アーチ1: 第2章:女神は安いシチューを食べない
[第一節:場末の酒場に舞い降りた女神]
高いヒールのブーツで、石ころだらけのデコボコした土道を歩く。
普通なら、立派な危険スポーツとして認定されてもおかしくない。
それでも、たった数個の石ころなんかに、私の華々しい登場を邪魔させるつもりはなかった。
紫色の魔女帽子のつばを整え、胸を張る。
――まだ自分でも信じられないほど立派な胸を。
そして、背筋を伸ばし、少し上から見下ろすような笑みを浮かべながら、村の中へと歩いていった。
村人たちは、まるで女王様でも通るかのように道を開けていく。
子供たちは口をぽかんと開けたまま私を指差し、男たちはその場で固まったように立ち尽くしながら、私の紫色の髪やマントの優雅さについて何やらひそひそと話している。
神様。
なんて気持ちいいのかしら。
外見だけなら、私はまさに気品あふれる魔法使い。
でも、その内心は――
「みんな、よく見て! 私、めちゃくちゃ美人なんだから!」
と、大声で叫びたいくらい興奮していた。
……そんな私を現実へ引き戻したのは、空腹だった。
脂の焼ける匂いと、焦げた木の香り。
その匂いを辿っていくと、村に一軒しかない宿屋が見えてきた。
入口の看板には、ぼんやりとしたイノシシの絵が描かれている。
私は木製の扉を勢いよく押し開けた。
マントがふわりと舞い、その裏地に描かれた星空が露わになる。
当然、私は期待していた。
扉を開けた瞬間、酒場中が静まり返り、全員が私の美しさに息を呑むことを。
――ところが。
最初に聞こえてきたのは、木製のカウンターを叩く乾いた音だった。
「注文する気がねぇなら、光を遮るな。嬢ちゃん」
雷のような低い声が響く。
カウンターの向こうにいたのは、巨大な男だった。
腕は私の頭ほども太く、顔には無数の傷跡。
そして、見るからに恐ろしげな汚れたエプロン。
彼の名はギデオン。
この酒場の主人だった。
私は思わず彼を睨みつけた。
……嬢ちゃん?
こいつ、目が見えてないのかしら?
「失礼ね」
私はできる限り甘く、そして気取った声を出した。
細い指先でカウンターを軽く叩く。
「私はついさっき、外にいたモンスターたちから、この哀れな村を救ってあげたのよ。だったら最低限の敬意くらい払ってほしいわね……それと、あなたの店で一番高い料理をちょうだい」
ギデオンは、まったく動じなかった。
汚れたジョッキを、それ以上に汚れていそうな布で磨きながら、面倒くさそうに私を頭から足まで眺める。
「魔法じゃ樽は満たせねぇ、美人さん。ここは前払いだ。今日の飯と、ベッドに虫がいない部屋で銀貨二枚。払えるのか? それとも、その帽子を自慢しに来ただけか?」
私の自尊心が、盛大に後ろへひっくり返った。
……なんて嫌な男なの。
私は、日本にいた頃なら誰もが骨抜きになりそうなほどの、わざとらしい不満顔を浮かべた。
そして、狩人からもらった銀貨三枚をコルセットから取り出し、カウンターへ滑らせる。
「お釣りはいらないわ」
顎を上げる。
――もちろん内心では泣いていた。
『最悪! 銀貨があと一枚しか残ってない! 私、めちゃくちゃ貧乏じゃない!』
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[第二節:安酒との最悪な出会い]
ギデオンは、オーガのような手で銀貨を掴むと、エプロンの中へしまい込み、空いている奥のテーブルを指差した。
私は美しい紫と黒のドレスを汚さないよう、細心の注意を払いながら席についた。
長い脚を組み、周囲を見回す。
……ひどい。
汗だくの狩人。
むせ返るような男たちの体臭。
そして、べたついたテーブル。
『東京のレストランが恋しい……』
『エアコンが恋しい……』
『日本の、便座まで温かいトイレが恋しい……!』
現代日本でインスタント麺ばかり食べていた私の心が、静かに泣いていた。
とはいえ。
私ほどの魔法使いが、こんなことで弱音を吐くわけにはいかない。
数分後。
ギデオンが戻ってきた。
ドンッ!
木製の深皿がテーブルへ置かれる。
続いて、酸っぱい匂いを放つ金属製のジョッキが置かれた。
「森の魔物の肉を使ったシチューと、うちの酒だ。食ったら、さっさと帰れ」
そう言い残すと、ギデオンは振り返ってしまった。
私は皿を覗き込む。
「…………」
シチューは茶色い塊のようで、何の肉なのか怪しいものがいくつか浮かんでいる。
そして酒の泡は、なんとも怪しい灰色だった。
けれど。
私の腹が、再び鳴った。
……今の私は、料理に文句を言える立場じゃない。
私は木のスプーンを手に取り、上流階級のお嬢様らしい作法をなんとか保ちながら、少し息を吹きかける。
そして、一口。
「……っ!?」
目を見開いた。
「……なんで、こんなに美味しいのよ!?」
肉は驚くほど柔らかく、スープにはピリッとした辛さがある。
身体の奥まで温かくなるような味だった。
私は自分が気品ある魔法使いだということを完全に忘れ、夢中になって食べ始めた。
日本ではインスタント麺で生きていたような人間の舌だ。
これはもう、ご馳走以外の何ものでもない。
私は勢いよく酒を一口飲み――
「――ぶっ!?」
思わず吐き出しそうになった。
「げほっ……!」
慌てて口元を拭う。
まずい。
水に古い酵母を混ぜたような味。
しかも喉が焼ける。
「ぷはっ……! なにこれ、まずっ!」
咳き込みながら、私は慌てて周囲を見回した。
……誰も見てないわよね?
