国王の愛妾
馬車はホワイトホール宮殿の裏手で止まった。使用人が出入りする場所である。この宮殿は去年、ウェストミンスター宮殿が火事にあったために宮殿として機能するようになった場所である。使用人用の入口をくぐりながら、オーフェリアは物言いたげにしていたが、案内する宮殿の侍従に何事かを言うでもなかった。グラディスとしてはありがたいとしか思えない。
侍従は使用人の通路を通り、グラディスらを案内していった。使用人が通る道は天井も低く、薄暗い。思わぬ所に曲がり角が唐突に現れ、出会い頭に衝突しかけたメイドらが小さくあっ、と上げる声が聞こえた。
「……まさかこのような場所を案内されるとは思いもよりませんでしたわ」
ついに耐えかねたらしいオーフェリアがそう言って足を止めた。グラディスはこの程度、汚いとも思わないが、やんごとない貴族令嬢からすれば、耐えられないほどの汚れに思うのかもしれない。鼠の死骸も、人間の出した汚物もない通路など綺麗なものだと思うのだが、そういうわけでもないらしい。
「はて……もしや、身分の高いお嬢様が同伴なさっておいでで? これは失礼いたしました。院長にはくれぐれも聖女のみとお伝えしてありましたゆえ、同伴の方もそのような身分の方と思い……」
侍従の声は、何故宮殿からの言いつけを守っていない、とでもいうような、苛立ちを仄かに匂わせていた。
「わたくしの実家はスネリング子爵家ですわ。彼女のようにサザーク出身の、言うもおぞましい職業の方と同じように扱っていただきたくありません」
オーフェリアの怒りは、グラディスにとっては怒っているのか分からないほどに上品だった。グラディスならば侍従の胸ぐらを掴んで、『何が言いたい玉なし』ぐらいは言ってやれそうだ。
「ならば何故いらしたのです。我が主がお呼びしたのはサザークの聖女のみ。スネリング子爵家のお嬢様ではございません」
グラディスはそっとヨランダに近寄った。
「……なんだ、サザークの聖女って」
「お黙りなさい。どうしてこういう時に内緒話をする気になったの」
ヨランダには静かながらも鋭くたしなめられた。オーフェリアに対してあまりに丁寧に話しているから、もしかして熱でもあるのかと心配したのだが、いつもの彼女だった。
「聖メアリ修道院の代表として参ったのですわ。このようにわたくし自ら足を運びましたのに、あなたにわたくしを拒絶する権限があるとお思い?」
オーフェリアと侍従が睨み合っている。しばらくかかりそうだと踏んだグラディスは、辺りを見回した。使用人専用の通路には当然ながらなんの装飾もなく、無骨な木組みがむき出しになっている。通路の幅は人と人がすれ違える程度だ。オーフェリアと侍従、それにグラディスらが立ち止まって睨み合っているせいで、ここを通れない使用人達から無言の抗議を感じる。
グラディスもどうにかしたいのは山々なのだが、この場でグラディスに発言権があるのかどうか。ないような気がする。精々無言の圧力をかけてきている彼らに視線を幾度もやり、気になる風情をかもし出すだけだ。だが議論に白熱しているらしいオーフェリアらに、そういう困惑の気配が伝わっているような気はしない。
「あの……とても申し上げにくいのですけれど、もしやお待ちなのではございませんこと?」
グラディスが交互に移動する視界に酔いそうになった時、ヨランダが口を開いた。おずおずと侍従とオーフェリアを見比べつつ、怯えた様子で囁くように言っているが、彼女の伏せ目がちな目の色を見ていると、そう装っているだけかな、とグラディスは思った。あまり心から恐れ入っているわけではなさそうだ。
「そうでした。急がねば」
オーフェリアの存在を無視したような素早さで侍従は前に向き直り、足早に進み始めた。見守る使用人達から、ほっと安堵の息を感じる。グラディスらもその背を見失わないよう、慌てて歩き出したが、オーフェリアは不服なようで歩みが遅い。オーフェリアを追い越すわけにもいかないグラディスらは、やきもきしながら侍従の向かう先を見つめていた。
「こちらになります。お呼びしたのはサザークの聖女だけですので、聖女だけ入室ください」
通路を出た先は、豪華な廊下だった。花が飾られ、絵画が飾られている。さらには鏡も。あれだけ大輪の花を飾ることができるのは、さすが宮殿といったところか。薔薇や百合しか貴族用の豪華な花の名前を知らないグラディスには、飾ってある大輪の黄色い花が、どういう名前のどういった花か知らない。漂うのも花の香りよりも、廊下の向こうを歩いていった貴婦人の纏っていただろう香水の匂いの方が強い。
「お待ちなさい。彼女は貴人に対する言葉の使い方を知りません。ですからわたくし達が同行したのです。お待ちの方が驚かれると思って」
いきなり独りぼっちで高位貴族の前に放り出されるところだったらしいグラディスも、さすがに『はい』と『いいえ』だけで用が足りるのか疑問だった。『いいえ』と答えた場合、一般的に理由の説明が必要になるのではないかと思うのだ。高位貴族に『いいえ』が言えたとしての話だが。
