アーチ1: 第1章:願いの閃光
[第一節:最後の一歩]
東京の空なんて、いつだって息苦しくて、クソみたいだと思っていた。
けれど、その夜だけは――珍しく、雲ひとつない快晴だった。
もっとも、星空が綺麗に見えたわけじゃない。
眠ることを知らない高層ビルの明かりと、街中を埋め尽くす広告のネオン。その圧倒的な光の前では、星なんて哀れなくらい存在感がなかった。
俺は、自分の住むマンションの屋上に立っていた。
灰色で、古くて、どこか無機質なコンクリートの塊。都会にいくらでも転がっている、ありふれた建物だった。
日々のくだらないルーティンや、クソみたいな勉強、それにどうしようもない孤独が胸を締めつけてくると、俺はここへ逃げてきた。
街の明かりをぼんやり眺めながら、馬鹿みたいにため息をつく。
誰も知らなかった。
いや――知るはずもなかった。
俺は、前の人生で一度も誰かに打ち明けられなかった秘密を抱えていた。
自分の身体が嫌いだった。
自分の顔も嫌いだった。
そして、物心ついた頃からずっと胸の奥にあった、一番大きくて、一番叶えたかった願い。
――女に生まれたかった。
ただの女じゃない。
誰もが振り返るような、息を呑むほど美しい女の子。
堂々と歩いて、何を着ても似合って、高級ブランドのドレスにいくら金を使っても誰にも文句を言われないような、そんな女になりたかった。
それなのに現実の俺は、どこにでもいるような平凡な男。
灰色の人生に閉じ込められていた。
「……俺、ほんと馬鹿だな」
眼鏡を押し上げる。
夜明け前の冷たい風が肌を撫で、思わず身震いした。
「こんな願い、叶うわけないだろ。……もう忘れろ」
そう呟いて、部屋へ戻ろうと一歩後ろへ下がった。
――その一歩が、すべての始まりだった。
夜露で濡れたコンクリートの縁は、まるで罠みたいに滑りやすくなっていた。
「……え?」
足が滑った。
掴めるものは何もない。
次の瞬間、屋上の縁が視界から消えた。
身体が、宙へ投げ出される。
「――っ!」
風が耳元で轟いた。
俺は真っ逆さまに、地面へ向かって落ちていく。
怖かった。
けれど、地面がどんどん近づいてくるにつれて、不思議なほど心が静かになっていった。
こんなくだらない事故で死ぬんだ。
そう思った瞬間、妙に冷静になった。
どうせ最後なら――後悔だけはしたくない。
俺は目を強く閉じ、拳を握りしめた。
そして、魂の奥に残された最後の力を、たった一つの願いへ叩き込む。
もし、本当にもう一度だけチャンスがあるのなら。
もし、神でも何でもいい。そんな存在がいるのなら。
俺は――
「……美人になりたい」
声にならない叫びが、魂の底から溢れ出した。
「もう一度生きられるなら……! 俺を、美しい女にしてくれ……!」
そして――
衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。
意識は、完全な闇へと沈んでいった。
---
[第二節:神に与えられた姿]
頭が痛い。
まるで誰かにこめかみへドリルを突き立てられているような、最悪の頭痛だった。
「……うっ」
痛みに耐えながら、ゆっくりと目を開く。
最初に感じたのは、東京の冷たいコンクリートじゃなかった。
骨が砕けるような痛みもない。
救急車のサイレンも聞こえない。
代わりに鼻をくすぐったのは、雨上がりのような湿った土の匂い。
そして背中には――信じられないほど柔らかな草の感触。
「……俺、生きてるのか?」
声を出した。
その瞬間。
「…………え?」
思考が止まった。
今の声。
誰の声だ?
