そなた一人では礼にもとる
「わん」
「だからそのわざとらしい鳴き声やめろ」
「では主」
グラディスは沈黙を通した。返事をしたら終わりだと気づいている。
ヨランダの実家から馬車を出してもらい、無事に聖メアリ修道院に帰還したグラディスは、夕方の勤めを終えて自室でくつろいでいた。それはもう、一人でくつろいでいたのだ。そこにいきなり『わん』と鳴く黒犬が現れるまでは。
「消えろ悪魔。あたしは飼わないからな」
「だが役に立っただろう? 役に立つものは活用すべきではないか」
さすがは悪魔の囁きである。もっともらしく聞こえる術に長けている。
「あたしに悪魔は不要だ」
「やれやれ、なんとつれない主だ」
誰が主だ、と下を睨みつけると、黒犬の姿がぼやけて消えていった。こちらの方がやれやれである。
「ったく……飲まずにやってられっか」
厨房から失敬しておいたワインを寝台の下から取りだし、栓を抜く。そのまま瓶ごと呷って息を吐いた。
「……ロットゥウマ、ベェル……」
口の中で、子守歌を転がす。母が寝る前に歌ってくれた、母だけの歌。引き取られた家でも、淫売宿でも聞くことのなかった旋律。
「ロットゥウマ、ベェル、ラリルゥリ、ルゥリ……」
続きを、母はなんと歌っていたのだったか。
『大切な歌だから、覚えておおき』
と母が教えてくれたのに、娼婦として暮らしていく中で記憶は薄れていった。懐かしい旋律は覚えているのに、歌詞は掌から零れ落ちていった。
「ロットゥウマ、ベェル、ラリルゥリ、ルゥリ……」
セントジョーンズワート、それからチェストベリー。母が教えてくれた薬草で作る避妊薬の調合は今でも覚えているのに、大切と教えられた歌の歌詞は忘れてしまっている。
「ロットゥウマ、ベェル、ラリルゥリ、ルゥリ……ニィニィネ、エイル……」
ふと舌が滑って、それで飛び飛びに少しだけ思い出した。そうだった。ニィニィという語感が面白くて、飛び跳ねながら歌っていた少女時代があったのだった。
「……お母さん」
あんな悪魔に仕えていたのか。あんな、血なまぐさい神に。
「……ロットゥウマ、ベェル……」
失望と、思慕と、悲哀。
ワインと共に、飲み下す。
「……ニィニィネ、エイル……ラリルゥリ、ルゥリ……」
薄汚い男共に体を売らずに生きている。それだけで、もういいではないか。
「……ロットゥウマ、ベェル……」
どこか悲しげな旋律が、微かに微かに響き続けていた。
夏場のエール作りは難儀だ。大鍋を煮るおかげで、滝のように汗が流れる。今日もいつものようにエールを仕込むため、大汗をかきながら大麦を煮ていると、不意に周りが騒がしくなった。
なんだ、と思って見回すと、いつもならこういう場には現れない、この修道院で最も実家の身分が高い、オーフェリアが立っていた。彼女の周りには数人の修道女達が並んでいる。さながら貴族令嬢とその取り巻きだった。
「頭を下げて」
囁く声に視線をやると、すでに頭を下げているヨランダからの声だった。スザンナもヨランダと同じく頭を下げている。
修道女は出家した身である。であるからには、身分など関係ない。神の御前では人はみな等しく小さいものだからだ。とはいえ、天国ならばいざ知らず、現実の世界ではそうもいくまい。グラディスはこの『家』で少しでも心地よく暮らすためにも、同輩にならって頭を下げた。
「そなたがグラディスという悪魔祓いですか」
どこか抑揚の効いた通る声は、さすが貴族と思わせるだけの迫力があった。
「はい」
グラディスは心に決めた。はい、か、いいえ。それだけしか口にすまいと。世の中、ヨランダのように物わかりのいい貴族だけではないと知っている。
「宮殿からそなたをお呼びと伺いました。そなた一人では礼にもとる。わたくしが案内してさしあげましょう」
こういう時の返事が一つだけ、というのもグラディスはよく知っている。
「はい。ありがとうございます」
それ以外の言葉は求められていない。求められていない言葉を貴族相手に発すれば、向かうのは墓場だけだ。
「ヨランダ。そなたグラディスと親しいのでしょう。そなたもおいでなさい」
「はい、オーフェリア様。光栄の至りでございますわ」
オーフェリアとヨランダ、この二人だけ、ここが修道院ではなく宮殿のようだった。そしてグラディスはどうやら、本物の宮殿とやらに今から出かけなければならないらしい。宮殿に伺候するのにいつもの修道女用のトゥニカで行っていいものだろうか。いや、ドレスを着ろなんて言われても困るのだが。
「あの子の服は汚れているように見えます。誰か、あの子に新しい修道服を用意してあげて」
「はい」
オーフェリアの周りに集っていた淑女らが口々に返事をする。そこにグラディスの意志は完璧に無視されていた。それを悲しいとも思わないが、どこか滑稽だな、とグラディスは思った。それが貴族の世界かもしれないが。
オーフェリアを取り囲んでいた修道女の一人に手招きされ、個室に案内される。オーフェリアや彼女らといった、貴族出身の修道女達は、グラディスやスザンナらがするような、エール作りやパン作りをしない。彼女らはゆったりとした個室で刺繍や縫い物をするのだ。もちろん、それらの作品も修道院の収益のために売られるのだが、体力仕事とはまた別の、優雅な生活に見えた。
この個室もそういった、貴族出身修道女の部屋なのだろう。簡素だが、全く飾りっ気がないわけでもない。壁掛けや水差しの質など、グラディス達の部屋とは雲泥の差だった。その部屋で、さらりとした手触りのトゥニカに袖を通す。つまり貴族出身の修道女達が着るような、質の高い修道服なのだろう。肌を柔らかく包み、薄くさらりとした布地は、さぞかし高価なのだろうと思わせた。
修道院内でもこれほど違うのに、騎士爵出身のヨランダはよくもまぁ、グラディス達と同じような労働をこなせたものだ。修道服の布地がどうだったかは知らないが、ライ麦粉にまみれてパンを捏ねていた姿からは、貴族出身の修道女達と同じような、物静かな誇り高さは感じなかった。そしてグラディスはそういうヨランダの方が好きだと、今さらながらに気づいたのだった。
宮殿に行くにも、オーフェリアは実家から呼ばせたという馬車を使った。ヨランダは幾分控えめに、グラディスに至っては存在自体の気配を殺すような心持ちで同乗していた。これなら歩いていった方がましだ。
「修道院に、宮殿からの話があり、院長に相談を受けました。あの方は色々ご存じではないから」
「オーフェリア様にお任せすれば安心だと、院長もそう思われたのでございましょう」
曲がりなりにもグラディスと同じように喋っていたヨランダが、オーフェリアと話している時はまるで別人だった。寂しいわけではなかったが、自分のいる意味はあるのかとも思う。呼ばれているのはグラディスではあるようだが、明らかに場違いも甚だしい。
そもそも、イングランドの貴族は五段階に分かれる。上から、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵である。男爵の下に騎士爵がいるのだが、ともかくオーフェリアも貴族の位としては決して高位なわけではない。それなのに、グラディスから見れば面と向かって話すことも許されないほどの距離なのである。宮殿の誰がグラディスに用事があるのか知らないが、宮殿にグラディスを呼びつけるほどである。まさか子爵以下ということもあるまい。つまり、子爵令嬢のオーフェリアよりも高位の貴族である可能性が高いのである。
「…………」
果てしなく憂鬱だった。




