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いとけなき魔女と噓つき少女  作者: 森須 樹


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第3話 大切じゃない 後編

2


 霧のない森は初めてだ。

 前方を速足で歩く黒い狼を除いて生き物の姿はなく、静かだった。

 

 狼は、私が見失わない程度の距離を空けて歩いている。こちらが走り出せば狼も駆け出し、草に足を取られて速度を落とせば狼も悠々とした歩みに戻る。まるでからかわれているようだ。

 走っては歩き、走っては歩く。そのサイクルを繰り返す。

 そうこうしているうちに、森に入ってからそれなりの距離を移動していた。こんなに息を荒らげて走っていると、また何かに襲われるのではないかと心配になる。

 

 けれど、もう狼に襲われることはない。イネスはそう言っていた。

 イネス……魔女の言葉を信じるなんて、心底馬鹿げている。でも──彼女は嘘をつかない。つく必要がない。そういう直感があった。

 そうか。あの黒い狼に襲われなかったのは、彼女のおかげ?いや、それでも指輪を盗んでいく意味はわからないけれど。

 

 そんなことを考えていると、突然前方の狼が駆け出した。"歩き"のサイクルにあった私は置き去りにされる。


「ちょっと……待って!」


 狼に言葉が通じるはずもなく、黒い影は木々の合間に消えていった。

 どうしよう、と口にする気力もなく途方に暮れる。狼の行方どころか、帰り道すらわからない。

 考えてみれば、もし狼に追いついて何かこう……首尾よく指輪を取り戻せたとしても、帰り道に困ることは変わらないのだった。そんなことも想像できないほど夢中になっていた、ということだろうか。


 ため息をつく。

 ここまでの道中、何度か方向を変えた気がする。ただ振り向いて真っ直ぐ歩けば帰れる、とはいかないだろう。

 とにかく、先に進んでみるしかない。どこかで知っている地形を見つけられるかもしれない。


「ここって……」


 10分ほど歩いたところで、知っている砂利道に出た。というのも、道端に横たわる岩の形に見覚えがあるからだ。イネスに町へ送ってもらったときに覚えた道だ。

 ここへ出たということは、もう町に帰ることもできるし──イネスの家に行くこともできる。

 ……もしかしたら、彼女に頼めば指輪を見つけてもらえるかもしれない。


 その可能性が見つかった途端、不思議と足取りが軽くなる。"魔女に頼み事"という不穏な発想と裏腹に、ため息でかき消さなければならないほどの嫌悪はなかった。

 けれど……木の間からイネスの家が見えてきたころ、砂利道の真ん中に光るものを見つけた。


「……あっ」

 

 まさかと思って拾い上げると、やはり私の指輪だ。イネスに頼む前に取り戻せてしまった。


 ……これで、もう一度魔女に会うなんて危ない橋を渡らずに済む。最良の結果のはずなのに、どこか拍子抜けした気分になる。

 指輪から土を払って首に掛け、服の中に戻した瞬間。背後に気配を感じて振り向いた。


 魔女──イネスがそこにいた。以前会ったときと変わらない仏頂面……いや、むしろ今日のほうが不機嫌に見える。

 

「……ごきげんよう」


 指輪を見つける前なら用件を伝えればよかったのだけれど、こうなっては挨拶しか言うことがない。これでは、単にイネスに会いに来たと勘違いされかねない。

 それ以上言葉が見つからず、私は俯く。彼女も何も言わないまま数秒の沈黙が流れた。 


 顔を上げると、イネスの姿がない。その代わり、背後に気配を感じた。

 

「服」

「え?──ひゃっ!」

 

 彼女の指が背中をなぞる。その感触は布越しのものではなく、地肌に触れられているとわかった。


 服が破れている。狼を追いかけていたとき、木の枝にでも引っ掛けたのかもしれない。よく見ると、背中だけでなく肩口や袖も破れたりほつれたりしている。

 肩越しに見ると、イネスはどこか気まずそうな顔をしていた。……彼女は表情が読みにくいから、なんとなくそんな気がする、というだけだけれど。

 

「家に来い。(つくろ)ってやる」


 一瞬、どう返事をしたものか戸惑う。

 イネスに仕立て人並の縫製技術があるとも思えない。彼女に繕ってもらっても使用人にはバレそうだけれど、このまま帰るよりマシではある。

 いや……そもそも、無防備に魔女の家に入ること自体がおかしいのではないか。狼を追いかけると決めてから、そのあたりの危機感が薄れている気がする。


 迷っているうちに、彼女はひとりで家に入っていってしまった。このまま何も言わずに帰るのも不躾に感じて、ひとまず後に続くことにする。


「お邪魔いたします」


 家の中は、先日と何も変わっていなかった。

 実際に魔女に会ってみるまで想像していたような、壁に干された薬草や得体の知れない液体が煮える大鍋といったものはない。ごく普通の家だ──そもそも、普通の家というものをあまり見たことがないけれど。

