第19話
その日からクラウスは、以前にも増して頻繁に宿を訪れるようになった。経営の相談だけでなく、なんてことのない世間話をしに来ることも増えていた。
「今日は、特に相談したいこともないんですが」
「じゃあ、なんで来たんですか?」
「単純に、ここの煮込みが食べたくなっただけです」
そう言って笑うクラウスの表情は、以前よりもずっと自然になっていた。効率と合理性ばかりを重んじていた彼が、こんな風に理由もなくふらりと立ち寄る。それがなんだか嬉しかった。
一方でクラウスの家では、別の動きが進んでいた。
ある日、彼は少し疲れた様子で宿を訪れた。
「クラウスさん、なんだか顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
「ええ、少し、家のことで話し合いがありまして」
「家のこと、ですか?」
「フィオナ嬢との縁談の件です」
その名前を聞いて、私は思わず身構えた。
「父から、そろそろ正式に婚約を進めてはどうかと、話がありました」
心臓が、どきりと跳ねるのを感じた。
「クラウスさんは、なんて答えたんですか」
「まだ、答えていません。ただ」
彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「もう、答えは決まっています」
その言葉の意味を、私は少し戸惑いながら受け止めていた。
数日後、クラウスは正式に、フィオナさんと話す機会を持ったらしい。その翌日、彼は宿を訪れて、静かにその顛末を話してくれた。
「フィオナ嬢に、はっきりとお伝えしました。私の気持ちは、あなたには向いていないと」
「そうだったんですね」
「彼女は、最初は驚いていましたが、最終的には理解してくれました。正直、彼女自身も私との結婚に対して、家柄以上の強い想いがあったわけではなかったようです」
その話を聞いて、少しほっとした自分がいた。同時に、フィオナさんのことを、少しだけ気の毒にも思った。
「父にもはっきり伝えました。この結婚話は、進めるつもりはないと」
「お父様は、なんて?」
「かなり驚いていましたね。でも、最終的には、私の意志を尊重すると言ってくれました」
クラウスは、そう言って、どこか晴れやかな表情を見せた。
「生まれた時から、継ぐのが当然だと思って育ってきました。誰かと結婚することも、家のために必要なことだと疑いもなく受け入れていた」
彼は、静かに続けた。
「でも、あなたと出会ってから色々なことを自分の意志で選びたいと思うようになりました。宿の方向性も結婚相手のことも」
その言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「クラウスさん、それは大きな決断だったんじゃないですか」
「ええ。でも、後悔はしていません」
彼は、そう言って、真っ直ぐに私を見つめた。
「ミーシャさん」
「はい」
「今すぐに何かを求めるつもりはありません。ただ、あなたが宿のことに専念したいと考えているのは、よく知っています。だから今は、それを尊重したい」
「クラウスさん」
「ただ、いつかあなたの気持ちに余裕ができた時。その時は、改めて私の気持ちをきちんと伝えたいと思っています」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「はい。その時を楽しみにしています」
思ったよりすんなりとそんな言葉が出てきたことに驚いていた。トーマスさんの告白を断った時とは、明らかに違う感覚だった。
クラウスが帰った後、リナが興味津々といった様子で聞いてきた。
「なんか、今日、二人ともいい雰囲気でしたね」
「そ、そんなことないよ」
「絶対ありましたって! 私の目はごまかせませんよ」
からかうようなリナの言葉に、私は思わず頬が熱くなるのを感じた。でも、それを否定する気には、なぜかなれなかった。




