第一話
「――今月もダメだったか」
寝室の扉の隙間から漏れてくる父さんの声で、目が覚めた。
六歳の私、ミーシャは、寝ぼけまなこのまま布団から抜け出して、そっと廊下に出た。両親の部屋からは、ぽつぽつと話し声が続いている。
「隣街、また新しい宿ができたらしいわ。しかも領主様の後押しで」
「うちみたいな小さい宿には、もう分が悪いな……」
母さんの声、なんか元気ない。廊下にしゃがみこんで聞き耳を立てる。うんうん、要するに──うちの宿、お客さんに逃げられてるってことね。隣の街が急にキラキラし始めて、みんなそっちに流れちゃってる、と。
――あー、それは、キツいやつだ。
そう思った瞬間、頭の中がバグった。
満員電車。パソコンの画面。「お疲れさまです」って頭下げてる自分。休日にまとめて作ったおかずを、平日の夜にレンジでチンして「はい夕飯」ってやってた、あの日々。
――え、ちょっと待って、何この感じ。
立っていられなくて、廊下にぺたん、と座り込んだ。頭の中で、知らないはずの記憶が高速再生される。名前も、顔も、はっきり思い出せる。美沙。三十六歳。特別すごくもない、どこにでもいる会社員。
満員電車、残業、作り置きおかずのレンチン、また働く。そのループを何年も繰り返してた記憶。そして──駅のホームで、ふっと意識が途切れた記憶。
「うそでしょ」
思わず声に出た。六歳の自分の声と、頭の中の"美沙"の記憶が、合わさっていく。
でも、なぜか怖くはなかった。むしろ「あ、そういうことね」って、パズルが一個ハマった感じ。
そっか、私、前世があったんだ。しかも独身社畜。
廊下に座ったまま、しばらく動けなかった。頭の中は六歳の私と三十六歳だった美沙が同時に「うちの宿、どうする?」って会議中。なんか変な感じだけど、思ったより悪くない。
翌朝。
いつも通り朝ごはんの席についた私を見て、母さんが首をかしげた。
「ミーシャ、どうしたの? 今日はやけに静かね」
「ううん、なんでもない」
そう言いつつ、テーブルの上の硬いパンと薄いスープをじーっと見つめる。美沙の記憶が、勝手に採点を始めた。
(食材、少なっ。パンも硬いし、スープの出汁もスカスカ。玉ねぎの甘みも全然引き出せてないし。これ、絶対もっと美味しくなるやつだ)
前世で鍛えた、休日にまとめておかず仕込む"作り置き力"。日持ちする味付けとか、下処理のコツとか、身体が勝手に覚えてる。これ、地味に使えるかも。
「あのね、お母さん」
気づいたら口が勝手に動いてた。
「このスープ、玉ねぎをもっとじっくり炒めてから煮ると、味変わると思う!」
母さんが目を丸くする。
「ミーシャ、そんなこと、どこで覚えたの?」
「えっと、なんとなく?」
我ながら苦しい言い訳。でも母さんはそれ以上突っ込まず、不思議そうに笑った。
「変わった子ね。今度、一緒にやってみましょうか」
その言葉に、こくん、と頷いた。
食後、父さんが帳簿を前にため息をついているのが見えた。羊皮紙に並んだ数字を、指でなぞって、なぞって、また唸る。子供の私が見ても、あの数字、ヤバそうなのはわかる。
まだ六歳。厨房に立たせてもらうのも、経営に口を出すのも、まだ無理。でもいつか、この宿を私が立て直してみせる。
美沙として生きた三十六年間。特別な人生じゃなかった。ただの、そのへんにいる会社員。でも、限られた予算とにらめっこしながら作り置きの献立を考えたことも、無駄じゃなかったんだって今なら思える。
窓の外の、隣の空き地をぼんやり眺めながら、心の中でそっと誓った。
「ミーシャ、外が気になるの?」
母さんの声で、我に返る。
「ううん。ねえ、お母さん。あそこの土地、誰のもの?」
「隣のおじいさんの土地よ。どうして?」
「ううん、なんとなく」
窓の外の雑草が、風にゆらゆら揺れてる。まだ何も決まってない。でも、あの土地がいつか自分にとって大事な場所になる──そんな予感が、胸の奥でちょっとだけ灯った。




