第7話 永遠には続かない
1
夕暮れ時に帰ってきた父は口数が多かった。
これは良くない兆候で、彼がよく喋るときは機嫌が良いか、ひどく悪いかのどちらか。
そして今は、明らかに後者だった。
「エステル。アルベール様とはどうだ?」
「変わらず……よくしていただいています」
「最近はいつ会った?」
「前回の舞踏会以来、お会いしていません」
それを聞くと、父は低く唸る。何かガルニエ家関連で、よくないことがあったらしい。
今日父が出席していた会合には、ガルニエ伯も同席すると聞いた。
連想するのは、やはり魔石採掘業の件だ。
あの舞踏会のあと、伯爵が難色を示していたことは父に伝えたけれど、そのときは楽観的な様子だった。
私を介さずに直接釘を刺されて焦り始めた、ということだろうか。
「あれからもうひと月にもなるぞ。夫婦になろうという仲の者達が、それはよくない」
「そう、でしょうか」
「丁度モントルヴァルにいらしていると聞く。すぐにでも食事に招こうじゃないか」
有無を言わさぬ早口で勝手に決められた。 アルベールを使ってガルニエ伯を懐柔したいらしい。
露骨に巻き添えを食ってうんざりする。彼のことが特別嫌いなわけではないけれど、面倒事が目に見えていた。
それにモントルヴァルといえば、馬で半日はかかる。あまりにも急な話だ。
彼だって用件があって領地を出てきているのだし、食事程度に時間を割くはずがない。
「アルベール様にもご都合がありますし、いらしてくださるかしら」
来ないでほしいし、来ないだろう。
心配そうに見えるよう眉を落としながらも、そう思っていた。しかし──
2
「大変美味しく頂きました。おもてなしに深く感謝いたします」
「いやいや、田舎の粗食でお恥ずかしい」
2日後、彼は本当に来た。
貴重な鳩を使ってまで手紙を出したとはいえ、半日の道程を辿るにしては早すぎる。
きっと元から、ウェルディエに何か用があったのだろう。それが私を介さずに完結するものだといいけれど。
「今、客間を用意させておりますのでな。今夜はそちらに」
「ああ……お気遣い痛み入ります。宿を取ろうと思っていたのですが」
「とんでもない!近々貴方の家になるのですから、遠慮は無用というものです」
気の滅入る話を父と婚約者が繰り広げている。
今までは「そういうもの」として諦めることができていたのに、近頃はいちいち重荷がのしかかるような思いをしている。
イネスのせいだ。
「では……それまで、庭を散歩してもよろしいですか?」
「我が家の庭に見るべきものがあるでしょうか?ありふれたものです」
形としては謙遜だけれど、実際その通りだ。銀鉱が枯れた今となっては、ろくに庭師も雇えない。
ひとりはどうにか確保できているけれど、ガルニエ家の庭とは比べるべくもないだろう。
けれどアルベールは、やや語気を強めて否定する。
「そんなことはありません。ぜひ拝見したいのです」
「……そうおっしゃるのでしたら、エステル。ご案内して差し上げなさい」
「はい」
掃き出し窓から一歩出るだけでもう庭なのだから、案内が必要なはずもない。つまり、機嫌をとってこいということだろう。
アルベールに続いて席を立った私の肩に、父が手を置いた。
「婚姻の近い男女のことだ。今夜何があろうと、はしたないとは思わんぞ」
虫が這っているように、鳥肌が立つのを感じた。
無感情に押し込んだはずの夕食が胃の中で存在感を増す。
私は……返事ができなかった。イネスと出会う前の私だったら、平気で演技ができただろうか。
3
この家の庭は、夜もそれなりに明るい。夜になると魔石灯がひとりでに辺りを照らすのだ。試掘で得られた分の魔石は、全てこの家で使われている。
アルベールはハーブ畑にかがみこみ、葉を手に取って熱心に眺めていた。
「男爵はああ言っていたけれどね、ウェルディエ……というか、西部の植生はとても興味深いんだ。ここでしか見られない」
「植物にご興味が?」
「うん……モントルヴァルに滞在していたのも、半ば僕の趣味だ」
そうか……そういうことなら、ウェルディエに来たのも植物が目当てだったのかもしれない。
自分と無関係の理由が浮上して、胸を撫で下ろした。
「植物の研究なんて嫡男がすることじゃないけれど、父はそれを許してくれている」
「……よい、お父上なのですね」
きっと、そうなのだろう。やりたいことがあって、それをさせてくれる親というのは。
私には、そういうものはなかった。親のために始めたことばかりだった。
