第二話
「ミーシャ、お皿はそっちじゃなくてこっち!」
「はいはーい」
厨房を走り回りながら、私は空いた皿を重ねていく。あれから六年。私、ミーシャは十二歳になった。
六歳のあの日から、頭の中にはずっと美沙の記憶が同居してる。おかげで計算も読み書きも同年代よりちょっと得意だし、料理の勘もそこそこある。……はずなんだけど。
「ミーシャ、味見はいいから、洗い物お願いね」
「ええ〜、ちょっとだけ味見させてよ〜」
母さんに軽くいなされて、口を尖らせる。厨房には入れてもらえるようになった。まかない作りの手伝いも任されるし、簡単な下ごしらえなら一通りこなせる。でも、まだ「お手伝い」の域は出ない。味付けを決めるのも、メニューを考えるのも、仕入れの相談も、全部両親の仕事だ。当たり前といえば当たり前なんだけど、美沙だった記憶を持つ身としては、地味にもどかしい。
(六年もあれば、そこそこできることも増えたと思うんだけどな)
うちの宿の経営は、あの日聞いた両親の会話の頃よりさらに厳しくなってる。隣街はますます発展して、旅人はみんなそっちの立派な宿に泊まる。うちに来るのは、懐が寂しい旅人か、常連のごく一部くらい。空いた客室の数を数えるたび、胸の奥がちょっとひやりとする。
「最近、また宿を畳むって噂も出てるらしいわね」
洗い場で聞こえてきた近所のおばさんの会話に、手が止まる。畳む。廃業。頭の中で、その単語がずしんと重く響いた。
夜、寝室に戻ってから、その言葉が頭から離れなかった。廃業したら、私たちはどうなるんだろう。両親は、どこか別の仕事を探すことになるのかな。この家も、この厨房も、なくなっちゃうのかな。ベッドの中で膝を抱えて、しばらくそんなことばかり考えていた。
(……そろそろ、私も本気で動かないと)
その夜、部屋のベッドに寝転がりながら、天井を見上げて考える。厨房には立たせてもらえる。でも、まだ十二歳の女の子ってだけで、「お手伝い」以上のことは任せてもらえない。前世の知識をいくら持っていても、それを発揮する場がなければ意味がない。
(美沙だった頃は、企画書一つ通すのにも根回しが必要だったっけ。いきなり大きいこと言っても、誰も聞いてくれない。……よし、まずは信頼を積み上げるところからだ)
翌日から、私は少しずつ動き出すことにした。
まずは、誰にも文句を言われない範囲で。食材の在庫を細かくチェックして、傷みやすいものから使う順番を父さんにこっそり提案してみる。最初は「子供が何を」という顔をされたけど、実際にその通りにしてみたら、無駄になる食材が明らかに減った。父さんは何も言わなかったけど、次からは私の言うことに少しだけ耳を傾けてくれるようになった気がする。
掃除の合間には、余った野菜の切れ端を使った"まかない"を勝手に一品作ってみることにした。皮や芯、普段なら捨ててしまうような部分も、ちゃんと下処理すれば十分美味しくなる。前世で作り置きおかずを研究していた頃の知識がこんなところで役に立つとは思わなかった。休日にまとめて仕込んで、平日はレンジでチンするだけ――あの生活で培った"日持ちする味付け"の感覚は、この世界でも意外なくらい通用する。
「ミーシャ、これ、あんたが作ったの?」
母さんが、味見をして目を丸くした日のことは、今でも覚えてる。ただの野菜くずのスープのはずが、ちゃんとコクがあって美味しいと褒められた。玉ねぎの皮を軽く炒ってから煮出すと香ばしさが出ることを知っているのは、多分この世界で私だけだと思う。
「うん。捨てるところ、まだ使えそうだったから」
「へえ、本当にセンスあるのね」
そう言われて、ちょっと誇らしかった。でも同時に、心のどこかで思う。センスとか才能とかじゃなくて、これはただの"経験"なんだけどな、って。前世の自分に「今の私が褒められてるよ」と教えてあげたい気分だった。
宿の常連客、行商人のおじさんが、たまたまその日泊まっていて、まかないの残りを味見させてもらったことがあった。
「これはミーシャちゃんが作ったのかい?なかなかやるじゃないか」
その一言が嬉しかった。行商人のおじさんは、あちこちの街を回っているから、色んな宿の料理を知っている。そんな人に褒められたのは、素直に自信になった。
「隣街の宿は、料理は立派だけどなんだかよそよそしくてね。ここの飯は、なんというか、ほっとするんだよなあ」
おじさんのその一言が、妙に胸に残った。華やかさじゃなくて温かさ。それがうちの武器になるかもしれない。
まだ何も変えられていない。まだ子供扱いされてる。宿の経営方針も、メニューも、私が口を出せる立場じゃない。でも、小さな一歩は、確かに踏み出せてる気がする。
窓の外に見える隣の空き地。あの土地は、まだ雑草だらけのまま放置されてる。隣に住んでいたおじいさんは相変わらず一人暮らしで、たまに畑仕事をしている姿を見かけるくらいだ。
十二歳の私にできることは、まだ少ない。厨房の隅で野菜くずを刻んで、まかないを一品作るくらい。それでも少しずつ、確実に変えていく。
そう心に決めながら、私は今日も厨房の隅で余りものの野菜と向き合っている。窓の外では、隣の空き地の雑草が、今日も気持ちよさそうに風に揺れていた。




