↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やすらぎ亭の女将さん  作者: 篠原 千鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/23

第17話


フィオナさんが訪れてから、なんとなく落ち着かない日々が続いていた。


(クラウスさんのことを気にしすぎだよね)


頭の片隅で、彼女の言葉がずっと引っかかっていた。「釣り合った立場の相手」。その言葉が、地味に胸に刺さったままだった。


そんなある日、宿に新しいお客様が訪れた。


「こんにちは、予約していたトーマスです」


爽やかな笑顔でそう挨拶してきたのは、隣街で商会を営んでいるという若い男性だった。年齢は私より少し上、二十歳前後だろうか。


「いらっしゃいませ! お待ちしておりました」


案内しながら、なんとなく話が弾んだ。トーマスさんは、商談で色んな街を回っているそうで、話題も豊富だった。


「この宿の噂は、あちこちで聞いていたんです。特に、畑の野菜を使った煮込み料理が絶品だと」

「本当ですか! ありがとうございます」

「実際に食べてみて、噂以上でしたよ。あなたが、この味を作り出しているんですね」


真っ直ぐに褒めてくれるトーマスさんに、私は素直に嬉しくなった。


それから、トーマスさんは商談のたびに、うちの宿に泊まってくれるようになった。会うたびに、少しずつ会話も増えていく。


「今日は、どんな商談だったんですか?」

「新しい織物の取引先を探しててね。なかなか苦労してるよ」

「そうなんですね。商売って、大変ですよね」

「ああ。でも、ミーシャさんのところみたいに、真心のこもった仕事を見ると、こっちも頑張ろうって思えるんだ」


そんな風に、さらりと褒めてくれる言葉に、なんだかほっとする自分がいた。クラウスとの会話は、いつも刺激的で、緊張感もある。でも、トーマスさんとの会話は、もっと穏やかで、安心感があった。


「ミーシャさん、なんか最近、あの商人さんとよく話してますね」


リナが、興味津々といった様子で聞いてきた。


「うん、まあ商談のたびに来てくれるから」

「もしかして、いい感じなんじゃないですか?」


からかうようなリナの言葉に、私は思わず頬が熱くなった。


「そ、そんなんじゃないよ」

「ふーん、そうですか?」


疑わしそうな目で見つめてくるリナに、私は誤魔化すように厨房の仕事に戻った。


数週間後、トーマスさんから、思いがけない申し出があった。


「今度、休みの日に、街の外にある湖まで一緒に出かけませんか」

「えっ」

「もちろん、無理にとは言いません。ただ、ミーシャさんと、もっとゆっくり話してみたいと思って」


真剣な表情で誘われて、私は少し戸惑いながらも、頷いていた。


「はい」


その日から、私たちは休みの日に、時々一緒に出かけるようになった。湖畔を散歩したり、街の市場を巡ったり。トーマスさんとの時間は、いつも穏やかで、心地よかった。


「ミーシャさんは、本当にすごいですね。あんな若さで、宿を立派に経営して」

「そんな、すごくないですよ。周りの人たちに、たくさん助けてもらってるだけです」

「それでも、あなたが引っ張ってきたから、今の宿があるんでしょう」


真っ直ぐに評価してくれる言葉に、いつも胸が温かくなった。


「トーマスさんは、どうして商人になったんですか?」

「うちは、代々商売をやっている家でね。物を右から左に流すだけじゃなくて、必要としている人に、必要なものを届ける。そういう仕事に、やりがいを感じてるんだ」


彼の話す仕事観は、どこか私の考え方と近いものがあった。効率や利益だけじゃなく、そこに込められた想いを大切にする。そんな価値観が心地よく響いた。


ある日、二人で湖畔を歩いていると、トーマスさんが不意に立ち止まった。


「ミーシャさん」

「はい?」

「率直に言います。あなたのことが、好きです。よかったら、私と、正式にお付き合いしてもらえませんか」


真剣な眼差しで告げられたその言葉に、私はしばらく言葉を失った。


(どうしよう)


頭の中で、宿のこと、畑のこと、新しい食堂のこと、色んなことが一気に浮かんでは消えていく。トーマスさんのことは、素直に好意的に思っている。でも、今の自分に、恋人と向き合う余裕が本当にあるだろうか。


「ごめんなさい」


考えた末、私は正直にそう答えた。


「トーマスさんのこと、嫌いなわけじゃないんです。むしろ、一緒にいて楽しいし、色々な話を聞かせてもらえて嬉しかった。でも、今の私は、宿のことで本当に精一杯で。誰かとちゃんと向き合う余裕が、正直まだないんです」


トーマスさんは、少し驚いたような顔をしたあと、静かに頷いた。


「そうですか。正直に言ってくれて、ありがとうございます」

「せっかく想ってもらえたのに、ごめんなさい」

「いえ。あなたが、そこまで宿のことに真剣なのは、よく知っていますから。それに」


彼は少し微笑んで続けた。


「今すぐの答えを、無理に求めるつもりはありません。友人として、これからも宿には顔を出させてもらいますよ」


その優しい言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。


「はい。これからも、よろしくお願いします」


湖面に映る夕日を眺めながら、私はほっとしたような、それでいてどこか申し訳ないような、複雑な気持ちを抱えていた。断ったことに後悔はない。それでも、彼の想いに応えられなかったことへの申し訳なさは、しばらく胸に残りそうだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。