「それは……よろしいでしょう。ここはあの方の判断に従うとしましょう」
侍従は言い争う無駄を悟ったらしい。居住まいを正してから、よく通る声で扉に向かって話しかけた。
「失礼いたします。サザークの聖女、並びに付き添いの方が到着しました」
ちなみに、扉の前に並んでいる順番は、オーフェリアが先頭である。次にヨランダ、グラディスの順となっている。恐らくだがサザークの聖女と呼ばれた存在はオーフェリアになりそうだ。グラディスにとっては都合がいい。勘違いしていてくれないかな、と一縷の希望を抱いている。
扉が向こう側から開いた。開けたのはメイドで、その後ろに貴婦人と思しき女性が立っている。
「どういうことです。どれが聖女ですか?」
険しい顔をした貴婦人が侍従に問いかけ、侍従が小声で事情を話している。貴婦人は呆れたようにため息をつき、
「致し方ない。さぁ、お入りなさい」
と招いた。オーフェリアでさえ飲まれたように黙り込んでいる様子を見ると、かなり高位貴族の女性らしい。招かれた部屋は前室らしく、招かれた人間が待つための場所らしい。柔らかそうな二人掛けの布椅子が幾つも並んでいる。だがそこに今は誰もいなかった。険しい顔の貴婦人は、その部屋を突っ切った先にある扉を気楽な仕草で開いた。
「アン様。どういうことか、呼んでいない人間までぞろぞろと参っている様子ですわ」
大きく扉を開き、部屋の主からグラディスらがよく見えるように示して見せている。
「あら、いったいどなたなの?」
部屋の奥の書き物机にゆったりと座っている女性が、ちらりとこちらを見た。貴族の令嬢にしては色黒だが、平民から見ると充分に色白なその女性を見て、グラディスは唸った。なんというか、かつての同業者と同じ雰囲気を感じる。こういう、一目見てすぐに美女ではないと分かりつつも、何故か目を引く娼婦は強いのだ。会話術だったり閨房術だったり、あるいは出世する男を見抜く目の強さだったり、一筋縄ではいかない。グラディスは顔と胸の大きさ、それに金髪で売っていたが、こういう娼婦には勝てたことがない。こういう面構えの娼婦はだいたい淫売宿の女将になったり、金を貯めて店を出したりしていた。あの世界で成功する手段を持つ者の何割かが、こういうタイプの娼婦なのだ。
「お初にお目にかかります。スネリング子爵家のオーフェリアと申しますわ。この度はこのグラディスをお呼びとのことですけれど、彼女は貧しい家の出身です。高貴な方とお話しするには支障があるかと思いまして、こうして足を運びましたの」
オーフェリアが進み出て、お辞儀をしてからそう言った。修道服に身を包んではいたが、その仕草は貴婦人の礼に相応しいように、グラディスには見えた。
「ウィルトシャー、オーモンド伯爵のご令嬢、アン・ブーリン様でございます。国王陛下ととても親しいご友人でいらっしゃいますの。くれぐれも粗相のないように」
険しい顔の貴婦人がそう言って、グラディスはやはりと密かに頷いた。高貴な物言いは間接的だが、つまりは国王の愛人なのだろう、彼女は。
「まぁ……」
オーフェリアは素早い仕草で十字を切った。オーフェリアにも当然ぼかした言い方は伝わっているのだろう。そして生粋の貴族でありながら修道女という、身持ちの堅い職業を選んだオーフェリアだ。サザーク育ちのグラディスよりも遥かにそういう関係に対して厳しい目にもなるのだろう。
「スネリング子爵家と言えば……」
奥に座ったアンが、書き物机からゆったりと立ち上がった。そのなんでもない仕草が何故か艶っぽい。ふわりふわりと揺れるドレスの裳裾がそう見せるのか。
「キャサリン王妃陛下の忠実なご友人でいらしたはず。あら嫌だわ。そんな方から見れば、わたくしはなんて不道徳で身持ちの悪い女に見えていることでしょう。わたくし、耐えられそうもないわ」
悲しげに、しかしながら歌うようにそう零れた言葉を聞いた険しい顔の貴婦人は、瞬時に行動を開始した。
「やはりサザークの聖女だけお残りなさい。アン様は大勢の方とお話しできる体調ではいらっしゃらないようですわ」
いや元気そうだが、とグラディスは思ったものの、さすがのグラディスもそれが口実だということは分かった。
「分かりました。ウィルトシャー、オーモンド伯爵家のアン様。ご機嫌よう」
オーフェリアはどことなく硬い口調でそう挨拶をした。ヨランダは口を開くことなく、あたかもオーフェリアの侍女のように後ろで頭を下げるのみ。これはもしや、一人でなんとかしろと見放されたのでは。グラディスはそう思い至ったが、そうなったらなったでしょうがない。
ヨランダの即席敬語教室によると、どうやら語尾にですやますを付ければ比較的まともな言葉遣いになるらしい。言葉少なく、どうしても喋らなければならない時にはですやますを付ける。これだけ分かっているのだ、それほど苦戦することもないだろうと、グラディスは覚悟を決めて国王の愛妾に向き直った。