私はすぐに帽子を整え、何事もなかったかのように気取った笑みを浮かべる。
「……こ、これはその……平民向けとしては悪くない飲み物ね」
少しだけ視線を逸らす。
「でも、私の高貴な舌には、もう少し……そう、天上の味が必要なのよ」
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[第三節:小さな信者]
「――すごかったです!」
「魔法使い様! あなたは女神様です!」
「――ぶっ!?」
最後の肉を飲み込もうとして、私は危うく喉を詰まらせた。
顔を上げる。
私のテーブルの横に、一人の少女が立っていた。
十二歳くらいだろうか。
少し乱れた髪。
少し汚れた顔。
そして背中には、木製の弓を背負っている。
少女は、まるで二つの陶器の皿のように大きく輝く瞳で、私を見つめていた。
完全に目を輝かせている。
「えっ? 私のこと?」
私は即座に、甘く気取ったポーズを取った。
頬杖をつき、にっこりと笑う。
もちろん、自分の役に入り込みすぎていて、少女の名前を聞くことすら忘れていた。
「はい! 入口で見ました!」
少女は興奮したようにぴょんっと跳ねる。
酒場の張り詰めた空気など、まったく気にしていない。
「狩人さんたちが何もできなかったのに、魔法使い様は手を伸ばして――ドーンッ! 空からダイヤモンドを降らせたんです!」
「モンスターたちも一瞬で消し飛んじゃいました!」
「大陸で一番美しくて、一番強い女の人です!」
そして――
「お願いです! 私を助手にしてください!」
……おや。
ギデオンに踏み潰された私の自尊心が、五分もしないうちに宇宙空間まで膨らんでいく。
目が輝いた。
こんなふうに女の子から褒められる。
それだけで、この新しい人生に必要なものが全部揃ったような気がした。
「まあ」
私は得意げに微笑んだ。
「あなた、芸術と美しさを見る目はちゃんとあるのね」
白く細い指を伸ばし、少女の髪を優雅に撫でる。
「その通りよ。私の魔法は、私の美貌と同じくらい神聖なの」
そして、少し首を傾げる。
「それで? 私の助手になりたいの?」
「はい! 何でもします!」
少女は勢いよく頷いた。
「荷物を持ったり、ブーツを磨いたり、お水を持ってきたりできます!」
「よろしい」
私は大仰に頷いた。
「では、あなたを正式に私の専属助手に任命しましょう」
少女の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか!?」
「ええ」
私は胸を張った。
「あなたの最初の重要任務は――」
少し間を置く。
「一日三回、私がどれほど美しくて素晴らしいのかを、私に言い続けることよ」
少女は満面の笑みを浮かべ、敬礼した。
……これで、私には忠実な部下が一人できた。
お金を稼ぐ方法を考える間、私の自尊心を満たしてくれる忠実な部下が。
……まあ、いまだに名前すら知らないんだけど。
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[第四節:噂は瞬く間に広がる]
私は、新しくできた名前も知らない助手を相手に、紫色の魔女帽子や宙に浮かぶグリモワールを得意げに見せびらかしていた。
そのせいで――
酒場中の視線が、私たちに集まっていることには気づいていなかった。
近くのテーブルでは、旅装束を身につけた商人たちが、恐怖と欲望の入り混じった視線を交わしていた。
「今の、聞いたか? あの嬢ちゃんが言ってたこと……ダイヤモンドの魔法だと?」
一人が、私の袖に刻まれた金色のルーンをちらりと見ながら囁く。
「普通じゃない……」
「今の時代、魔法使いそのものが珍しい。それも、あれほどの破壊力を持つ魔法使いなら……とんでもない価値があるぞ」
もう一人が唾を飲み込む。
「富国――ギルデッド=ヴァン王国に知られれば、王宮に迎えるために何千枚もの金貨を出すかもしれん」
「それに……帝国だって黙ってはいない」
「もし脅威と判断されたら――軍を送り込んでくるぞ」
商人たちは、それ以上話している暇はないと判断した。
テーブルに銅貨を数枚だけ置く。
荷物をまとめる。
そして――
「急げ!」
「馬車へ!」
二人は慌ただしく酒場を飛び出していった。
商用の馬車へ向かって走っていく。
辺境の中立地帯に現れた、美しく、破壊力があり、しかも少しばかり自信過剰な魔法使い。
その噂は、まるで火が燃え広がるように、主要街道を通って各地へ伝わっていくことになる。
――もっとも。
当の本人である私は、そんなことを知る由もなかった。
私は新しい助手に向かって笑いながら、自分の紫色の帽子と浮遊するグリモワールを自慢することに夢中だった。
頭の中では、まるで水面に映る自分の姿を眺めるように、
『……やっぱり私って、この世界でも最高に素敵だわ』
などと考えている。
自分がこの世界の政治情勢を大きく揺るがす存在になりつつあることも知らずに。
辺境での、平和でのんびりした私の自慢生活が――
まもなく終わろうとしていることも。
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