第13話
「ミーシャ、ちょっと話があるんだが」
ある日の夜、片付けが終わった後、父さんが改まった様子でそう切り出した。母さんも隣で、どこか神妙な顔をしている。
「な、なに? 改まって」
少し緊張しながら、二人の向かいに座った。
「実はな、お母さんと二人でずっと話し合ってたんだ。この宿のこと、これからのこと」
父さんは、少し言葉を選ぶようにしながら続けた。
「お前がこの宿に来てくれてから、いや、生まれてから、もう十六年だ。厨房も、経営も、今ではほとんどお前が回してくれている」
「そんな、まだまだお父さんとお母さんの助けがないと……」
「いいや」母さんが静かに首を振った。
「もう、私たちの出る幕は少なくなってきてるわ。それは、悪いことじゃないの。むしろ、誇らしいことよ」
その言葉に、胸がじんと熱くなった。
「実はな」父さんが続けた。
「最近、少し体力の衰えを感じることが増えてな。若い頃のようには動けなくなってきた。それに」
父さんは、少し照れくさそうに笑った。
「お前になら、安心して任せられる。そう思ったんだ」
「お父さん……」
「正式に、この宿の経営をお前に引き継ぎたいと思ってる」
その言葉に、私はしばらく言葉を失った。ずっと目指してきた場所。でも、いざその瞬間が来ると、想像していたよりもずっと、色んな感情がこみ上げてくる。
「私に務まるかな」
「務まるとも」母さんが力強く言った。
「あなたがこれまでやってきたこと、私たちはずっと見てきたわ。あなたなら、絶対に大丈夫」
「それに」父さんが付け加えた。
「私たちが完全にいなくなるわけじゃない。困った時は、いつでも相談に乗る。ただ決定権と責任は、これからお前が持つ。それだけの話だ」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「わかった。引き継がせていただきます」
そう答えた瞬間、なぜか涙が溢れてきた。嬉しさと、少しの不安と、そして、これまでの十六年間の全てが、一気に胸に押し寄せてくるようだった。
「ミーシャ……」
母さんが優しく肩を抱いてくれた。
「六歳のあの日、あなたが急に大人びた口調でスープの味付けを提案してきた時から、私たち、なんとなく気づいてたのよ。この子は、特別な子なんだって」
「え……」
「詳しい事情は聞かないでおくわ。でも、あなたが誰よりもこの宿を愛して、大切にしてくれてること。それだけは、ずっとわかってた」
その言葉に、私は驚きと同時に、深い安堵を感じた。前世の記憶のことは、誰にも打ち明けたことがなかった。それでも、両親は、私の本質的な部分を、ちゃんと見てくれていたんだと思うと、胸が熱くなった。
「ありがとう、お母さん。お父さんも」
「これからも、よろしく頼むな。女将さん」
父さんが、そう言っておどけるように笑った。その「女将さん」という呼び方に、なんだか照れくさくなりながらも、確かな誇らしさがこみ上げてきた。
翌日から、正式に、宿の経営権が私に引き継がれることになった。街の人たちにも、その報告がされることになる。
「ミーシャちゃんが、正式に女将になるんだって?」
市場のおばさんが、驚いたような、それでいて嬉しそうな顔でそう聞いてきた。
「はい。至らないところも多いと思いますが、頑張ります」
「あんたなら、大丈夫よ。ここまで頑張ってきたの、みんな見てるもの」
そう言って励ましてくれる街の人たちの言葉に、改めて、この街で育ててもらったんだという実感が湧いてきた。
その日の夜、宿の看板を掛け替えることになった。以前から少しずつ話し合っていた、新しい宿の名前。畑と、温かい料理と、家族の想いを込めた名前が、ようやく決まっていた。
「――『やすらぎ亭』、これでいいか?」
父さんが、新しい看板を掲げながら、少し照れくさそうに聞いてきた。
「うん、すごくいい名前だと思う」
シンプルだけど、この宿の本質を表した名前だと思った。効率でも豪華さでもなく、"やすらぎ"。それが、私たちが大切にしてきたものだ。
新しい看板が掲げられた瞬間、なんだか胸の奥から確かな決意が湧き上がってきた。
(これから、私が、この宿を守っていく)
まだ不安がないと言えば嘘になる。それでも、ここまで積み重ねてきた経験と、両親から受け継いだ想い、そして街の人たちの信頼。それら全てを胸に、私は新しい一歩を踏み出す準備ができていた。
その様子を、離れたところから見ていたクラウスが、いつの間にか近づいてきていた。
「正式に、女将になられたんですね」
「あ、見てたんですか」
「ええ。おめでとうございます」
彼は珍しく、心からの祝福の言葉をかけてくれた。
「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
新しい看板の下で交わした、その短いやり取り。それが、これから始まる新しい章の、静かな幕開けのように感じられた。
窓の外、夕暮れに染まる「やすらぎ亭」の看板を見つめながら、私は深く息を吸い込んだ。ここから、また新しい物語が始まる。




