アーチ 2:第6章:月の護符と黄金への道
[第一節:雲の上の不眠と晩餐のトラウマ]
水晶の城に夜明けが訪れたが、
ヴァレイラは一睡もできずにいた。
ふかふかとしたベッドの上で何度も身悶えし、自身の内なる絶叫を押し殺すために枕を顔に強く押し付ける。
シーツはめちゃくちゃになっていた。
転生した日本人男性の脳内は無限ループに陥り、あの晩餐での唇の接触を何度も何度も何度も再生させながら、キツネのあざ笑うような微笑みを容赦なく呪い続けていた。
(…まただ……
またあの感触が蘇る……
あの熱が……
あのメス狐の忌々しい笑みが……
くそっ……!
眠れない……!
私の誇りは完全にズタズタよ……!
どうしてあのときウインクなんてしてきたの?
どうして尻尾で触ってきたの?
どうして……どうして少し良いなんて思ってしまったのよ……!?
違う……!
そんなわけないわ……っ!
私は女神なのよ……!
か弱いお姫様なんかじゃないんだからね……っ!)
隣では、ブリーナが肉の饗宴の余韻に浸るように幸せの絶頂で眠りこけており、穏やかな寝息を立てていた。
相棒の精神崩壊など露知らずである。
枕に少しヨダレを垂らしながら、愛用の弓をまるでぬいぐるみのようぎゅっと抱きしめていた。
◆◆◆
[第二節:急ぎの準備と戦術的逃亡]
ヴァレイラは激しい決意を胸に、ベッドから飛び起きた。
「もうおしまいよ!
一刻も早くこのクソみたいな城から出て行くわ……!
あいつに二度と顔合わせる前に!」
ブリーナを乱暴に揺り起こし(ほとんどベッドから引きずり下ろしながら)、わずかな荷物を猛スピードでまとめ上げた。
鏡に向かって身なりを整えると、自身のラベンダーがかった銀髪を直し、いつもの冷徹で高貴な冷たい表情を顔に無理やり貼り付けた。
あらゆる角度から自分を確認する。
心の中で何度も自分に言い聞かせた。
(……今日は絶対に赤面しない。
今日は絶対に震えない。
今日はあの忌々しいキツネにペースを握らせない……
二度とね。
今日の私は完璧な女神。
冷徹で。
完璧な私よ)
まだ半分眠っているブリーナが不平をもらす。
「……なんでそんなに慌ててるの……?
……まだ朝ごはん食べたい……」
◆◆◆
[第三節:城の中庭と新しい王家の馬車]
宮殿の中庭へ降りると、黄金色の朝の光の中で、支配者が約束を守ってくれたことが証明された。
かつての粗末な乗り物とは打って変わり、目の前には気高い白木のボディと透明な水晶で作られた堂々たる王家の馬車が鎮座していた。車体には、微かに宙に浮く優雅なルーン文字が刻まれている。
新しい半人種の御者は彼女たちに深く敬礼し、敬意の証として耳をぴたりと伏せた。
ブリーナは車輪や車内をひと目見るなり大興奮で飛びつき、ホテル並みに快適な座席を見て歓声をあげた。
「ソラリアの馬車よりずっとフカフカだ……!
ヴァレイラさま、見てよこれ!
月の形をしたクッションまである!」
ヴァレイラは顎をツンと上げて頷いてみせたが、
心の中ではここから無事に逃げ出せることに心底安堵していた。
それでも、城の扉の方を神経質にちらりと見ずにはいられなかった。
◆◆◆
[第四節:神獣の最後の挑発]
中庭にシラの重く押しつぶすような濃密なマナが流れ込んできた瞬間、ヴァレイラの全身がこわばった。
キツネの女王はいつもの気怠げな猫のような優雅さを纏いながら歩み寄ってきた。
身につけているのは夜空のような深い青の神衣で、二本の銀白の尾が怠そうに宙で揺れている。
青紫色の月のエネルギーがいつにも増して周囲に濃く漂っていた。
ヴァレイラは必死に姿勢を正し、凍てつくような冷たい視線を向けようとしたが、
シラは彼女の目の前わずかミリ単位の距離でぴたりと足を止めた。
焦らすようなゆっくりとした仕草と、茶目っ気と悪意の混じった視線のまま、
シラは手を伸ばし、小さな青紫色の月の護符を彼女に差し出した。
立ち去る直前、キツネの女王はふっと微かに体を傾け、挑発的にウインクを一つ落とすと、
唇をわずかに動かして囁いた。
「……気をつけてね……女神さま」
その一言が、ヴァレイラの理性を保とうとする最後の防壁を木端微塵に粉砕した。
頬が一瞬にしてマグマのように真っ赤に燃え上がる。
耳たぶまで熱かった。
(……また……!?
またウインクしたわね……!?
それに今「女神さま」って……!
ふざけないでよ……っ!
いやああああっ……!
嫌よ……!
全然嬉しくなんか……ないんだからね……っ!)
◆◆◆
[第五節:首都からの出発と謎の分析]
ヴァレイラはシラの視線から逃げるように馬車の中へ飛び込み、
乱暴な手振りで今すぐ出発するよう命じた。
「――いいから早く出発しなさい……!!」
半人種の首都の巨大な門をくぐり抜け、あの奇妙な黄色い空を背に馬車が進むにつれて、
車内の張り詰めた空気もようやく和らいでいった。
空気が軽くなる。
重圧のようなマナが消えていく。
窓際に腰掛けたヴァレイラは、手に握りしめた月の護符を険しい表情で見つめていた。
彼女の頭脳は、冷徹に点と点を結びつけていく。
* あの不自然すぎるほど圧倒的なマナの密度
* 青紫色の月の魔力
* ギルデッド王国に関する不穏な警告
* クラウン・アームズについての知識
* あのウインク……唇の接触……そして尻尾の感触……
シラは単なる地方の支配者などではない。
もっと強大な、神話級の存在――
自分を影からずっと観察している脅威なのだと気づいた。
(この女……
ただの権力者なんかじゃないわ。
もっと途方もなく大きな何かよ。
神獣……あるいは、それ以上……。
そんな奴が、私をまるで面白いおもちゃみたいに観察している……
最悪だわ……
厄介すぎる……)
◆◆◆
[第六節:危険な黄金の王国への道]
馬車は主要な街道を猛スピードで駆け抜け、
ギルデッド・ヴァン王国の境界へと続く土地へ深く足を踏み入れていく。
ブリーナはいつの間にかヴァレイラの肩に頭をもたせかけて眠り込み、
弓を抱きしめたまままた少しヨダレを垂らしていた。
この世で一番幸せな生き物のように見える。
ヴァレイラは護符を制服の内ポケットにしまい込み、真剣かつ揺るぎない眼差しで水平線を睨みつけた。
シラのあの遊びのようなやり取りは、ただの序章にすぎないことを彼女は知っていた。
ギルデッドに到着すれば、王女の秘密と、
そして第1章の禁書庫で見つけたゴールドクレスト家の恐るべき永遠の月の槍の謎に立ち向かわなければならない。
傷つき赤面したプライドを無理やり立て直し、
彼女は政治的・魔術的な次なる試練に向けて心構えを整えた。
(ギルデッド・ヴァン……
黄金。
宝石。
権力。
そして……危険。
いいわよ。
女神は逃げたりしない。
女神は進むのよ……そして勝つの。
あの忌々しいキツネがどこから見守っていようと……
私メは……
あいつよりずっと眩しく輝いてみせるんだから……っ!)
馬車は黄金の王国へと続く地平線の彼方へ向けて、
猛然と走り去っていった。




