第5話 気持ち悪い 後編
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私に魔術そのものについての知識はほとんどないけれど、世間が魔術師を──蔑称でいうところの魔女や妖魔憑きをどう扱っているかについてはいくらか見識があった。
教会全体が魔女狩りを主導していた頃と違って、教皇は魔術師の存在を容認している。
ただそれは大学に所属する"管理された"魔術師に限られていて、イネスのような隠棲する魔女のことはよく思っていないだろう。
見つかれば捕らえられ、穏便に済めば大学に送られる。ただひとりで隠棲しているだけならそうなる。
しかし──貴族の娘に魔術を教えていたとなれば、どうなるかはわからない。イネスも私もだ。
私は今、背教者との境界線へ一歩踏み出したのかもしれない。
そのことに奇妙な高揚感を覚えていた。逃げればいいという言葉を否定こそしたけれど、魔術の力で本当にそれが叶うのなら、という思いが心の奥底に芽吹いているのかもしれない。
「魔法も魔術も、魂……心のかたちだ。まずはそれを知らなければならない」
「形……?」
「触れればわかる」
そう言って、イネスは私の手を取った。以前触れられたときは気づく余裕がなかったけれど、彼女の手は私より冷たい。
その手から、未知の感触が伝わってくる。いや、手からではない。私の心臓から指先へ流れた血が、イネスの指先から胸へと流れて──その中の何かに触れるような。
血そのものに触覚はないはずなのに、「血がそれに触れている」としか形容できない。
「わかるか?今お前の魔素が触れているのが、わたしの魂だ」
魂。
触れられるものの説明として、その言葉が出てくるとは思わなかった。比喩か、聖典や聖職者の語る中でしか聞いたことがない。
それが実在すると本気で思えるほど、今までの私は信心深くはなかった。けれど確かに、何かがここにある。
「触れて……大丈夫なんですか?」
「強く触れれば砕けるかもしれない。だが、お前はまだ魔素の動かし方を知らない。わたしが手を取って導き、触れさせているようなものだ」
手を取って、導いて、触れさせる。
……想像してむず痒さを感じた。
専門家が言うのだから適切な喩えなのだろうけれど……そのままの光景を思い浮かべるとどこか照れくさい。
「……魔素って?」
「魂の血液にして魔術師の触手。月から空気へ、空気から魂へ流れ込む魔術の源。誰もが持ち、だからこそ誰もが魔術を扱いうる」
イネスは書物を諳んじるように語る。いつもの硬い口調とは違い、どこか詩的だ。
本当に本の内容をそのまま言っているのかもしれない。わけのわからなさ──門外漢に理解させる気のなさは、あの本と同じだ。
「目を閉じて、かたちを感じろ」
師の命ずるとおり、目を瞑る。
何も見えず、森の微かな喧騒も壁が遮り、長く握り続けたからかイネスの手の感触も消えつつある。
残されたのは、五感の外にある形容しがたいこの感覚だけ。
それが鋭敏に研ぎ澄まされると、確かに導かれていることがわかった。
私の血──魔素がイネスのそれに絡めとられ、ゆっくりと彼女の中心を、魂の中を這い回るのだ。
触手とは的確な喩えだ。ほそく、やわらかく、いくつにも分かれた私の触手がイネスの内側の確かな感触を訴える。ぬるく湿った貝殻の中を、指で探るように。
かたいところ。
やわらかいところ。
つき出たところ。
くぼんだところ。
なめらかなところ。
ざらざらしたところ。
触れ、擦り、撫で、くすぐる。
もどかしさを感じるほどゆっくりと。
