第4話 愛しています
1
私は恵まれている。そう信じて育った。
私の家は町に並ぶどの家よりも大きく、着せられる服は町を歩くどの少女よりも豪奢。
使用人たちは恭しく私に接し、父はいつも優しい笑顔で私への愛を口にする。
「お前は我が家の宝だ」
「お前が立派な淑女になる頃には、きっと相応しい良縁を見つけてやるからな」
母だけは口数が少なく、どこか私を避けていた。だから私は母に褒められるために──父の愛情に応えるために、立派な跡継ぎになろうと努力した。
剣術に馬術、聖典の読解。「普通はもっと大きくなってからお勉強を始めるものですよ」と教師に何度も言われたことを覚えている。
7つの頃、弟が生まれた。"手に入れる者" "勝利する者"と名付けられた弟──ナエル。
彼が生まれて、私は跡継ぎにはなれなくなった。領地は男子が継ぐのが習わしだと、父はそう言った。
「だからもう、無理をして頑張る必要はないんだぞ」
「これからは女らしくゆっくり花嫁修業をすればいい」
無理をしてなんかいなかった。父と母に褒められるためなら、苦に思うことはなかった。
ただ──それが無意味になったことが、ただ辛かった。
梯子を外されて落ち込んでいた私に、ある日母が贈り物をくれた。それが、母から私への最初で最後の贈り物。
飾りのない、けれど美しく艶めく金の指輪。
私の指にはまだ大きいそれは、革紐に通して簡素なペンダントにしてあった。
「それはお父様に見せてはいけないわ」
贈り物について母が言ったことはそれだけだった。
それでも私は、今までの全てが報われたような気がした。
贈り物の意味を、ずいぶんたくさん考えた。私からいつか愛する相手に渡せばいいのか、それとも私自身が指を通すものなのか。
ただ、私に対する愛の証だということは疑わなかった。
「ありがとう。お母さま」
その日から、私は父に与えられた新たな役割を果たすために全力を尽くすようになる。
ウェルディエ家の娘として社交界に恥じぬ淑女となり、やがて家に最良の利益をもたらす殿方と結ばれること。
両親からの愛に報いるために。
算術を学び。舞踏を学び。3つの新しい言語と2つの古の言語を学び。聖典と詩と戯曲を学び。作法を学んだ。
靴擦れで血がにじむまで。聖人たちを夢に見るまで。
それは教師や両親に課せられたものではなく、私自身が課した努力だった。
楽しくはなかった。やり甲斐を感じたこともない。ただ、それが両親の喜びに繋がると思っていた。
私は12になった。近隣との小規模な舞踏会に顔を出すようになり、貴族の現実──血統と権力が絡み合った泥沼もいくらか理解する年頃。
それでも自分の家だけは、両親だけは別だと思っていた。
ある日、舞踏の練習を終えて庭に出たときだった。額の汗を秋風が撫で、心地よく冷やしたのを覚えている。
ハーブ畑のそばで、新人の女中と庭師見習いが話しているのを見た。私の目には、ふたりが怠けているように見えたのだ。
使用人の規律を正すのも婦人の仕事。その頃の私はそう思っていた。何にでも首を突っ込むのが最善とは限らないことは、まだ理解していなかった。
「お嬢様は?部屋にいないなら掃除しちゃいたいんだけど」
「さっき見たときはまだ舞踏の練習中だったよ。ありゃしばらく続くな」
「そう。ほんと、熱心よね」
なんだ。仕事の話ならいいわ。
熱心と言われて気分を良くした私は、彼らを許して立ち去ろうとした。
「ああ……教師と話してるのを聞いたけどさ、『お父様のご期待に応えなきゃ』だってよ。……哀れでなんねえよ」
「ちょっと。聞かれたらまずいんじゃないの」
「大丈夫さ。本人以外はみんな知ってる話だろ」
不穏な言葉に足を止めた。確かに、さっき舞踏教師に言った覚えのある言葉だった。
それが、哀れ?
生垣のそばで身をかがめ、耳を澄ませる。
「あれさ……ここの侍女だったんだって?」
「母親か?そうだよ。奥様が連れてきた奴な」
侍女が……母親?
誰の母親?
