第五話
「よし、種まきだ!」
耕したばかりの土を前に、私は気合を入れて腕まくりをした。市場のおばさんに教えてもらった通りに、畝を作って、種をまいていく。ハーブの種、それから育てやすいと言われた野菜の種をいくつか。
前世の記憶にある家庭菜園の知識を頼りに、種と種の間隔を測りながら、丁寧に土をかぶせていく。
「本当にこれで育つのか?」
父さんが、心配半分、興味半分といった顔で覗き込んでくる。
「……育ってほしい」
「おい、頼りないな」
「だって、土とか気候とか、私だってよくわからないもん」
正直なところだった。前世の知識は、あまりないし、この世界では、季節の巡り方も、土の質も、微妙に違う。
種をまき終えた日の夜、私は栽培日記をつけ始めた。まいた種の種類、日付、天気。地味な作業だけど、これも前世の"社会人スキル"の一つだ。記録を残しておけば、失敗しても次に活かせる。
翌日から、毎朝畑を見に行くのが日課になった。
「まだ何も出てないなあ」
土をじっと見つめても、当然すぐに芽が出るわけじゃない。わかっていても、つい期待してしまう。
一週間が過ぎた頃、事件が起きた。夜中に強い雨が降って、翌朝畑を見に行くと、せっかく整えた畝の一部が崩れてしまっていたのだ。
「うそ……」
呆然と立ち尽くす。
「やっぱり子供の思いつきじゃ、うまくいかないもんだね」
通りすがりの近所のおじさんが、そう言って笑いながら通り過ぎていった。悪気はないんだろうけど、その言葉が地味に刺さる。
(悔しい……けど、今は結果を出すしかない)
崩れた畝を見つめながら、私は唇を噛んだ。前世の美沙だったら、こういう失敗にも慣れていたはずだ。企画がうまくいかないことも、資料を作り直すことも、日常茶飯事だった。今回だって、同じこと。失敗したら、直せばいい。
その日のうちに、崩れた畝を直しにかかった。今度は、少し土を高く盛って、水はけをよくするように工夫してみる。市場のおばさんに聞いた話や、父さんが昔聞きかじった知識も総動員して、なんとか修復した。
「ミーシャ、手伝おうか?」
いつの間にか、母さんが隣に立っていた。
「え、いいの?」
「あなた一人でやらせるのも、なんだか可哀想でね」
そう言って、母さんは慣れない手つきで土を触り始めた。私だけじゃなくて、家族みんなが少しずつ、この畑に関わってくれるようになっている。それが、なんだかとても嬉しかった。
二週間が過ぎた頃、ついに変化があった。
「あ……!」
朝、畑を見に行くと、土の表面から、小さな緑色の芽が顔を出していた。ほんの小さな、それでも確かな命の証。
「出た! 芽が出た!」
思わず大声で叫んでしまった。慌てて駆けつけた父さんと母さんも、その小さな芽を見て、目を丸くする。
「本当だ……出てるな」
「よかったわね、ミーシャ」
三人でその小さな芽を見つめる時間は、なんだかとても幸せだった。前世の会社員時代には、こんな小さなことで、こんなに心が動くことなんてなかった気がする。
それから毎日、芽は少しずつ成長していった。ハーブの葉が広がり、野菜の苗も背丈を伸ばしていく。水やりや草取りは大変だったけど、それ以上に育っていく様子を見るのが楽しくて仕方なかった。
「ミーシャちゃん、まだ畑やってるのかい」
以前からかうように声をかけてきたおじさんが、ある日通りすがりに、畑をじっと見つめて足を止めた。
「本当に芽が出てるんだな……」
「はい! もう少しで収穫できそうです」
おじさんは何も言わずに、少しだけ驚いたような顔をして去っていった。その後ろ姿を見ながら、私は小さな達成感を噛みしめていた。
ある日、宿にあの行商人のおじさんが再び訪れた。
「おお、ミーシャちゃん。元気そうだな」
「見て見て、畑! もうすぐ収穫できそうなんだ」
案内した先の小さな畑を見て、おじさんは感心したように頷いた。
「へえ、こりゃすごい。自分で育ててるのか」
「はい、前世……じゃなくて、家族全員で色々勉強しながらですけど」
うっかり口を滑らせそうになって、慌てて言い直す。おじさんは不思議そうな顔をしたけど、それ以上は追及してこなかった。
「これで採れた野菜やハーブ、また料理に使ってくれるんだろう? 楽しみにしてるよ」
「はい、絶対美味しくします!」
胸を張ってそう答えると、おじさんは満足そうに笑って頷いた。
その夜、日記に今日の出来事を書き込みながら、私はしみじみと思う。ここまで、決して順調だったわけじゃない。失敗もしたし、周りから半信半疑の目で見られることもあった。それでも、少しずつ、確実に前に進んでいる実感がある。
窓の外、月明かりに照らされた畑を見つめながら、私は次の目標を思い描いていた。
「ミーシャ、これ、そろそろ収穫できるんじゃないか?」
父さんが畑を覗き込みながら、そう声をかけてきた。種をまいてから、およそ一ヶ月半。ハーブはすっかり青々と茂り、野菜も食べごろのサイズまで育っていた。