何度も何度も繰り返すうちに、私の触手は糸のように細く伸び、魂全体を網羅していた。
触手から伝わる微かな感触を組み立てて、脳裏に立体が浮かび上がる。
これが、魂のかたち。
「……読めたか?」
「え?」
「魂のかたちがわかったか?」
「あ……はい」
独特の表現と魂に触れた余韻のせいで、莫迦みたいな生返事をしてしまった。
気のせいか、イネスの頬が赤い気がする。
「大丈夫ですか?触れすぎたとか……?」
「平気だ。……後でわかる。それより集中を切らすな。そのまま動かないようにしろ」
私の魔素を誘導していた圧力が消える。動かないように、と言われても動かし方がわからない。
「いいぞ、目を開けろ」
従ってまぶたを開くと、イネスは繋いでいない方の手をハーブティーの入っていた杯に向けていた。
曲げた中指の爪を親指の腹で押さえている。子どもが友達の額を弾いて遊ぶときの、あの構えだ。
「軽く、な」
瞬間、イネスの魂が変形した。
内にいた触手が痛みに近い刺激を覚えるほど劇的に、鋭く。攻撃的に。
同時にイネスが指を弾く。
ぱん、という破裂音と共に杯が吹き飛び、遠くの壁に跳ね返って床に転がった。
彼女の指は、明らかに杯に触れる距離にはなかった。仮に触れたとしても、指の力だけであんなに飛ぶはずはない。
「すごい……」
口をついて出た感嘆だった。軽く、と言っていたから、きっと手加減をしたうえでの結果なのだろう。これに並ぶような魔術を多く知っているのなら、確かにひとりでも生きていけるかもしれない。
イネスは誇らしげな顔をしたけれど、私の視線に気づくとすぐにいつもの仏頂面を作る。
「今の魂のかたちを覚えたか?発動する瞬間のかたちを覚えないと意味がない」
「はい。覚えました」
「……本当に?一度で覚えたのか……」
一瞬だったけれど、あんなとげとげしたもの、忘れようがない。
イネスは、魔術は魂のかたち、と言っていた。自分の魂をあの形にすれば、魔術を使えるのだろうか。
「覚えはしましたけれど……あの形にするにはどうすれば?」
「感覚をつかむしかない。まずはさっきと同じように、わたしが導いてやる」
また身を任せればいいだけなら、と安心した矢先にひとつ気づいた。……微かに、イネスの唇が震えている。笑いかなにかを抑えているように。
嫌な予感がしたけれど、今更やめるとは言えずに手を繋ぎ直す。
またイネスの魔素が私のそれと絡み合い、今度は──私の中に入ってくる。
「ひっ!?」
稲妻が走るような強い刺激に、思わず変な声が出た。遅れてむず痒さに似た感覚がじわりと広がる。
イネスの──他人の魂に触れる感触と、他人から自分の魂に触れられる感覚は全くの別物だった。
「びっくりしたか?」
彼女はまるで、悪戯で友達の脇腹をくすぐっているみたいな態度をしている。
けれど……これは、明らかに別の種類の刺激だ。友人との間にあっていい類のものではない。
私にも、覚えがないわけではない。まったく未知の感覚というわけではなかった。
さっき見た、微かに紅潮したイネスの頬を思い出す。彼女もこんな感覚を抱えたまま私を導いていたの?
導いて──私の手を絡めとって──自分の奥底に導く──
記憶を辿ってゆくと、さっきのやり取りがこの感覚を前提とした文脈に再解釈されていって叫び出しそうになる。
私はなにを……この魔女ととんでもないことをしているのでは?
「こら、動くな。危ないから」
無意識に立ち上がろうとしていたところを、繋いだままの手に引き戻される。
危ない……専門家にそう言われると萎縮してしまうけれど、魔女に魂を弄り回されて変な気分になること以上に危険なことなんてあるの?
