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やすらぎ亭の女将さん  作者: 篠原 千鶴


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第七話


嵐の被害から立ち直って、また季節が一つ巡った。畑はすっかり元気を取り戻し、それどころか、以前よりも立派に育つようになっていた。


「今年は豆もいい感じだな」


父さんが、おじさんから分けてもらった豆の苗を見ながら、満足そうに頷く。あの嵐の後、色んな人が畑のことを気にかけてくれるようになった。苗を分けてくれたり、栽培のコツを教えてくれたり。街の人たちとの繋がりが、少しずつ広がっているのを感じる。


宿の夕食メニューも、季節ごとに少しずつ充実してきた。畑で採れる野菜やハーブを使った料理を私が中心になって考える。まかない料理から始まった小さな挑戦が、いつの間にか宿の看板メニューの一つになりつつあった。


「今日も満室だったな」


ある晩、父さんが帳簿を見ながら、驚いたように呟いた。


「満室って、久しぶりじゃない?」


母さんも覗き込んで、目を丸くする。


「ああ。というか、こんなにお客さんが来てくれたの、何年ぶりだろうな」


その言葉に、私も思わず帳簿を覗き込んだ。数字がびっしり並んだページを見て、じんわりと胸が熱くなる。前世の会社員時代、こんな風に数字を見て感動したことなんてあっただろうか。少なくとも、こんなに温かい気持ちになったことはなかった気がする。


宿を訪れるお客様の中には、遠くの街からわざわざ足を運んでくれる人も出てきた。


「あの、噂で聞いたんです。ここの野菜料理、すごく美味しいって」


初めて訪れたお客様が、そう言って恥ずかしそうに笑った。


「はい、ぜひ食べていってください!」


そんなやり取りを重ねるたびに、私の中で確かな自信が育っていった。うちの宿にしかない味。うちの家族にしか作れない温かさ。それが少しずつ、街の人たちの間に浸透していっている。


一方で、隣街の高級宿の話も時々耳に入るようになった。


「あそこは相変わらず立派な建物でね。料理も豪華で、貴族様なんかも泊まりに来るらしいよ」


市場のおばさんが、そんな噂話を教えてくれた。


「うちとは、全然規模が違うんですね」

「まあね。でも……」


おばさんは意味深に笑った。


「規模とか豪華さとは違う魅力が、あんたのところにはあるじゃないか。あそこの料理は、たしかに立派だけど、なんというか、よそよそしいって聞くよ。あんたのところの飯は、食べると『帰ってきた』って感じがするんだと」


その言葉に、以前あの行商人のおじさんが言ってくれたことを思い出した。「誰かの手の温かさを感じる」そう言ってもらえたことが、今もずっと胸に残っている。


(華やかさじゃ勝てない。でも、温かさなら、負けない)


そう心の中で呟きながら、私は次のメニュー開発に取り掛かった。




ある日の夕方、畑仕事を終えて家に戻ると、両親が二人で何やら真剣に話し込んでいた。


「どうしたの?」

「ああ、ミーシャ。ちょうどいいところに」


父さんが、少し照れくさそうな顔で切り出した。


「実はな、そろそろ宿の名前を変えようかと思ってるんだ」


「名前を?」

「今までの名前じゃ、うちの宿の良さが伝わりにくいだろう。お前の畑と料理が、この宿の新しい顔になってきてる。それを反映した名前にしたいと思ってな」


その言葉に、胸がじんと熱くなった。まだ自分は子供で、経営のことに口を出せる立場じゃない。それでも、両親は確かに、私の頑張りを宿の未来に組み込もうとしてくれている。


「私も考えていい?」

「もちろんだ」


その夜、家族三人で額を突き合わせて、新しい宿の名前を考えた。畑、料理、温かさ、家族。色んな言葉を出し合いながら、少しずつ形が見えてくる。


結局、その日は決まらなかったけど、なんだかとても幸せな時間だった。前世では、こんな風に家族で何かを一緒に考える時間なんて、ほとんどなかった気がする。仕事に追われて実家に帰るのも年に一度あるかないか。今の私は、毎日この温かさの中にいられる。それが、なんだかとても贅沢なことのように思えた。


数日後、街を歩いていると見知らぬ子供たちに声をかけられた。


「あ、この人、畑のお姉ちゃんだ!」

「うちのお母さんが、あの宿の料理、すごく美味しいって言ってたよ!」


無邪気な笑顔で話しかけてくる子供たちに、私は思わず頬を緩めた。自分の努力が、こんな風に街の人たちの日常に溶け込んでいっているのを実感すると、なんとも言えない達成感がこみ上げてくる。


その夜、日記を書きながら、私はこれまでの日々を振り返った。


六歳で前世の記憶を思い出した日。厨房に立たせてもらえず、もどかしい思いをした日々。隣の空き地を手に入れて、雑草だらけの土地を耕した日々。嵐で畑が壊れて、悔しい思いをした日。それが今、少しずつ、確かな結果が実を結び始めている。


まだ何も終わっていない。むしろ、ここからが本番だという気もしている。街には、まだあの立派な高級宿がある。私はまだ十二歳の子供で、経営の全てを任されているわけでもない。


それでも、確かな手応えを感じていた。


窓の外、月明かりに照らされた畑を見つめながら、私は静かに思う。


――この温かさを、もっと大きく育てていきたい。


まだ見ぬ未来への期待を胸に、私はそっと目を閉じた。

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