俺の声じゃない。
低くて、少ししゃがれていて、疲れ切った男の声。
そんなものじゃなかった。
柔らかく、澄んでいて、少し高い。
――女の声。
しかも、とんでもなく綺麗な声だった。
「…………は?」
俺は慌てて身体を起こした。
そして、自分の手を見た。
「……嘘だろ」
細い指。
整った爪。
白く、滑らかな肌。
前の人生の俺とは、何もかも違っていた。
恐る恐る視線を下げる。
「…………はぁ!?」
思わず声が裏返った。
そこには、明らかに女性の身体があった。
胸元には豊かな膨らみがあり、腰は驚くほど細い。
着ているのは、黒と濃紫を基調としたアシンメトリーなミニドレス。
身体にぴったりと沿った革のコルセットが、見事な砂時計型のシルエットを作っている。
腕を覆う長い袖は半透明の布地でできていて、その上には金色のルーンが刻まれていた。
ルーンは、淡い魔力の光を放っている。
「ちょ、ちょっと待て……!」
俺は慌てて自分の顔へ手を伸ばした。
触れた頬は滑らかだった。
細い顔立ち。
長いまつげ。
そして――
「……髪、紫……?」
肩を越え、さらにその先まで流れる紫色の髪。
絹のように滑らかで、光を受けるたびに美しく輝いている。
「これ……俺なのか?」
いや。
俺、じゃない。
俺だったもの。
そう考えたほうが、まだ理解できた。
俺はふらつきながら立ち上がった。
長い脚。
黒い革のブーツは太ももの半ばまで伸びている。
身体の重心まで違う。
それでも、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
「鏡……!」
周囲を見回す。
少し離れた場所に、澄み切った水を湛えた池があった。
俺はそこへ駆け寄った。
そして――水面を覗き込む。
「…………」
息を呑んだ。
水面に映っていたのは、見知らぬ美少女だった。
いや。
少女というより――
まるで、物語の中から抜け出してきた魔法使い。
輝く瞳。
小さな鼻。
そして、見る者の心まで溶かしてしまいそうな笑顔。
「…………ふふ」
口元が自然に緩んだ。
胸の奥から、信じられないほど大きな喜びが込み上げてくる。
「……本当に、叶ったんだ」
俺は自分の顔を眺めながら、思わず笑った。
そして――
「……ふふっ」
もう一度笑う。
「これ、夢じゃないんだ!」
喜びのあまり、その場でくるりと一回転する。
マントがふわりと舞った。
その内側は、まるで無数の星が浮かぶ夜空のようだった。
「本物だ……!」
地面に落ちていた巨大な紫色の魔女帽子を拾い上げる。
金色のリボン。
ダイヤモンドのバックル。
どう見ても、普通の帽子じゃない。
俺はそれを頭にかぶり、少し後ろへ傾けた。
鏡代わりの水面に映る自分を見ながら、自然と笑みがこぼれる。
「……もう、前の人生なんてどうでもいい」
そして、胸を張った。
「今日から私は――ヴァレイラ」
その名前を口にした瞬間。
妙にしっくりきた。
「この世界で一番美しくて、最高に神聖な魔法使い――それが私よ!」
---
[第三節:至高の魔法使い、華麗にデビュー]
――その瞬間だった。
「グォォォォォォッ!!」
「――っ!?」
凄まじい咆哮が響き渡った。
足元の地面まで震える。
「な、何!?」
振り返る。
数メートル先。
いくつかの丘を越えた向こう側に、小さな辺境の村が見えた。
木で作られた城壁。
大きな門。
そして――
「……あれ、モンスター?」
森の奥から、無数の怪物が押し寄せていた。
鋭い牙。
黒い爪。
血走った目。
見るからに凶暴そうな化け物たちが、村の防衛線を破壊している。
弓や古びた剣で武装した狩人たちは、血と汗にまみれながら後退していた。
完全に数で押されている。
その後ろでは、村人たちが悲鳴を上げながら村の中へ逃げ込んでいた。
「……本物のモンスター」
けれど――
怖くない。
不思議なくらい、何も感じなかった。
むしろ。
「……ふふ」
自分の手を見つめる。
身体の奥を流れている、正体の分からない力。
魔力。
そう呼ぶのが一番しっくりきた。
「この身体……どこまでやれるのかしら?」
胸の奥が熱くなる。
試してみたい。
この世界に、自分の力を見せてみたい。
――いや。
みんなに見せるべきだ。
私がどれだけ凄い魔法使いなのかを。
私は一歩、前へ踏み出した。
その瞬間。
「……え?」
どこからともなく、一冊の巨大な本が現れた。
金色のページ。
重厚な装丁。
そして、ただならぬ魔力の気配。
本は私の隣で宙に浮き、そのままひとりでにページを開いていく。
「これは……?」
その本を見た瞬間、頭の中に名前が浮かんだ。
――『願いのグリモワール』。
「……私の願いに反応してる?」
ページが風もないのに次々とめくられていく。
「なるほどね」
私は口元を吊り上げた。
「せっかくの私の華々しいデビューなのに、あんな醜い連中に邪魔されるなんて――本当に残念だわ」
私は堂々とモンスターの群れへ歩いていった。
逃げていた狩人たちが、突然現れた私を見て足を止める。
「な……なんだ、あの女……?」
「いつの間に……?」
私は群れの目の前で立ち止まった。
そして、モンスターたちへ向かって――
「ふふっ」
軽くウインクする。
右手を、すっと前へ伸ばした。
瞬間。
空気が歪んだ。
「――ッ!」
マナが一気に集まってくる。
圧倒的な魔力の圧力に、モンスターたちが怯んだ。
そして、私の指先を中心に――
無数の光が生まれた。
まるで千個のダイヤモンドを砕いて散らしたような、眩い輝き。
「よく見ておきなさい」
私は微笑む。
「美しさが持つ――破壊の力をね」
次の瞬間。
「――ダイヤモンド・バースト!」
巨大な結晶の光が、私の手のひらから一気に放たれた。
轟音。
閃光。
そして――
ドォォォォォン!!
