第6話 ずっと貴方が嫌いだった
1
「……っ!」
私は椅子を蹴立てて立ち上がる。
今、そこに──
「エステル?どうした」
白パンを片手に、父が訝しげに言う。
咄嗟に言い訳を考えたけれど、ろくなものが浮かばない。
「いえ……あの、舌を噛んでしまって」
ひどいものだ。それでもその言い訳に従い、手で口を押さえてみせる。
それを受けて、父は最適な間を置いて破顔した。鷹揚に目を細め、声をあげて笑う。
「慌てるな、エステル。朝食は逃げはしないさ」
「はい。失礼しました」
両親がどう思ったかは定かではないけれど、ともかくこの場は収まった。
椅子を立て直して座りつつ、気づかれないようにため息をつく。
いい加減、恐怖を通り越してうんざりしてきた。
ここ最近つきまとわれているのだ。
はじめは気のせいだと思ったけれど、何度かはっきりとその姿を目にした。
例の黒い狼だ。
以前は正面からやってきて指輪を奪っていったけれど、今度は隠れ潜んでただこちらを見ているだけだ。そして、私が気づくと逃げていく。
庭で茂みの中から。街角で建物の陰から。夜の闇の中から。狼は私を見ていた。
さっきなんて、どうやって入ったのか食堂の扉の陰から覗いていた。そんな様を見れば椅子を蹴飛ばしてしまうのも無理はないというものだ。
しかも、どういうわけかあの狼の姿を誰も見ていないのだ。街中に白昼堂々と現れても、誰も騒がない。
すぐに姿を消してしまうので、仮に私が指を差して訴えたとしても、その頃にはもういない。そんなことはしないけれど。
この調子で何度も驚かされていては、私の頭がおかしくなったと思われかねない。
とはいっても……どうしようもない。獣除けの香でも焚くべきだろうか。
朝食を終えて庭園に出た。刺繍道具一式とハンカチを持って、いつものベンチに腰掛ける。
今日はどの家庭教師が来るというわけでもなく、父母も両方家にいる。傍から見れば完全な余暇だった。
ただ、父が家にいる間は「未婚の淑女」として相応しい過ごし方をしなければならない。刺繍もその一例だ。
本当は自室に籠って、ただ眠っていたいのだけれど。
ハンカチには、我が家──ウェルディエ家の紋章が半分ほど縫い込まれている。
別にこの紋章が好きなわけではないけれど、どうせ趣味でやっているわけではないのだから、父の機嫌を取りやすい題材がいいだろう。
針を取り、図案に沿って運んでゆく。
これも7つの頃から学んでいて、もう慣れきって何も考えずに手が動くようになっていた。
そうなると、かえって無関係の物事が頭に浮かんでくるものだ。
近頃の私が考えがちなことと言えば……当然、あの魔術師のことだ。
あのとき、何故自分が怒っているのか曖昧だった。帰ってから頭を整理してみても……よくわからない。
普通に考えれば、単に無断でああいう類の接触をされたからだろう。けれど、そう自分を納得させようとしても違和感が残る。
あの感覚に対して、イネスと私の認識が食い違っていることに怒りを覚えたのだ。彼女がまるで子どもみたいに、くすぐるようにああいうことをしたのが許せなかった。
ただ、私はイネスにどうしてほしかったのか。これから何をされればイネスを許せるのか。それがわからない。
自分でもどうしてほしいのかわからないのに、彼女に当たってしまった引け目もある。
そう──誰に対しても感情をひた隠しにしてきた私が、不機嫌さを隠しもせずに出ていったのだ。
怒りと、罪悪感と、いつものように感情を制御できなかった悔しさ。複雑なはずのそれらは結局苛立ちに還元されてしまう。
このどうしようもない不快感を抱えたまま顔を合わせる気にはならず、もう数週間イネスの家に行っていない。
こんなにあれこれ彼女のことを考えているのは私だけで、向こうはなんとも思っていないのだろう。
それが苛立ちをさらに膨らませる。
「はぁ……」
針を止めてため息をつく。
ハンカチに落としていた視線を正面に戻すと──
「痛っ……!」
驚きのあまり、まだ持っていた針を指に刺してしまった。
またあの狼だ。10歩ほど先で、お座りの姿勢でこちらを見ている。
