第九話
クラウスが訪れてから数日、私はずっと彼の言葉が頭から離れずにいた。
(非効率か……)
厨房を任されるようになって、経営の全体像が前よりずっと見えるようになった。仕入れの金額、人件費――といっても家族の労働力だけど――光熱費。数字を並べてみると、確かにクラウスの指摘には一理あった。
「お父さん、ちょっと相談があるんだけど」
ある日、私は帳簿を持って父さんのところへ行った。
「うちの看板メニュー、もっとちゃんと決めたいと思ってて」
「看板メニュー?」
「うん。今は色んな料理を少しずつ出してるけど、それだと仕込みも大変だし、食材のロスも出やすい。いくつか看板メニューに絞って、そこに力を集中させたいの」
父さんは驚いたような顔をしたあと、興味深そうに頷いた。
「ほう。詳しく聞かせてくれ」
私は前世の記憶を頭の中で反芻しながら、自分なりの考えをまとめて話した。
「畑で採れる野菜とハーブを軸にした煮込み料理を、うちの看板にしたいと思ってる。季節ごとに中身は変わるけど、『ここに来れば、必ずこの温かい煮込みが食べられる』っていう安心感を作りたいの」
「なるほどな」
父さんは腕を組んで、しばらく考え込んでいた。
「悪くないと思う。ただ、それだけだと単調にならないか?」
「そこは、季節や仕入れ状況に応じてアレンジを加えていく。あと、煮込み以外にも二、三品、軽い一品料理を添えるつもり。でも、主役はあくまで煮込み。それを徹底したい」
前世だったら、こんな風に自分の考えをはっきり主張することは、あまり得意じゃなかった。でも、今の私には、譲れないものがある。それを言葉にする勇気も少しずつ育ってきていた。
「よし、やってみよう」
父さんの一言に、私は思わず笑顔になった。
それから数週間、私は看板メニューの開発に没頭した。畑の野菜とハーブを、どう組み合わせれば一番美味しくなるか。何度も試作を重ねて、家族に味見してもらいながら、少しずつレシピを固めていった。
「今日のこれ、前のよりさらに美味しいわね」
母さんがそう言ってくれるたびに、素直に嬉しかった。
仕込みの合間に、ふとクラウスのことを考えた。彼の指摘は率直で、時には耳が痛いこともあったけど、決して嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、自分の経営を見直すいいきっかけをもらった気がしている。
(また来るって、言ってたな)
そんなことを考えていると、まるでタイミングを見計らったかのように、宿の扉が開いた。
「こんにちは」
涼しげな声とともに現れたのは、まさにその本人だった。
「クラウスさん! あ、いらっしゃいませ」
慌てて接客モードに切り替える私を見て、彼はくすりと笑った。
「今日は、視察というより、純粋に食事をしに来ました」
「そうなんですか」
「ええ。前回の煮込み、また食べたくなりましてね」
そう言われて、なんだか少し照れくさくなった。
「実は今、その煮込みをうちの看板メニューにしようと思って、色々改良してるところなんです」
「それは興味深い。ぜひ味見させてください」
私は改良中の新しいレシピを、彼に出してみることにした。彼は相変わらず、じっくりと味わいながら食べていく。
「前よりも、洗練されていますね。野菜の甘みの出し方が特に」
「本当ですか!」
「ええ。それに、以前指摘した非効率な部分も、いくつか改善されているように感じます。仕込みの手順、変えましたか?」
その観察眼の鋭さに、思わず驚いてしまう。
「よくわかりましたね。実は、下ごしらえの順番を見直して、食材のロスを減らすようにしたんです」
「なるほど。面白いですね、あなたのやり方は」
クラウスは興味深そうに頷きながら、また一口、煮込みを口に運んだ。
「効率と温かさ、両方を追求しているように見えます。私の家では、どうしても効率を優先しがちですが」
「クラウスさんのところは、それでうまくいってるんですよね?」
「まあ、経営としては安定していますね。ただ……」
彼は少し言葉を濁した。
「時々、思うことがあります。うちの宿には、あなたのところにあるような"温かさ"が足りないのではないかと」
その言葉に、私は少し驚いた。効率を重視する彼が、そんな風に自分の家業について考えているとは思わなかった。
「クラウスさんは、宿を継ぐ事に迷いはないんですか?」
「迷いですか。それはありません。生まれた時から、継ぐものだと思って育ってきましたので」
その答えは、あまりにも自然で、迷いのないものだった。それが逆に、少しだけ寂しく感じられた。
「でも」と彼は続けた。
「どんな宿にしていくかは、これから自分で考えていきたいと思っています」
その言葉には、単なる跡取りとしての義務感だけじゃない、彼自身の意志のようなものが感じられた。
「なるほど」
そう頷きながら、私はなんだか彼のことを、少しだけ違う目で見ている自分に気づいた。ただの合理的なライバルというだけじゃない。彼にも彼なりの葛藤や考えがあるのかもしれない。
「今日は、いい刺激をもらいました」
食後、クラウスはそう言って立ち上がった。
「また、来てもいいですか」
「もちろんです。看板メニュー、完成したらぜひ食べてください」
「楽しみにしています」
そう言って、彼は静かに宿を後にした。
その背中を見送りながら、ライバルとしての緊張感だけじゃない、何か別の感情が、胸の奥で静かに芽生え始めている気がした。