私はそんな話を聞いたことがない。
「娘の扱いもだけど、母親に対しても酷え話だよ。手篭めにする勢いで迫って、孕んだら捨てるってのはなぁ」
「捨てたんならなんで娘がこの家にいるのよ?」
「奥様は石女だって占い師に言われたらしくてさ。慌てて拾ってきたんだよ」
誰がそんなことを?
この家に娘はひとりしかいない。
私だ。
でも私は──私は酷い扱いなんて受けていない。
私は恵まれている。愛されている。
「でも、ナエル様は奥様の子でしょ」
「ああ。ま、所詮占いだからな。そんなもん信じて拾ってきたのが間違いだった……つってもまた捨てるわけにはいかないし、どこぞへ嫁に出すには使える」
ふたりの会話は、私の自己弁護を否定するかのような方向へ流れる。
「傍から見たら露骨よねえ」
「普通、女でも長子が領地を継ぐもんだからな。それを弟が生まれた途端に……」
そうだ。「女は跡継ぎになれない」なんて嘘だと、私は知っていた。
舞踏会で聞く話では、女でも、弟がいても跡継ぎになるための教育を受けている人がいる。
気づいていないふりをしていた。
「見たことあるだろ?旦那様がお嬢様に接するときのあの顔……四六時中あんな顔してる方がおかしい……」
それだけじゃない。
私の前でだけいつも笑顔でいる父の不自然さにも。それと対称的に、私の目を見ない母の冷たさにも。使用人たちに話しかけたときの、媚びへつらった笑みを見せる直前の一瞬の硬直にも。
私はずっと、気づいていた。
この瞬間に、言い訳ができなくなっただけだ。
「奥様の方……わかりやす……」
ああ、そうか。
私はそこで、母から指輪を贈られた意味を悟った。私の指に合わないそれが、元は誰のために作られたものだったのかも。
これは、私に押された烙印。「お前は私の娘ではない」と、私との間に母が引いた一線。
決壊したのは、不思議と母のことを考えた瞬間だった。母よりも、父の方が私を愛していると思っていたのに。
口を抑えて、喉の奥からあふれ出そうとする嗚咽を押しとどめる。
部屋には戻れない。女中が掃除しに来るから。
声を聞かれてはならない。立ち聞きしていたと知られれば、この家の何かが壊れてしまうから。
泣き喚きながら部屋のベッドへ飛び込もうとする自分の他に、そう計算する冷静な自分がいる。吹き荒れる嵐の中心に、不思議と凪いでいるところがあるように。
誰にも泣いていることを知られてはならない。そう思ったのは──感情を隠すことを知ったのは、そのときが初めてだった。
2
「だから……私が継ぐものはありません。ただ、すべきことは与えられていますけれど」
話しすぎた、と気づくにはあまりにも遅かった。誰にも言っていないことだし、普通に考えれば数回会っただけの相手に打ち明けるようなことじゃない。
イネスと同じように、すべきことは与えられているとか継ぐものはないとか一言でまとめればよかったものを、どうしてこうも長話をしてしまったのか……
「その、指輪は大切にしているのか」
「いえ……一応手元には置いていますけれど、貰った理由が理由ですから」
今度は余計なことを言わないように、ちゃんと嘘をついた。
本当は、何よりも大切にしている。これは私にとって、唯一の可能性だからだ。
本当に私を愛してくれている人がいること。その可能性。
「寂しいんだな」
それを見抜いたように一言、子どもじみた言葉で括られる。
普段なら、そんなことはないと内心むきになって否定したかもしれない。あの人たちには何も期待していないのだから、もう寂しさなんて枯れ果てたと。今はただ何も感じず、惰性で生きているだけだと。
けれど、どこか腑に落ちた。彼女の声に、嘲笑や同情の色も、社交辞令の上滑りした噛み合わなさもなかったからかもしれない。ただそこにあるものとして、私の感情を形容しているだけだ。
「そうかもしれません」
だから私は肯定する。ついさっきまで誰よりも──父や貴族たちよりも恐れていた相手に、誰よりも正直な言葉を語っている自分が不思議だった。
指輪のことも、嘘をつかなくてもよかったかもしれない。
「なら、また来てもいい」
こちらを見ずに、彼女は言う。
以前は”来い”と言っておいて、今度は”来てもいい”だ。けれど、その傍若無人さと無軌道さが、さほど嫌いではなくなってきている。
本当に籠絡されているのかもしれない、と仄かに思った。