いまや完全に、恐怖を怒りが凌駕した。
「っ……もうっ!」
私は悪態をつき、手近にあった布切り鋏を振り上げ、狼に向かって投げつけた。
指の痛みとイネスへの苛立ちも混じった、半ば以上八つ当たりのようなものだった。近くに落ちて、脅かすのがせいぜいだと思っていた。けれど──
鋏は狼の前脚に突き刺さった。血煙のような黒いもやが吹き出し、石畳に染みを残す。
狼は悲鳴もなく、鋏が刺さったままの脚を引きずりながら森の方へ駆け出した。
「……嘘……」
確かに刃先が鋭い鋏だったから、角度次第で刺さってもおかしくはなかった。
けれどそんな……あそこまでするつもりはなかった。
狼のいた石畳まで行き、その血痕を確かめる。
──黒い。
赤黒い、という域ではなく、漆黒。明らかに血のそれではない色だった。
毛皮が黒いと、血も黒いの?そんなはずはない。
それでも……血を流すほどの怪我をしたのは間違いない。どんな生き物でも、血を流して平気ということはないだろう。
胸がどうしようもなくざわめく。
鋏を抜くことも、そのあと傷を治療することも野生の獣にはできない。もしかしたら……そのまま死んでしまうかもしれない。
前回はともかく、今日はただこちらを見ていただけなのに。
私の八つ当たりで。私が感情を抑えきれなかったせいで。
「……もう……っ!」
また同じ悪態をついて、私は血痕を辿り始める。
いつかと同じように、フェンスを乗り越えた。
2
黒い血は草むらに点々と続いている。
狼はちょうど木漏れ日の下を歩いたらしく 、影にまぎれることなく辿ることができた。
血痕の行く先を見ても、狼の姿はない。
あてどなく逃げ回っているにしては、真っ直ぐに進んでいた。どこかにある巣へ向かっているのだろうか。
しばらく痕を追うと、突然枝葉の影が晴れた。木々のない、整備された道に出たのだ。
「この道……」
間違いない。
以前指輪を奪われたときもこの砂利道に出た。
血痕は、あの日の私の歩みをなぞるように続いていた。つまりは、道に沿って、イネスの家へ向かって。
イネスの家に向かう、不可解な行動をとる、黒い血の狼。
なんだろう……頭の中で、何かが繋がりかけている。その繋がりの全体像がどうなるかはわからないけれど、何故か目を背けたくなってしまう。
頭を振って、私はただ脚を前に進める。
歩いてゆくごとに黒い点は次第に大きくなってゆき、間隔も狭まってきている。つまりは出血が酷くなり、足取りが遅くなっているということ。
もうすぐ追いつけるかもしれない。
そして──
イネスの家に辿り着いた。
黒い狼は、そこにいた。
家の前に、イネスと共に。
狼は、彼女を襲うでも、彼女を恐れて逃げるでもなく。恭順を示すように頭を垂れると──
黒い霧を残して消えた。
駆け去ったわけでも、隠れたわけでもない。文字通り、消えたのだ。
血の色なんかよりもずっと明確な不自然さ。以前目にした、魔術の不自然さだ。
繋がりかけたものは、やはり最悪の形で結実した。
あの狼は生き物なんかじゃなかった。
「ごきげんよう」
「っ……」
自分でも驚くほど冷たい声だった。イネスは私に気づいて息を呑む。
これほどの動揺を、彼女の表情に見たことはない。見られてはまずい場面だった、ということくらいはわかっているようだ。
吐く息が熱い。胸が苦しくて、自分の心臓を掴み出したくなる。
あれは、イネスの仕業だったんだ。指輪を盗んだのも、狼をつきまとわせたのも。
違う。
そんなことはどうでもいい。
「嘘を、ついたのね」
「……」
「指輪を盗んだあと、平気な顔して私に会ってた」
それが全てだった。
彼女は嘘をつかないと、そう思っていたのに。
弱い私なんかにそうする必要がないからだと、私は想像した。たとえそんな理由でも、私には救いだった。
「綺麗な指輪が欲しくて、だから私を家に呼んでいたの?」
「違──」
「嘘をつかれるのが一番嫌いだって、あの話を聞いてもわからなかった!?」
こんな大声を、荒い声を出して人を責めたことはない。
