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いとけなき魔女と噓つき少女  作者: 森須 樹


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3/23

第3話 大切じゃない 前編

1


 軋む扉を開くと、(かび)臭い空気が鼻先に漂ってきた。

 この書庫もその蔵書も古く、増築に伴って陽が当たらなくなったので、手入れが後回しになりがちなこともあって清潔さには限界がある。


 ただ、私はここが好きだった。


 書物は嘘をつかないから。書かれている内容が真実である保証はないけれど、少なくとも私に向けられた嘘ではないか、はじめから嘘だとわかっている。

 私はどちらかといえば後者──嘘だとわかっている方が好きで、だから物語を好んだ。


 けれど、今日の目当ては物語の類ではない。魔女や魔術に関する書物を探していた。

 興味を持った理由は自分でも判然としないけれど、先日の舞踏会で伯爵に言われたことが気がかりなのかもしれない。


「魔法、魔術師、魔女狩り、妖魔憑き、アルケイゼル、大帽子の賢者……」


 知っている単語を呟きつつカンテラの光を当てながら、それらしい題名の背表紙を探す。

 そうして本棚の間を歩いているうちに、整然と詰め込まれた本の中に数冊分まとまった隙間があることに気づいた。

 隙間の隣には、『魔術概論』という題名の本があった。ここに魔術に関する本が集まっていたとすると、抜けている分は父が持ち出したのかもしれない。何しろ魔石採掘事業を始めようとしているのだから。

 とにかく、今はこの1冊しかないらしい。私はそれを抜き出し、書庫を出た。


 庭園で読もうと廊下を歩いていると、角から人の影が覗いた。ぶつからないように足を止める。

 淑女として洗練された足取りで現れたのは、母だった。

 

「おはようございます、お母様」

「ええ」


 今日初めての挨拶。父が領外に出ている今日のような日は、母と朝食をとることは少なかった。

 すれ違おうとした母が、私を見てぴくりと眉を動かした。


「それ」


 母は私の胸元を指さす。そこには、革紐を通した指輪を下げていた。


「ごめんなさい」


 指輪を服の中に隠す。近頃は滅多に隠し忘れることはないけれど、幼い頃はよく指摘されていた。


 短く乾いた会話を終え、母と別れた。

 大広間を抜けて、庭園に出る。スミレの花壇に水をやる庭師の深いお辞儀に応えてから、ほど近いベンチに腰掛けた。

 空は澄み渡る秋晴れ。

 ひとりでいることを好む私にとって、人気(ひとけ)の少ない庭園で快適に過ごせる季節はこの家で得られる最大の恵みだ。


 ずっしりと重い本を膝に置いて、革張りの表紙を開いた。中表紙には、題名に添えて聞き覚えのない名が綴られている。肩書きによれば、アルケイゼル魔術大学の教師らしい。

 序文には、『アルケイゼル領主の要請により大学外の人間に向けて書いた』という旨が書かれていた。言外に嫌々書いたと伝えたいようだ。

 その後30分ほど本文を読み進めて──限界が来た。

 魔術に関する専門用語が当然のように頻出し、特に説明もされない。父がこの本だけを置き去りにした理由がわかった気がする。 

 かろうじて理解できたのは、どうも"魔法"と"魔術"は明確に区別されているらしいということだけだった。


「はあ……」

 

 ため息をついて本を閉じ、また空を仰いだ。 


 庭師が遠くへ行ったことを確かめてから、指輪を服の中から手繰り寄せる。

 すこしくすんでいた。革紐を首から外してハンカチで優しく磨くと、艶のある金の輝きが帰ってくる。


 私に関心を持たない母が、ただひとつ私にくれた贈り物がこの指輪。

 これを贈られた理由も、どういう出処の品なのかも、ぼんやりと察しはついていた。けれどそれを母が語ることはないし、私から訊くこともない。

 ただ、誰にも……父には特に見せてはいけない。それがこの指輪について、唯一母が口にしたことだった。


 太陽にかざすようにして指輪を眺めていた視線を庭園に戻したとき──視界に、何かおかしなものが映った。

 黒い塊のようなもの。動いて──近づいている。


「ひっ……」


 ()()の正体に気づいた瞬間、勝手に喉の奥から引きつるような声が出た。


 狼だ。


 不自然なほどに黒いその毛並みは、暖かな陽が差すのどかな昼にあってひどく浮いていた。

 取り落とした指輪が庭園の石畳のうえに転がる。混乱した私は無意味にベンチのうえに登り、近づく狼をうろたえながら眺めることしかできない。

 狼はこちらを見てはいるけれど、落ち着いた様子でゆっくりと歩いてきている。"襲いかかってくる"と言うには悠然とした歩み。


 その速度のまま、ついにベンチの足元まで来てしまった。

 背を向けて逃げるのは怖いし、ゆっくりと後ずさりしようにもベンチの背もたれが邪魔だ。

 相手は鼻を鳴らして私を見上げたあと、落ちた指輪の匂いを嗅ぎ──


 (くわ)えて走り去った。


「なん……なんで!?」


 肉食の獣が目の前の私を肉としても脅威としても見ることなくただ近づいてきて、食べられもしない指輪だけを盗んでいく不条理に、思わず叫ぶ。


 狼は私からすこし離れただけで、歩調を緩める。こちらを一度振り向くと、庭園のフェンスを跳び越えて──森の中へ入った。

 あの、魔女のいる森へ。


 私はフェンスに軽く手をつき、狼の去った方向を窺う。まだ、黒い影は見えている。

 誰かに知らせて狼を追いかけてもらう──いえ、ダメ。盗られたのが指輪だということは、誰にも明かせない。

 ひとりで、行くしかない?

 あの森の中に?


 つい先日のことを思い出して、背筋に冷たいものが走る。あの無機質な眼、牙が首の奥深くまで突き刺さる感覚──

 あれからもう一週間あまりが経っているのに、ついさっき起きたことのように思い出せる。

 それでも……あの指輪を諦めることはできない。あれは、私にとって唯一の……


 静かに、そばに誰かがいても気付かれないくらい静かにため息をつく。

 私はただそうするだけで、どんなに嫌なことがあっても身体を前に進められるようにできている。そうできるように、自分を造り替えてきた。


 手に力を込めて、フェンスを乗り越える。

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