第16話
新しい食堂スペースもすっかり街に馴染んで、忙しくも充実した毎日が続いていたある日のことだった。
「ミーシャさん、今日、なんか高級な馬車が来てるみたいですよ」
厨房の窓から外を覗いていたリナが、興味津々といった様子で教えてくれた。
「馬車? うちに?」
不思議に思いながら外に出てみると、確かに立派な馬車が宿の前に停まっていた。中から降りてきたのは、美しく着飾った若い女性だった。
「ここが最近評判の宿だと伺ったの」
女性は、どこか値踏みするような視線で、宿の外観をぐるりと眺めた。
「はい、ようこそいらっしゃいました。ミーシャと申します」
「あら、あなたが噂の女将さんね。私、フィオナと申します」
その名乗りに、私はふと嫌な予感がした。フィオナ。以前、街の噂で聞いたことがある名前だ。確か――クラウスに近づいているという、下級貴族の令嬢の名前だった。
「クラウス様から、こちらの宿のことをよく伺っておりますの。どんな場所か、一度自分の目で確かめたくて」
フィオナさんは、優雅な微笑みを浮かべながらそう言った。でも、その視線の奥には、どこか鋭い観察眼のようなものが感じられた。
「そうでしたか。ごゆっくりお過ごしください」
案内しながら、私はなんとなく落ち着かない気持ちになっていた。
食堂の席についたフィオナさんは、狭い店内をぐるりと見回して、小さくため息をついた。
「随分とこぢんまりとした場所ですのね。庶民的というか」
その言葉に、はっきりと棘を感じた。悪気を隠す気もないのか、むしろ当然の感想だと言わんばかりの口調だった。
「はい、お貴族様には不便をおかけします。うちは平民のお客様が多いので。その分、温かい接客を心がけております」
なんとか笑顔を保って答えたけど、内心では、その物言いに少しむっとしていた。
「温かい接客、ねえ」
フィオナさんは、扇子で口元を隠しながら、くすりと笑った。
「まあ、クラウス様のお宿とは、比べ物にならないものね。あちらは天井も高くて、調度品もすべて一流。こういう場所もそれはそれで趣があるんでしょうけれど。そう言えば、クラウス様が最近よくこちらに顔を出されているとか」
「え、そうですね。経営の相談などで、よくいらっしゃいます」
「ふふ、そうですか」
フィオナさんは、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「実はね、クラウス様とは、家同士のお付き合いも深くて。先日も私だけのために、わざわざ隣領の宝飾品店から取り寄せた品を贈ってくださいましたの」
そう言って、彼女は自慢げに、首元の美しいネックレスに手を添えた。
「将来的には、クラウス様と婚約する話も出ているんですのよ。ふふ、こんな小さな宿にいらっしゃるあなたには、想像もつかない世界かもしれませんけれど」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。なぜか、胸の奥がずきりと痛んだ気がした。
「それは、おめでとうございます」
なんとかそう返したものの、自分でも、その言葉がどこか空虚に響くのを感じていた。
「まだ正式には決まっておりませんけれど。でも、クラウス様のような素敵な方と一緒になれるなら、とても幸せだと思いますの。あの方、忙しい合間を縫っていつも私に会いに来てくださるのよ」
フィオナさんは、うっとりとした表情でそう語った。その口調には、クラウスへの好意というより彼を"手に入れた自分"に酔っているような響きがあった。
フィオナさんが、ふと真剣な表情になった。
「あなたと、クラウス様は、どういったご関係なのかしら」
その質問に、私は一瞬言葉に詰まった。
「経営者同士として、色々と情報交換をさせていただいてます。ライバルです」
「あら、それだけ?」
フィオナさんの視線が、より鋭くなった気がした。
「え、ええ、それだけです」
なぜか、そう答える自分の声が少し上ずっているのを感じた。
「そう。それならいいのですけれど」
フィオナさんは、少し安心したような表情を見せたあと、あらためて店内を見回して、小さく笑った。
「こういう場所に、クラウス様が興味を持たれるのも、まあ、視察の一環と思えば理解できますわ。でも本当に大切にされるのは、やっぱり、釣り合った立場の相手だと思いますのよ」
その言葉には、明確な優越感が滲んでいた。
その後、フィオナさんは軽く食事を摂って、丁寧にお礼を言って帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、私はなんとも言えないもやもやとした気持ちを抱えていた。
「ミーシャさん、大丈夫ですか? なんか元気ないですけど」
リナが心配そうに声をかけてきた。
「あ、ううん、大丈夫。ちょっと考え事してただけ」
そう誤魔化しながらも、頭の中では、フィオナさんの言葉がぐるぐると回っていた。
(クラウスさんが婚約)
なぜか、その事実を想像すると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚があった。
(あれ、私、なんでこんな)
自分でも戸惑うほどの感情の揺れに、私は静かに困惑していた。ライバルとして、経営者として、良い関係を築いてきたつもりだった。それ以上でもそれ以下でもない、はずだった。
その夜、片付けを終えて自室に戻ってもなかなか気持ちが落ち着かなかった。
(私には関係ないことなのに)
そう自分に言い聞かせても、なぜか胸のざわつきは収まらなかった。
窓の外の畑を眺めながら、私はぼんやりと考えた。この感情の正体が何なのか、まだはっきりとはわからない。それでも、何かが、確かに自分の中で変わり始めているのを感じていた。
翌日、宿を訪れたクラウスに、私はいつも通り、努めて明るく接客した。
「今日もいらっしゃいませ」
「ええ、いつもの席で」
普段通りのやり取りのはずなのに、なぜか少し、ぎこちなさを感じてしまう。
「何か、いつもと違いますか」
クラウスが、そう鋭く聞いてきた。
「え、そんなことないですよ! いつも通りです」
慌てて取り繕う私を、彼はしばらく不思議そうに見つめていた。
「……そうですか。ならいいのですが」
その視線から逃れるように、私は厨房に戻った。心臓が、いつもより少し速く鼓動しているのを感じながら。




