事件・7
ブレイドの目が潤んでいる。彼はそれを見せないように、すぐに目を細めた。
「キスしても、いいか?」
いつもなら聞かずにやる強引な男の、小さな確認の言葉。その弱気が、ディアナを不安にさせる。
「……うん」
唇が触れる寸前に、ディアナの頬に雫が一つ落ちる。
泣いてるの? それは聞けなかった。聞かれなく無いだろうし、その理由を聞きたくなかった。
今のブレイドは今までと何か違う。それが二人を近づけるものなのか、遠ざけるものなのかディアナには分からなかった。
唇が離れて、ブレイドは一つ息を吐き出す。それはそのままディアナの頬をくすぐり、胸までも軋ませた。
「……もっと強くなる」
「え?」
「もっとちゃんと、お前を守れるように」
決意を込めた声とともに、ブレイドの指が首筋に触れた。先ほどの痕をなぞるように。
「うん」
ディアナはそれに返す答えを見つけられず、ただ頷いた。
「よし、じゃあ帰るぞ」
ブレイドは気分を入れ替えたように明るく言って、ディアナを抱えあげた。今度はおんぶではない、横抱きだ。
「ちょ、ちょっと、ブレイド」
「英雄がおんぶしてるんじゃ様になんねぇだろ」
「だからって、お姫様だっこは恥ずかしいよ!」
ディアナが顔を赤くして下りようとするが、ブレイドはしっかり抱えて離さない。
「じゃあ、寝たふりでもしてろ」
「……もう」
まるでいつも通りの強気のブレイドに戻ってる。それが強がりであることは薄々感じ取れたがディアナは黙っていた。嫌な予感から逃げるように、ブレイドの胸に顔を押しあてる。
触れた部分から熱が伝わりそのまま体中を温めていく。だけど、反対側は夜の風に晒されてせっかくの熱を奪われてしまう。外気を恨みたくなったのはこれが初めてかもしれない。
*
夜の森が騒がしい。
マドラスの森の奥深くで、長い眠りについていた緑色の龍は気だるげにその瞼を開けた。岩肌に囲まれたそこから首を伸ばすと、薄暗いが開けた空間がある。崖の途中にある大きな洞穴。そこが緑龍の住処だ。
緑龍はゆっくり体を動かし、洞穴を抜けだした。風を操ることを得意とする緑龍が翼を動かすと、小さな竜巻が次々に巻き起こる。
何が起こっているんだろう。自分が寝ている間に、またあのカナヒヒとかいう猿が面倒でも起こしたんだろうか。
年を取り、徐々に睡眠期が長くなっていくにしたがって、自分の代わりにこの森で我が物顔をするようになったカナヒヒを彼女は疎ましく思っていた。
<ちょっと>
<はい?>
龍はゆっくりと首をあげ、森のフクロウの言葉で話しかけた。龍はとても知能が高い。ありとあらゆる言語が頭の中に入っているのだ。
<なにかあったのかい?>
<カナヒヒが人間にやられたようです>
ホーホーというフクロウの声が、森の中に響く。
いい気味だ。
それを聞いて龍はぺろりと舌を出した。
<そんな事をできる人間がいたとはね。どんな人間だったんだい?>
<黒髪の男です。ブレイドと呼ばれていましたよ>
<ブレイド?>
龍は聞き覚えのあるその名前を再び呼び返した。今度は、人間の言葉で。
「ブレイド」
言葉が変わったのを確認すると、フクロウはもう用済みなのかという顔をして飛び去った。
龍は緑色の目をゆっくりと空に向けた。
「……食らったはずなのに、なぜ生きてる?」
前足の爪を確認した。明らかに自然に出来たのではない削られたような痕があるが、機能としては申し分が無いほどには伸びている。もう何年前になるのだろう。黒髪のブレイドが、切りつけた爪だ。
強い男だった。大人しく傍にいると言えば、腹の中に入ることもなかったのに。
「どうやら面白いことになりそうだ」
龍はもう一度、舌舐めずりをすると、ゆっくりと体を動かし始めた。
何年振りなのだろう、眠りから覚めるのは。早かったのか遅かったのか、それも分からない。まるで昨日の事のように、あの男の骨が砕ける音を思い出せる。
「いったい、誰なんだろうねぇ」
夜の森に、龍の雄たけびが響いた。それが人食い龍の目覚めだと、気づいたものはいたのだろうか。
*