「うん、やってみる!」
震える手で、初めての収穫に挑む。土から抜き出した野菜を見て、思わず声が漏れた。
「わあ!ちゃんと育ってる」
前世の記憶にある、スーパーに並んでいた野菜とは形がちょっと違う。この世界特有の品種だからだろう。でも、瑞々しくて、いかにも美味しそうな見た目をしている。
その日の夜、収穫したばかりの野菜とハーブを使って、まかない料理を作ることにした。何を作ろうか、ずっと考えていた。せっかくの初収穫だから、うちの宿らしい、家庭的で温かい料理にしたい。
結局、選んだのは煮込みシチューだった。畑で採れた野菜をたっぷり使って、じっくり煮込む。仕上げにハーブを効かせて、香り高く仕上げる。前世の記憶にある、寒い日に食べたくなるような、優しい味を目指した。
「いただきます」
家族みんなで食卓を囲む。一口食べた瞬間、母さんの目が丸くなった。
「……美味しい。全然違うわね、いつもの野菜と」
「畑で採れたばかりだからかな。新鮮さが違うのかも」
父さんも無言でスプーンを口に運びながら、何度も頷いていた。
「これ、お客様にも出してみないか」
父さんがそう言い出したのは、食事が終わった後のことだった。
「え、いいの!?」
「ああ。今までのメニューに、季節限定で一品加えるくらいなら。……それに、ミーシャの努力、ちゃんと形にしてやりたいと思ってな」
その言葉に、胸が熱くなった。まだ小さな一歩だけど、ついに自分の作った料理が、正式にお客様の前に出ることになる。
数日後、私の作った野菜のシチューが、宿の夕食メニューに季節限定で加わることになった。最初は不安だった。お客様に受け入れてもらえるだろうか。前世の会社員時代、企画を初めて世に出すときの緊張感を思い出す。
「これは、美味いな」
初めてシチューを注文してくれたお客様――近隣の農家の人だった――が、驚いたような顔で呟いた。
「野菜が新鮮で味も優しくて、なんだかほっとする味だ」
「ありがとうございます!」
思わず満面の笑みがこぼれた。
それから少しずつ、シチューの評判が広がっていった。お客様が「あの宿の野菜料理は美味しい」と口コミで話してくれるようになり、来客数も、わずかにだけど増え始めた。
「ミーシャちゃんの畑、噂になってるよ」
市場に買い出しに行くと、店のおばさんがそう教えてくれた。
「え、そうなんですか?」
「ああ。子供が始めた畑にしては、立派に育ってるって。あんた、すっかり街の有名人だよ」
からかうような口調だったけど、そこには確かな親しみがあった。以前は半信半疑だった近所の人たちも、少しずつ見る目が変わってきているのを感じる。
そんなある日、宿にいつもと違う雰囲気のお客様が訪れた。身なりのいい、洗練された服装の若い男性だった。
「一泊、お願いできますか」
丁寧な口調だけど、どこか値踏みするような視線を感じる。父さんが対応している間、私はこっそりその人を観察していた。
「あの人、なんだか只者じゃない感じ」
母さんに小声で聞いてみると、母さんも少し戸惑ったような顔をしていた。
「さあ。でも、身なりからすると、それなりの家柄の人かもしれないわね」
その日の夕食に、その男性は私の作ったシチューを注文した。運ばれてきた料理を見て、彼はしばらく無言でじっと見つめていた。
(あれ、なんか反応薄い……?)
少し不安になりながら、様子を伺う。彼は一口食べると、意外そうな顔をした。
「……この野菜は、どこで仕入れているんですか」
「あ、それ、私が育てたんです。宿の隣の畑で」
「あなたが?」
彼は驚いたように私を見た。年齢の割にしっかりしている、というような視線を感じる。
「なるほど。興味深いですね」
それだけ言うと、彼は静かに食事を続けた。何を考えているのか、いまいち読めない雰囲気の人だった。
翌朝、その男性は宿を発つ前に、父さんに何か話しているようだった。私は気になって、こっそり耳を澄ませてみる。
「良い宿でした。特に、あの野菜料理は印象的でしたよ」
「それは、ありがとうございます」
「また機会があれば、寄らせていただきます」
そう言い残して、彼は静かに去っていった。父さんは、なんだか狐につままれたような顔をしていた。
「なあ、ミーシャ。あの人、誰だったんだろうな」
「わからない。なんか、雰囲気がすごい人だったね」
その時の私は、彼がまさか、あの隣街の高級宿の跡取り息子だとは、想像もしていなかった。
その日を境に宿を訪れる客層に、少しずつ変化が見え始めた。以前よりも身なりのいい旅人が、ふらっと立ち寄ることが増えたのだ。理由はわからなかったけど、なんとなく、街で何かが噂になっているような予感がした。
「最近、お客さんの層が変わってきたよね」
母さんにそう話すと、母さんも同じことを感じていたようで、静かに頷いた。