「ちょっと……これは、困ります」
「くすぐったいだけだろう。こうしないと感覚が掴めないのは本当だ」
イネスは目を細めて笑う。その笑顔は屈託のないもので、無邪気ですらある。時折中年の貴族から容姿への賛辞とともに向けられる、生理的な不快感を覚えるような──そういう含みのある笑みではなかった。
私とイネスの感覚がズレていて、本当にくすぐったいだけだと思っているのだろうか。それとも、彼女はこの感覚の意味を知らないのだろうか。
その乖離を、苛立たしく感じた。
「もう……わかりました。続けてください」
彼女の言葉が嘘でも本当でも、もうあまり追及したくない。この話を続けること自体が恥ずかしかった。
言うと、再びイネスと私の魔素がうごめき始める。
内側に入られた瞬間のような強烈な刺激ではないけれど、じわじわと追い詰められるように高まってゆく感覚に息が詰まる。
さっきイネスの魂に触れたときは、ただ魔素を魂全体に広げてゆくだけだったけれど、今度は魔素が私の魂そのものを変形させてゆくのだ。
おそらくは、魔術を使うためのかたちに。
押し広げ、凹ませ、摘み、ひねる。
そのことごとくが……あの感覚を生じさせる。呼吸が制御できなくなる。
イネスの魂に様々な感触があったように、私の魂にも弱いところとそうでないところがあった。
ふたり分の触手が弱いところに触れるたび、狭まった喉を鋭い呼気がかきわけて高い声が出そうになる。私はずっと片手で口を押さえていた。
イネスの手が止まる頃には、焼けそうなほど頬が熱くなっていた。その熱に浮かされて、思考に霞がかかる。
「……大丈夫か?」
「……魔術を使うたびにこうなるんですか……?」
「い、いや……自分で魔術を編む分には何も感じない。他人に触れられたときだけだ」
ぼんやりとイネスを見上げると、今になって彼女は狼狽し始めた。遅い、と言ってやりたくなる。
彼女はこの感覚の意味を理解したうえでやっているわけではない。それがますます腹立たしい。
何もかも織り込み済みで、そういう下心がある方がまだ良い──そんな狂った考えが脳裏を過ぎり、それを噛み潰すように歯を食いしばった。
……どうして私だけこんな余計なことを考えなくちゃいけないの?
「もう完成したから……大丈夫だ。後は起動するだけだ」
「そう……」
口を開くのも億劫になってきた。
重い腕を伸ばして、さっきのイネスを真似て杯を狙う。
「魔術は心のかたち──感情の表象だ。この魔術の苗床となった感情は"拒絶"。何かを拒むイメージを保ち続けろ」
「……はい……」
拒絶。
家にいたくなくてここに来たけれど、もうそれは薄れていた。
今はただ──イネスへの怒りが勝っていた。早くこの場を切り上げたい。
自分が何故こんなに怒っているのかもわからない。ただ、確かな実在感を持つ想いだった。
「行くぞ。1、2、3……!」
彼女の掛け声に合わせて指を弾く。
胸が締め付けられるような感覚と同時に、中指と親指の隙間から色のない何かが放たれ、杯に当たった。
杯は片脚を上げるように傾いて──かたん、と音を立てて倒れる。
指が杯に触れた感覚はなかった。だから、たぶん成功したのだろう。
「うん……上手くいったぞ。筋がいい」
「そうですか……」
イネスは珍しく、取り繕うような口調だ。私の口数が少ないことには気づいているのだろう。
ただ、何故そうなっているのかは理解していない。それが問題だった。
私は大きく、けれど静かに深呼吸をした。まだ繋いだままだったイネスの手を、やんわりと放す。
「今日はありがとうございました。これでお暇いたします」
「もう……帰るのか?大丈夫か?顔が真っ赤だが、そんなにくすぐったかったのか……」
「平気です。お気遣いなく」
杯を立て直し、バスケットを拾い上げて席を立つ。
パンの香りは、もうしなかった。
「……また、来るか?」
「ええ」
こんな態度は良くない。
イネスはわかっていないのだから仕方ないのではないか。
魂の内側で自分をたしなめる声を黙殺し、私は家を出た。