もし自発的にやりたいことがあれば、言えばやらせてもらえるだろう。この家の長女としての役割さえ果たせば、という但し書きがつくけれど、それは彼も同じだ。
ならば私の親子関係と彼の親子関係で何が違うのか。それを考えると、結局は私自身と……私の生まれに行き着くのだ。
「身内のことだけど、本当にそう思う。だからその分、父に求められたことはちゃんと果たしたいんだ」
本音だろうか。嘘だろうか。
婚約を破棄する機会を虎視眈々と狙っていて、それが明るみに出ないよう、私に印象付けようとしているのか。
それとも、こんな田舎で暮らすことになっても父に命じられたことなら役目を果たすと、そう心に決めているのだろうか。
不思議と、嘘をついていてほしいと思った。
そちらの方が、まだマシだと。
「君と結婚したら、兄のもとで軍を持たせてもらえるんだ。縁起でもないけど……魔石の件が上手くいかなくても、君に不自由をさせたりはしない」
アルベールは、いつの間にかハーブではなく私の目を見ていた。
何かを求めるように。
私は……何も言えない。
どの仮面を被り、どの言葉を選べばいいかは明らかだった。かつての私なら、即座に媚びることができただろう。内心がどうであっても。
それが、できなくなっている。
そうさせたのは──
そのとき、どこからか狼の遠吠えが響いてきた。
どこか哀しげで、懇願するような響き。
近い。街中で、こんな近くから獣の声が聞こえてきたことはなかった。
「……近いね」
熱に浮かされるようにぼんやりと、けれど確信を持って思った。
イネスが私を呼んでいる。
そんな合図を決めたわけではない。あの黒い狼の遠吠えを聞いたことがあるわけでもない。それでも。
私はやはり、正気ではないのかもしれない。
居ても立っても居られなくなる。
ここにこうして、アルベールといることが馬鹿げているように思えてならない。
彼は今──大切で、有益な話をしている。それでもだ。
「外にいては危ないかもしれません。お部屋の準備もできた頃でしょう」
「そうだね……」
浮ついた心を必死に鎮めて、それらしい理由を取り繕う。幸い彼も同意してくれた。
中に戻り、アルベールを客間に案内した。父の言葉は、もう忘れることにする。
「エステル」
客間のドアから半分身体を出したアルベールに呼び止められて、義務的に振り向く。魂だけが身体から離れて、勝手に歩いてゆくような心地がした。
もし部屋に入れとでも言われたら、私はどんな顔をしてしまうだろう。
「いや……なんでもない。おやすみ」
よかった。それだけ思って、彼を頭の中から切り捨てる。
自室に戻り、誰もいないことを確かめると窓からもう一度庭に出た。
遠吠えは、間を置いて何度も繰り返されている。
その出処を目指して、フェンスを越えた。
初めて入る夜の森は暗く、けれど木々の隙間から差し込む月の光でなんとか歩くことができた。
そして──
「イネス」
葉陰のない、月明かりが満ちる場所に彼女はいた。
肌が青白い光に照らされて、まぶしくすら見える。
そばに侍っていた狼が私の姿を認めると、黒い霧を残して姿を消した。
彼女に歩み寄ると、待ち受けていたように抱き寄せられる。
人に抱きしめられるのはもうずいぶん久しぶりだ。けれど、驚きや拒否感はすこしも湧かなかった。
「この前のお前は……怖かった。いつもと違って」
違うはずだ。イネスに対してだけでなく、私は誰に対しても怒りを露わにすることはなかった。
そんな私が声を荒らげてイネスに食ってかかったのは、この子に期待していたからだ。勝手に、だけれど。
「……嫌になった?」
「さっき、お前がまたあの男と会っているのを見た。あれを……ただ見ていて、わたしはずっと関係ないところにいる。その方が、ずっと嫌だ」
素朴で、冗長で、けれど心のままに紡いだ言葉。
私が彼女に望むのは、何よりもそれだ。この世で望むものはそれだけだ。
「うん」
言葉少なに答えると、冷たい背中を抱きしめ返した。
私は、イネスを選ぶ。
私に未来を選ぶ権利はないから、今この瞬間だけを選ぶ。
父が望むものとは違う未来を選ぼうとすれば、その代償として私の生は閉ざされるだろう。
それでもいいと、今は思う。
私がこれから人生で強いられるものよりも、彼女と過ごす数ヶ月の方がずっといい。
夜の孕む冷気が足元から忍び寄り、私はイネスを強く抱いた。
ローブに染み込んだ冷たさが私とイネスの体温で消えてゆく。
まるで、身体ごと溶け合うように。




