第10話
看板メニューが完成してから、宿の雰囲気は少しずつ変わっていった。
「いつものお願い」
そう言って笑顔で注文してくれるお客様が増えてきた。特定のメニューを目当てに通ってくれる、いわゆる常連客というやつだ。
「はい、少々お待ちください!」
厨房に戻りながら、私は思わず頬が緩むのを感じていた。前世の会社員時代、こんな風に「いつもの」と言ってもらえる関係を、誰かと築いたことがあっただろうか。忙しさに追われて、行きつけの店を作る余裕さえなかった気がする。
常連の中でも、特に印象的だったのは、近くの牧場で働く青年だった。
「今日も、あの煮込み一つ」
無口だけど、毎回必ず同じメニューを頼んでくれる。ある日、思い切って話しかけてみた。
「いつもありがとうございます。お口に合ってますか?」
「……ああ。実家の味を思い出す」
ぽつりと呟かれたその一言に、胸がじんとした。
「実家、遠いんですか?」
「隣の領地だが、もう何年も帰ってない」
彼の表情に、ほんの少し寂しさが滲んでいるのを感じた。
「そうなんですね。またこの味で、少しでも懐かしい気持ちになってもらえたら嬉しいです」
そう言うと、彼は珍しく小さく笑った。
「ああ。ありがとう」
その日から、彼はさらに頻繁に通ってくれるようになった。無口だけど、少しずつ言葉を交わすようになり、いつしか彼が来る時間帯には、自然と会話を楽しみにしている自分に気づいた。
他にも、近隣の農家の家族連れ、旅の途中に立ち寄る商人、職人たち。少しずつ、色んな人が宿に足を運んでくれるようになった。
「ミーシャちゃん、今日も繁盛してるね」
市場のおばさんが、通りすがりにそう声をかけてくれる。
「おかげさまで。ちゃんと結果が出てきて嬉しいです」
「あんたの努力を、みんなちゃんと見てるよ」
その言葉に、思わず目頭が熱くなりそうになった。地道に積み重ねてきたものが、少しずつ形になっている。その実感が、何よりも嬉しかった。
宿は、少しずつ"居場所"のような役割を持ち始めていた。お客様同士が顔なじみになって、食堂で世間話をする光景も、当たり前になってきた。
「ここに来ると、なんだかほっとするんだよな」
常連のお客様の一人が、そう言ってくれたことがあった。その言葉が、これまでの努力の全てを肯定してくれているようで、じんわりと胸に染みた。
そんなある日、クラウスが再び宿を訪れた。
「今日は、少し様子が違いますね」
食堂を見渡しながら、彼はそう呟いた。
「常連のお客様が増えてきたんです。おかげさまで」
「なるほど。これが、あなたの言っていた"温かさ"の正体か」
彼は興味深そうに、食堂の様子を観察していた。お客様同士が笑いながら話している光景、私が名前を呼びながら注文を取っている様子。
「うちの高級宿には、こういう光景はないですね」
その言葉には、少しだけ羨ましそうな響きが混じっていた。
「クラウスさんのところも、作ろうと思えば作れるんじゃないですか?」
「どうでしょうね。うちのお客様は、どちらかというと格式や快適さを求めていらっしゃる方が多いので。この雰囲気とは、少し違う気がします」
そう言いながらも、彼はどこか考え込むような表情をしていた。
「それぞれの良さがあるってことじゃないでしょうか。クラウスさんのところにも、うちにはない魅力がたくさんあると思います」
私がそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした。
「あなたは、意外と寛容なんですね。てっきり、うちのことをライバル視しているものだと思っていました」
「ライバルではありますけど、別に憎んでるわけじゃないですよ。むしろ……」
言いかけて、少し言葉を選ぶ。
「クラウスさんとの会話、結構刺激になってます。効率的な視点とか、私一人じゃ気づかなかったこと、色々教えてもらってる気がして」
その言葉に、クラウスは一瞬、驚いたように目を見開いた。それから、なんだか柔らかい表情で微笑んだ。
「それは、光栄です」
その表情に、なぜか少しだけ胸がドキリとした。慌てて視線を逸らしながら、私は厨房に戻る口実を探していた。
(な、なんか今の、変な感じだった)
自分の中に芽生えた小さな動揺に戸惑いながらも、それが何なのか、まだはっきりとは自覚できていなかった。
その夜、常連のお客様たちが賑やかに食事をする食堂を眺めながら、私は静かに満足感を噛みしめていた。少しずつ、確実に、うちの宿は変わってきている。
窓の外、夜空に瞬く星を見上げながら、私は今日一日の出来事を振り返っていた。クラウスとの会話、常連客との温かいやり取り、少しずつ増えていくお客様の笑顔。全部が、これまでの努力の結晶のように感じられた。