 イネスは食卓の椅子をひとつ引く。


「座れ」

「ありがとうございます」


 椅子を勧められたはいいけれど、服を縫ってもらうのだから座る前に脱がないと。

 細帯を緩めてボタンを外そうとすると、その手をイネスに止められた。


「なにを……している?」

「えっ、縫ってくださるのでは?」

「着たままでいい……いいから座れ」


 鋭くそう言われて、細帯を戻す。さほど窮屈な服ではないので、確かに着たままでも縫うことはできるだろうけれど……針を近づけられるのは不安だ。

 渋々椅子に座ると、イネスは私の横に立った。裁縫道具を持ってきた素振りはない。


 道具は、と尋ねようとした瞬間、肩に不思議な感触が走った。

 見ると、イネスの指が布地をなぞるにつれて、遠くでそよ風が吹くような微かな音と共に──破れた生地が元に戻ってゆく。まるで繊維のひとつひとつが生きていて、互いに手を繋ぐように。

 その光景は現実離れしていて、明らかに不自然で……まさに、夢のようだった。

 そうか。魔女は、服も魔法で直すものなのか。


「……すごい」 


 これが魔法──あるいは魔術。本物を目にしたのは初めてだった。以前死にかけたとき、私の身体で似たことをやったのだろうけれど、何せ気絶していたのだ。

 思わず声を漏らした私を、イネスはどこか誇らしげに一瞥した、ような気がした。


「すごいか」

「え?ええ」

「そうか。先生に教えてもらったんだ」


 彼女の声が弾む。何か……想像と違う雰囲気のやり取りに戸惑った。

 「先生」か。確かに、魔術もきっと誰かから教わるものなのだろう。


 それからはふたりとも何も話さないまま、魔術が働く独特の音だけが耳元を流れた。

 服が直ってゆくのを見ていたかったけれど、イネスの指は肩口を離れて背中に移ってしまっていた。


 他にすることもないので、修繕の邪魔にならない程度に家の中を見回す。

 すると、柱のひとつに目が留まった。柱には切り傷がつけられていて、その隣に数字が書き込まれている。

 今のイネスの身長くらいの高さに"14"と"15"が両方書き込まれていて、それを最後に途絶えていた。

 しばらくその意味がわからず観察していたけれど、ふと思い出す。平民の家では、子どもの成長を記録するためにああいった傷を残すと聞いたことがある。あれもその類だろう。

 ふと、平民の家では──なんて高慢な表現を思い浮かべた自分が可笑しくて、不覚にもすこし頬を緩めてしまった。


「何か面白いか?」


 イネスは私の失敗を見逃さない。

 あわてて表情を消すよりも、このまま演技した方がいいか。笑顔の理由を取り繕いつつ、気になったことを訊いてみることにした。


「ごめんなさい。あれは、誰の身長?なんだか可愛らしくて」


 家主なのだから彼女のものだと考えるのが自然ではあるけれど、その牧歌的な風習と彼女の雰囲気がどうも結びつきにくい。

 イネスは柱をちらと見て答える。

 

「わたしのだ。15の頃、伸びなくなったことに気づいてやめた」


 やはり、そうなのか。

 だとすると、単純に考えれば彼女は14歳から今まで身長が伸びていないということになる。成長が止まるにはやや早い。

 そもそも彼女は今何歳なのだろう。

 

「失礼だけれど、貴方は今おいくつ?」

「16」

「……私のひとつ下なのね」


 見た目では20代……あるいは魔法で若さを保っているだけで実年齢は老婆、とかだと思っていたのに。

 けれど、それ以上に意外だったのは彼女に「身長を記録する」なんて生活感のある習慣があったことだ。まるで、普通の人間みたいに。

 彼女は元々人里に住んでいて、ここに移り住んだのだろうか。魔術は「先生」に教わったそうだけれど、その人とはここで一緒に暮らしている?でも確か、今ここに住んでいるのは彼女だけらしい。


 当然のことながら、私は彼女について何も知らなかった。それが……なぜだかもどかしい。


「先生って?」


 誤魔化しからも、沈黙を紛らわせる世間話からも一歩進んだ質問。私の会話は大抵がその2種類で、だからこれは未知の一歩だ。

 それを踏み出す先がよりによって魔女というのもおかしいけれど、今もっとも興味を引かれている相手ではある。


「先生は……先生だ。昔一緒に暮らしていて……今はもういない」

「……ごめんなさい」


 イネスの声は硬い。

 予想外だった、という顔を作る。けれど本当は薄々そんな気がしていた。

 それでも正面から尋ねたのは、それが彼女の核心だと思ったからだ。


「だがわたしは先生の跡を継いだ。すべきことを与えられた」


 イネスは抗弁するよう早口で言う。

 すべきこと。

 それは、かつて私が求めたものと同じだった。

 彼女はそれを手に入れたのだ。少なくとも、そう思っている。


「お前はどうなんだ?誰と生きている?何を継ぐ?」

「どうしてそんなことを……」

「お前のことが知りたい」


 相変わらず……何か誤解しそうなほど率直だ。飾り気はないけれど、その分迂遠さもない。


 彼女の私に対する興味が、どんな形なのかはわからない。魔術師ならぬ身の弱者が何を頼りに生きているのかを知りたいのか、それとも……

 ただ、私のことを心から知りたがっていることは確かだと思う。それは私の人生において、とても稀有なことだった。


 だから私は、口を開く。

 何年ぶりだろうか。その場をしのぐための嘘ではなく、ありのままを伝えるための言葉を紡ぐ。

 

「私は──」

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