第17話
フィオナさんが訪れてから、なんとなく落ち着かない日々が続いていた。
(クラウスさんのことを気にしすぎだよね)
頭の片隅で、彼女の言葉がずっと引っかかっていた。「釣り合った立場の相手」。その言葉が、地味に胸に刺さったままだった。
そんなある日、宿に新しいお客様が訪れた。
「こんにちは、予約していたトーマスです」
爽やかな笑顔でそう挨拶してきたのは、隣街で商会を営んでいるという若い男性だった。年齢は私より少し上、二十歳前後だろうか。
「いらっしゃいませ! お待ちしておりました」
案内しながら、なんとなく話が弾んだ。トーマスさんは、商談で色んな街を回っているそうで、話題も豊富だった。
「この宿の噂は、あちこちで聞いていたんです。特に、畑の野菜を使った煮込み料理が絶品だと」
「本当ですか! ありがとうございます」
「実際に食べてみて、噂以上でしたよ。あなたが、この味を作り出しているんですね」
真っ直ぐに褒めてくれるトーマスさんに、私は素直に嬉しくなった。
それから、トーマスさんは商談のたびに、うちの宿に泊まってくれるようになった。会うたびに、少しずつ会話も増えていく。
「今日は、どんな商談だったんですか?」
「新しい織物の取引先を探しててね。なかなか苦労してるよ」
「そうなんですね。商売って、大変ですよね」
「ああ。でも、ミーシャさんのところみたいに、真心のこもった仕事を見ると、こっちも頑張ろうって思えるんだ」
そんな風に、さらりと褒めてくれる言葉に、なんだかほっとする自分がいた。クラウスとの会話は、いつも刺激的で、緊張感もある。でも、トーマスさんとの会話は、もっと穏やかで、安心感があった。
「ミーシャさん、なんか最近、あの商人さんとよく話してますね」
リナが、興味津々といった様子で聞いてきた。
「うん、まあ商談のたびに来てくれるから」
「もしかして、いい感じなんじゃないですか?」
からかうようなリナの言葉に、私は思わず頬が熱くなった。
「そ、そんなんじゃないよ」
「ふーん、そうですか?」
疑わしそうな目で見つめてくるリナに、私は誤魔化すように厨房の仕事に戻った。
数週間後、トーマスさんから、思いがけない申し出があった。
「今度、休みの日に、街の外にある湖まで一緒に出かけませんか」
「えっ」
「もちろん、無理にとは言いません。ただ、ミーシャさんと、もっとゆっくり話してみたいと思って」
真剣な表情で誘われて、私は少し戸惑いながらも、頷いていた。
「はい」
その日から、私たちは休みの日に、時々一緒に出かけるようになった。湖畔を散歩したり、街の市場を巡ったり。トーマスさんとの時間は、いつも穏やかで、心地よかった。
「ミーシャさんは、本当にすごいですね。あんな若さで、宿を立派に経営して」
「そんな、すごくないですよ。周りの人たちに、たくさん助けてもらってるだけです」
「それでも、あなたが引っ張ってきたから、今の宿があるんでしょう」
真っ直ぐに評価してくれる言葉に、いつも胸が温かくなった。
「トーマスさんは、どうして商人になったんですか?」
「うちは、代々商売をやっている家でね。物を右から左に流すだけじゃなくて、必要としている人に、必要なものを届ける。そういう仕事に、やりがいを感じてるんだ」
彼の話す仕事観は、どこか私の考え方と近いものがあった。効率や利益だけじゃなく、そこに込められた想いを大切にする。そんな価値観が心地よく響いた。
ある日、二人で湖畔を歩いていると、トーマスさんが不意に立ち止まった。
「ミーシャさん」
「はい?」
「率直に言います。あなたのことが、好きです。よかったら、私と、正式にお付き合いしてもらえませんか」
真剣な眼差しで告げられたその言葉に、私はしばらく言葉を失った。
(どうしよう)
頭の中で、宿のこと、畑のこと、新しい食堂のこと、色んなことが一気に浮かんでは消えていく。トーマスさんのことは、素直に好意的に思っている。でも、今の自分に、恋人と向き合う余裕が本当にあるだろうか。
「ごめんなさい」
考えた末、私は正直にそう答えた。
「トーマスさんのこと、嫌いなわけじゃないんです。むしろ、一緒にいて楽しいし、色々な話を聞かせてもらえて嬉しかった。でも、今の私は、宿のことで本当に精一杯で。誰かとちゃんと向き合う余裕が、正直まだないんです」
トーマスさんは、少し驚いたような顔をしたあと、静かに頷いた。
「そうですか。正直に言ってくれて、ありがとうございます」
「せっかく想ってもらえたのに、ごめんなさい」
「いえ。あなたが、そこまで宿のことに真剣なのは、よく知っていますから。それに」
彼は少し微笑んで続けた。
「今すぐの答えを、無理に求めるつもりはありません。友人として、これからも宿には顔を出させてもらいますよ」
その優しい言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。
「はい。これからも、よろしくお願いします」
湖面に映る夕日を眺めながら、私はほっとしたような、それでいてどこか申し訳ないような、複雑な気持ちを抱えていた。断ったことに後悔はない。それでも、彼の想いに応えられなかったことへの申し訳なさは、しばらく胸に残りそうだった。




