第三話
「ねえ、お父さん。厨房、もっと手伝わせてよ」
朝食の片付けをしながら、思い切って切り出してみた。父さんは帳簿から顔を上げて、ちょっと困ったような顔をする。
「ミーシャ、気持ちは嬉しいけどな。厨房は火も使うし、刃物もある。危ないんだよ」
「野菜くずのスープ、褒めてもらえたよね? あれ、ちゃんと火も刃物も使ったよ」
「それは……まあ、そうだけど」
父さんは言葉に詰まって、母さんの方をちらっと見る。母さんは洗い物の手を止めて、少し考えるような顔をした。
「あなた。ミーシャ、最近は本当に手際がいいのよ。いっそ、任せてみたら?」
「しかし……」
「私たちだって、いつまでも一人で全部背負えるわけじゃないでしょう」
母さんのその一言に、父さんは黙り込んだ。しばらくの沈黙のあと、ふう、とため息をついて頷いた。
「わかった。じゃあ、まずは賄い料理だけだ。お客様に出す料理には、まだ触らせない。それでいいな?」
「うん! ありがとう、お父さん!」
思わず声が弾んだ。まだ第一歩だけど、それでも大きな一歩だ。前世の美沙だったら、こんな小さな昇進に一喜一憂することもなかったかもしれない。でも、今の私にとっては、これがすごく大事な一歩だった。
その日から、私は正式に賄い料理を任されることになった。うちの宿は住み込みの従業員なんていない、家族三人だけで切り盛りしている宿だ。だから「賄い」といっても、実質は家族の食事係。それでも、私にとっては大きな一歩だった。
最初の数日は、正直そんなに大きな変化を出せなかった。限られた食材で、いつも通りの料理を、いつもよりちょっと丁寧に作る。それだけ。でも、少しずつ、コツを掴んでいった。
(この世界の香辛料、意外と使えるものが多いんだよな)
前世では高級品だったスパイスも、この世界では庭先で普通に育っていたりする。逆に、前世では当たり前だった調味料が、この世界には存在しなかったりもする。美沙の記憶と、この世界の食材をすり合わせながら、少しずつ自分なりのレシピを組み立てていった。
ある日、宿に一人の行商人が泊まりに来た。以前もまかないを味見してくれた、あのおじさんだ。
「おお、ミーシャちゃん。また世話になるよ」
「いらっしゃい! 今日はゆっくりしていってね」
私はにっこり笑って、部屋に案内した。行商人のおじさんは、この街と隣街を頻繁に行き来している商人で、宿の常連客の中でも数少ない、うちの宿を選び続けてくれる貴重なお客さんだった。
その夜、おじさんの夕食を用意していたとき、ふと思いついた。
(せっかくだから、いつもよりちょっと気合入れてみようかな)
在庫にあった鶏肉と、庭で育てているハーブ、それから少しだけ高価な香辛料を使って、煮込み料理を作ることにした。前世の記憶にある、家庭的な煮込み料理のレシピを、この世界の食材でアレンジする。じっくり煮込んで、コクを出して、最後に庭のハーブで香りづけ。
「お客様に出す料理じゃなかったのか?」
配膳しようとした父さんが、皿を見て目を丸くした。
「ううん、まかない用の余り物だよ。せっかくだから、常連さんにも食べてもらおうかなって」
父さんはちょっと不安そうな顔をしたけど、結局は黙って皿を運んでくれた。
しばらくして、食堂から「おお……!」という声が聞こえてきた。慌てて様子を見に行くと、行商人のおじさんが、感動したような顔でスプーンを止めていた。
「ミーシャちゃん、これは君が?」
「はい、私が作りました」
「すごいな。うちの故郷の味を思い出したよ。こんな田舎町で、こんな味に出会えるとは思わなかった」
おじさんの目が潤んでいるように見えて、私は思わず照れ笑いした。
「隣街の高級宿の料理も食べたことがあるけどね。あれはあれで美味しいんだが、なんというか、作り手の顔が見えない味なんだよな。君のこの料理は、ちゃんと"誰かの手"の温かさを感じるんだ」
その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。効率とか合理性とか、そういうものだけじゃ測れない価値。前世で会社員として働いていたときには、あまり実感できなかった感覚だった。
翌朝、おじさんが出発する前に、私にこっそり声をかけてきた。
「ミーシャちゃん、あの料理、今度また食べさせてくれよ。それと、これは余計なお世話かもしれないが、行く先々でこの宿のことを話しておくよ」
」
そう言って、おじさんは笑いながら旅立っていった。その背中を見送りながら、私は不思議な胸の高鳴りを感じていた。
その日の夜、父さんと母さんが、二人でこそこそと何か話しているのが聞こえた。聞き耳を立てるつもりはなかったんだけど、つい気になって近づいてしまう。
「あの子の料理、本当にすごいな」
「ええ。私たちよりも上手なんじゃないかしら」
「まさか」
「本当よ。あなたも味見したでしょう?」
その会話を聞いて、私は思わずドアの陰でにやけてしまった。両親に、こんな風に認めてもらえる日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかった。
でも、まだ油断はできない。あくまでこれは「まかない料理」の話だ。宿の正式なメニューに私の料理が並ぶのは、まだまだ先の話だろう。
(でも、これは確実に一歩前進だ)
窓の外を見ると、隣の空き地が今日も静かに月明かりに照らされている。あの土地を手に入れて、そこで育てた野菜やハーブを使って、もっといろんな料理を作りたい。そんな夢が少しずつ現実味を帯びてきた気がした。
数日後、隣に住むおじいさんが珍しく宿を訪ねてきた。
「ちょっと相談があってな」
おじいさんの用件は、私が思っていたよりもずっと早くやってきた。
「実はな、息子夫婦のところに身を寄せることになったんだ。それで、この土地なんだが……」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「もし良かったら、お前さんのところで買い取ってくれないか。安くしとくから」
父さんと母さんは顔を見合わせて、戸惑った様子だった。今の宿の経営状況では、新しい土地を買う余裕なんて、正直あまりない。
「ちょっと考えさせてもらえますか」
父さんがそう答えると、おじいさんは「ああ、急がなくていいよ」と笑って帰っていった。
その夜、家族会議が開かれた。私は思わず身を乗り出して、自分の考えを話し始めた。
「あの土地を畑にしたいの。ハーブとか、野菜とか育てて、料理にもっと使いたい」
「ミーシャ、でも、今のうちにそんな余裕は……」
「余裕がないからこそだよ。ここで新しいことを始めないと、このままじゃジリ貧だと思う」
思ったよりはっきりした声が出た。前世で必死に企画を通そうとしていた記憶がふっと蘇る。
父さんと母さんは、しばらく黙って考え込んでいた。
「……少し時間をくれ。考えてみる」
その返事だけで、その夜は終わった。まだ答えは出ていない。でも、種は蒔いた。あとは、それがどう育つか。
窓の外の空き地を見つめながら、私は静かに、でも確かな期待を胸に抱いていた。