群れの中心で、凄まじい爆発が起こった。
真っ白な光が視界を覆い尽くす。
数秒後。
そこにいたモンスターたちは、跡形もなく消えていた。
残ったのは、きらきらと輝く無数の粒子。
まるで星の雨のように、草原へ静かに降り注いでいく。
――脅威は、完全に消え去った。
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[第四節:神聖なる魔法使い……ただし無一文]
辺境の村の外は、静まり返っていた。
誰も声を出さない。
狩人たちは口を開けたまま固まっている。
城壁の上から村人たちが私を見つめていた。
その目はまるで――
空から舞い降りた魔法の女神でも見ているかのようだった。
「……ふふん」
私はその視線を存分に楽しんだ。
指先に軽く息を吹きかける。
紫色のマントを軽く払う。
片手を腰に当てる。
顎を少し上げる。
完璧なポーズ。
「……最高」
私は、この世界で一番強くて、一番完璧な女になったような気分だった。
誰も私には敵わない。
――そう思っていた。
「ぐぅぅぅぅぅ……」
「…………」
私の腹から、とんでもなく大きな音が鳴った。
「…………」
空気が止まる。
「…………」
私はゆっくりと視線を下げた。
「…………お腹、空いた」
大量のマナを使ったせいだ。
腹が減って仕方がない。
さっきまでの女神のようなポーズは、一瞬で崩壊した。
頬が熱くなる。
「……ま、まあ!」
私は何事もなかったかのように笑顔を作った。
「村一つ救ったんだもの。報酬くらい、当然よね?」
私は腹の音を誤魔化しながら、優雅な足取りで狩人たちのリーダーへ近づいた。
男はまだ震えていた。
「は、はい……!」
慌てて腰の袋を探る。
そして――
「こ、こちらを……」
両手で差し出してきた。
銀貨が三枚。
そして、少しばかりの銅貨。
「この辺境の小さな村にあるものは、これがすべてでございます……偉大なる魔法使い様」
「…………」
私は硬貨を見る。
三枚の銀貨。
少しの銅貨。
「…………」
嫌な予感がした。
私はそっとドレスのポケットへ手を入れる。
何もない。
反対側。
何もない。
「…………」
空っぽ。
完全に空っぽ。
そこで、ようやく理解した。
私の願いは叶った。
完璧な身体。
美しい顔。
最高に豪華な衣装。
神々しい魔女帽子。
そして、とんでもない破壊力を持つ魔法。
――でも。
「……お金は?」
私は自分の手を見つめた。
「……一銅貨もない?」
現実が、ものすごい勢いで私の顔面を殴りつけた。
異世界に転移した。
誰も知り合いはいない。
住む場所もない。
そして――
「…………私、無一文なの……!?」
「え?」
もう一度、硬貨を見る。
「銀貨と銅貨だけ……?」
そして、ついに叫んだ。
「ちょっと待って!! 私、もしかして――めちゃくちゃ貧乏なの!?」
頭の中で、見えない銅貨がカラン、と虚しく転がったような気がした。
美しくて、可愛くて、そのうえ強力なダイヤモンド魔法まで使える。
それは最高だ。
でも――
ギルデッド=ヴァン王国の高級なドレスを買いたい。
珍しいダイヤモンド硬貨を集めたい。
そして何より――
「……まず、ご飯」
温かい料理が食べたい。
そのためには。
「……働くしかない、か」
私は深いため息をついた。
世界を征服する。
美しい女の子たちの心を掴む。
高級なドレスを買う。
珍しい硬貨を集める。
そして――温かい料理を食べる。
「……よし」
私は再び胸を張った。
「私の異世界生活――ここからが本番よ!」
こうして。
美しさと魔力だけは規格外。
しかし財布の中身はゼロ。
そんな最強にして無一文の魔法使い――ヴァレイラの冒険が、始まった。
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