第八話
「ミーシャ、こっちの仕込み終わったよー」
「ありがとう、そっち片付けたら休憩入って!」
厨房を仕切る声にも、すっかり自信がついた。あれから四年。私、ミーシャは十六歳になった。
十二歳の頃、まかない料理から始めた挑戦は、今ではすっかり宿の看板になっている。畑も当時とは比べ物にならないくらい広がって、今では敷地の隅々まで、色とりどりの野菜やハーブが植わっている。
「今日のお客様、予約でもう八割埋まってるわね」
母さんが台帳を見ながら、感慨深そうに呟いた。
「昔は、そんなの考えられなかったのにね」
私も思わず笑ってしまう。あの、廊下で両親のため息交じりの会話を盗み聞きした日から十年。今のうちの宿は、街でも評判の宿になっていた。
とはいえ、まだまだ発展途上だ。相変わらず隣街には、あの立派な高級宿が構えている。規模も、資本力も、うちとは比べ物にならない。それでも、うちにはうちの強みがある。
「ミーシャ、お前、もうそろそろ厨房の全部、任せてもいいんじゃないかと思ってな」
ある朝、父さんが改まった様子でそう切り出した。
「え、本当に?」
「ああ。メニューの決定も、仕入れの相談も。これまでずっと見てきたが、お前ならもう十分やっていける」
その言葉に、胸が熱くなった。十二歳の頃、まかない料理だけを任されて、それでも嬉しくて跳び上がった日のことを思い出す。あれから四年、少しずつ、着実に信頼を積み重ねてきた結果が、今ここにある。
「ありがとう、お父さん。頑張るね!」
「ああ、頼りにしてるよ」
その日から、私は宿の厨房の全てを任されるようになった。仕入れの交渉、メニューの決定、価格設定。前世の美沙が会社員時代に培った数字を見る力や交渉のコツが、こういう場面で自然と活きてくる。
もちろん、簡単なことばかりじゃない。仕入れ値が高騰したり、繁忙期に人手が足りなかったり、経営者としての現実的な壁にもぶつかるようになった。それでも、一つ一つ、着実に乗り越えていく手応えがあった。
そんなある日、宿に見覚えのある人物が訪れた。
「久しぶりですね」
すっと洗練された佇まいで、丁寧にそう挨拶してきたのは、私がまだ十二歳だった頃、シチューを食べて印象的な言葉を残していった、あの若い男性だった。
「あっ! あの時の!」
思わず声を上げてしまう。あれから何年も経っているのに、彼はあまり変わっていないように見えた。いや、むしろ、以前よりも大人びて、どこか隙のない雰囲気を纏っている。
「覚えていてくれたんですね。光栄です」
彼は涼しい顔でそう言うと、丁寧にお辞儀をした。
「改めて、名乗らせてください。クラウスと申します。隣街で宿を営む家の者です」
その名前を聞いた瞬間、心臓がどきりと跳ねた。隣街の宿。それはつまり――。
「もしかして、あの高級宿の……」
「ええ、その跡取り息子です」
さらりと答えるクラウスに、私は思わず言葉を失った。まさか、あの日出会った謎の男性が、うちのライバルになる相手だったなんて。
「今日は、視察も兼ねて伺いました。あなたの宿が、最近ずいぶん評判になっていると聞いたもので」
その口調には、どこか値踏みするような響きがあった。効率、合理性。そういうものを重んじる人なのだろうということが、なんとなく伝わってくる。
「視察ですか」
「ええ。率直に言って興味があります。あなたの経営のやり方に」
彼はそう言って、静かに微笑んだ。その笑みは、決して敵意のあるものじゃなかった。むしろ、純粋な好奇心のようなものが感じられた。
「まあ、せっかくですからゆっくりしていってください。今日のメニュー、自信作なので」
私が少し挑発するようにそう言うと、クラウスは面白がるように目を細めた。
「それは楽しみです」
その日の夕食、クラウスは私が作った料理を、一皿一皿丁寧に味わっていった。時折、何かを分析するような真剣な表情を見せながら。
「率直な感想を言ってもいいですか」
食後、彼はそう切り出した。
「はい、もちろん」
「美味しいです。素直にそう思います。ただ、正直に言うと非効率な部分も目につきます。仕込みの手順、食材のロス、原価に対する価格設定。これらを見直せば、もっと利益率を上げられるはずです」
その率直すぎる指摘に、一瞬むっとしかけた。でも、前世の美沙が数字にうるさい上司に何度も指摘された記憶が蘇り、彼の言い分にも一理あることを認めざるを得なかった。
「確かに、そうかもしれません。でも」
私は真っ直ぐ彼を見つめて言った。
「効率だけがすべてじゃないと思ってます。うちの料理は、手間をかけているからこそ、この温かさが出せてるんです」
クラウスは少し驚いたような顔をしたあと、ふっと笑った。
「面白い方ですね、あなたは」
その笑顔に、なぜか少しだけ、胸がざわついた気がした。
「また、寄らせてもらいます」
そう言い残して、クラウスは静かに宿を後にした。彼の背中を見送りながら、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
(あの人が、ライバル)
これから何が起こるのか、まだ何もわからない。でも、あの人との関わりが、これからの私の人生に、何か大きな影響を与えることになるかも知れないと感じていた。