それは、そもそも他人に何かを求めたことがなかったからだ。"親"という最も親しい他人から最初に裏切られ、それ以来期待することをやめたから。
何を必死になっているのか。懲りもせず、勝手に期待しただけなのに。荒れ狂う胸の奥で、他人事のように誰かが嘲笑する。
それでも洪水のようにあふれ出した敵意は止まらない。
「貴方がそんな人なら私は──」
「お前だって嘘をついただろ!」
突然の反撃に、刺されたように胸が痛む。
私が嘘を──それは事実だ。誰もが私に嘘をつくように、私もまた皆に嘘をついている。
けれど、イネスの意図は違った。
「また来るって、前そう言ったのにずっと来ない!」
イネスの声も珍しく荒い。表情も険しく、いつもの余裕あるものではなかった。
魔術を教わったときのことだ。
確かにそう言ったけれど、あんなの生返事だ。私はそれどころじゃなかった。
「それは……貴方があんなことしたからでしょ!」
「なんだ、あんなことって!大丈夫かって聞いたのに、お前は何も言わなかった!」
やっぱり……何もわかっていなかった。
平気で私を騙して、そのうえ無自覚に、からかうみたいにあんなことをして──
「……だから腹が立ったのよ……!貴方が何もわかってないから!」
「わかるわけないだろ!わたしは……!わたしは、なにも知らないんだ」
険しかったイネスの表情が、急に弱々しいものになった。目尻を落とすと、眉間に寄った皺が怒りとは違う意味を示す。
口数の少ない普段とは対照的に、言い訳をする子どもみたいに訥々と話し始める。
「わたしはっ、先生以外誰にも会ったことなくて……先生も死んでしまって、ずっとひとりで……そしたらお前が来て、助けて、もしかしたら感謝してくれるかもって、友達になれるかもって……お前、はっ……きれいで、声も……わたしのこと、怖くないって言うし……だからまた来いって……でも、そのあとずっと、来ないし、夜、知らないやつと腕なんか組んで、見つめ合って……それがすごく嫌で……だから……なんでもいいからお前が来るようにしなくちゃって……だから……」
私は、口を挟めなかった。
声は震え、歯切れは悪く、支離滅裂で。
普段は凛々しいあの顔が、泣き出しそうにくしゃくしゃに歪んでいる。
恐ろしい魔術の力を持つ魔女が、そんな無様さを晒しながら訴えているのは、私への想いだった。
何も言えないままに、私はただ彼女を見ていた。
"恐ろしい魔女"に対する仮面を忘れ、何を取り繕い、何を装えばいいのかもわからない。
ただ、私は口を開く。思いのままに。
それは久しく忘れていた、私の素顔だったのかもしれない。
「ごめんなさい」
ローブを固く握りしめていたイネスの手を取る。彼女は思いのほか素直に指を緩めてくれた。
その手はやはり冷たく、怒りで火照っていた私の手から熱を吸い取る。
「私は嘘をついていたかもしれない。不実だったかもしれない」
私は彼女を恐れていた。惹かれてもいたけれど、私にとって根本的には"恐ろしい魔女"だった。
イネスが私に率直に接するのは、私が彼女より弱いからだと思っていた。嘘で身を守る必要がないほどに。
だから私は嘘をついた。身を守るために。他の人に対するように、口先だけのその場しのぎを弄した。
けれど、私は間違っていた。彼女は確かに無知ではあるのだろうけれど、そこに悪意はなかった。私が思っているより、ずっと幼い人だったのだ。
だったら──私の嘘は、不実だったということになる。
「もう……貴方には嘘をつかない。そう約束するなら、まだ私と一緒にいてくれる?」
イネスの瞳を真っ直ぐに見つめても、彼女はうつむいてそれを受け止めない。
固く結んだ唇が震える。その間から呻くような声を漏らすと、イネスは私の手を弱く振り払って家の中へと走り去った。
魔女の家の前に、ひとり取り残される。
時間が経てば、あの子は私を許してくれるだろうか。わからない。
そもそも、私は許してもらいたいのだろうか。私だけに落ち度があるのだろうか。
許されたとして、何だというのか。その先に何があるのか。
何もかもに答えを出せないまま、ただ泥濘む道に立っていた。




