十枚以上は入っていそうな重みだ。裕福な庶民の年収の、半分。
「ありがとうございます」
ありがとうにつながる丁寧語が、ございますというのはさすがのグラディスでも知っている。身分というよりも、それだけの金額を寄付によこせるという金銭的優位に、グラディスは深く頭を下げたのだった。




