第12話 何も失わない 前編
1
硝子窓越しに、眼下に広がる城下町を眺める。
その広大さだけでなく、こんな客室の窓にまで硝子が使われていること自体も、この街の豊かさを示している。
ガルニエ領、領都カステルナク。
およそ100年の時間をかけて堅牢な城塞として成長してきたこの都市は、先代領主の時代には隣領との境界にあった。領都がそんな立地にあるのは、およそ普通のことではない。当時のガルニエ家は、それほどまでに追い込まれていたということだ。
その境界を動かしたのが当代の領主、アルベールの父だ。他国から次々と技師を招聘し、先進的な兵器と奇策を用いて領土を奪い返していったという。
その影響力から、遠からず侯爵へ昇叙されるという噂もある。だからこそ──わからないのだ。
長子ではないとはいえ、嫡子をウェルディエのような弱小男爵家と結ばせるなど。
私は、その真意を確かめにこの街へ来た。
父と共にか、あるいはひとりか。いずれにせよ従士が護衛につくとして、そのどちらかだと思っていたけれど、その予想は裏切られた。
「あの、申し訳ございません。このような遠方までお付き合いいただいて」
私は振り返って言う。
侍女の荷解きを見守っているのは、私の母。
本来なら、彼女が自分から何か行動を起こすことは少ない。父のすることにも、私のすることにも干渉しない。弟が家を出てからはさらに口数が減った。
いつも窓辺にいて、物憂げにどこか遠くを見ている。それが、私が母を思い浮かべるときの姿だった。
それなのに、今回はどういうわけか母のほうから同行を申し出てきたのだ。
「構わないわ。それより、舞踏会の準備があるでしょう」
母は澄ました顔で答える。その表情からは、いつも通り何も読み取れない。
いったい、どういうつもりなのか。ガルニエ伯の真意を知る前から、頭の中を占める謎がひとつ増えた気分だ。
2
母と並んで、舞踏室の扉をくぐる。普段ならアルベールと同行するのだけれど、執政いわく彼は不在だそう。
彼がイネスの魔法で怪我を負った事件……あのとき嘘をついて彼を陥れて以来一度も話していないのだから、その方が気が楽ではあった。
舞踏室に集まった人数は、ウェルディエの全力を投じたあの舞踏会よりも多かった。
ただ、やはり貴族ばかりで商人の姿は見えない。あれはこの国の舞踏会としては異例だったのだろう。
末席に近い椅子に腰掛けると、人影にシャンデリアの光が遮られた。
顔を上げると──
「なぜ来た?」
「……え?」
冷たい声。鋭い眼光も相まって、射貫かれるように感じた。
ガルニエ伯だ。
「……閣下とお話したいことがありましたので。それと、アルベール様のお見舞いも兼ねてと。不躾だったでしょうか」
問われたことに答えても、彼は眉ひとつ動かさない。
歓迎は期待していなかったけれど、こうも露骨に不興を示されるとも思っていなかった。
「私は構わん。だが、無用に恥を晒すだけだぞ」
伯爵は、それだけ言うと顔を背けて去ってゆく。
……恥を晒す?
意味はわからないけれど、嫌な予感はする。良いことのはずがない。
思案していると、今度は隣の席から声をかけられる。
「お舅様に叱られた?結婚前からそんなことで大丈夫なのかしら」
黒髪が波打つ少女。かつて友人だったカルラだ。最後に会ったのは、ウェルディエでの舞踏会だっただろうか。
相変わらず、つまらなさそうな表情を浮かべている。それでも向こうから話しかけてくる理由がわからない。
次々と、面倒事ばかり──表に出そうになる感情を抑えて微笑の仮面を張り付ける。
「ご心配ありがとう」
ただそれだけ返す。普段のように気を遣って場を繋ぐ気にはなれなかった。
「あんた──」
眉間に皺を寄せたカルラが口を開いた瞬間、談笑でざわめいていた舞踏室が、しん、と静まる。
何事かと辺りを見回すと、皆の視線は舞踏室の中央、そこに立つガルニエ伯に集まっていた。
黙って、立っている。それだけでこの部屋にいる全員が口をつぐんだのだ。
彼にはそうさせる何かが──そこにいるだけで人目を惹く圧力がある。
皆が黙って耳を傾けるのを待っていたように、それが当然であるかのように彼は口を開く。
「まずは、皆様方に感謝を。遠路はるばるこの場へお集まりいただいたのは、我が国の未来についてお話するためでもある」
伯爵はそこで、私たちに目配せする。幾人かの貴族もつられてこちらを見た。
「このような物言いで、どこぞの男爵を思い起こされた方もおられるだろうが……私の話も、同じく魔石についてだ」
当事者である私たちが忘れるはずもない。あの舞踏会で、父が挨拶をしたときの言葉だ。
この場には、あのときと同じ顔ぶれも多い。彼らに向けた言葉だろう。
「教皇聖下は魔術大学に住まう魔術師を黙認しておられる。それは大学を率いる"大帽子の賢者"への信頼故であろう。なれば、信徒たる我々もまた大学を信じねばなるまい」
伯爵はそこで言葉を切ると、懐から青く光るものを取り出した。
活性状態の魔石。適切に切り出し加工しなければ、あの光は失われる。魔素を溜め込む力も同様に。
「現在、大学が外部との交流においてもっとも推しているのは魔石加工技術だ。確かに、かの技術は西方全体を大きく発展させる可能性を秘めている」
そうだ──けれど、ガルニエ伯はそれを「神に背く」といって否定していたはずだ。
私にだけ囁く形で、だけれど。
「元より、『草も水も、獣も石も、すべて神の恵みである』……魔石もまた、大いに活用すべきであろう」
諳んじたのは、聖典の一節だ。
魔石も神が与えた世界の一部なのだから、利用しても背教とはいえない……そう正当化するつもりらしい。
いつの間に考えを変えたのか、それとも……最初からそのつもりだったのだろうか。
「しかし、それは聖下が認めた者が扱う場合に限られる。大学の監督下にない魔術師、すなわち魔女と通じる者が扱うことなど、あってはならない」
彼が話をどこへ持ってゆこうとしているのか──察してしまった。
刃物でなぞられたように、背筋が冷たくざわめく。
そして。
やはり伯爵は、私を指差した。
「そう。エステル・ド・ウェルディエ嬢、君のことだ」
舞踏室中のありとあらゆる目が、一斉に私へと向けられる。絡みつく視線に首を締め付けられたかのように、呼吸が浅くなる。
バレていた?
やはり、前回の舞踏会で釘を刺されたときから?
どうして?
「君はウェルディエの森に棲む魔女と通じている。今後魔石採掘を行う貴族の娘でありながら──否、あるいは因果が逆か?魔女に魔石を捧げるために父親を唆したのか?」
それは──まずい。そう思われるのはまずい。それなのに喉が引き攣って何の声も出ない。
違う、と今では言い切れなくなってしまっている。
魔石採掘を発案したのは父だ。けれど私は、それをイネスのために掌握しようとしている。
周囲から注がれる数多の視線。
いくつかは、伯爵の言をそのまま信じた怒りや蔑みの目。けれどほとんどは、違った。
哀れみの目。
屠殺を控えた家畜を見る目だ。
「魔女、妖魔憑き……未だ蔑称で呼ばれる者には、それなりの理由がある。この期に及んで大学に身を置くでもなく、自らを野に放ったままでいる魔術師など、神にまつろわぬ者に他ならない」
どうしよう。
これまで貴族社会で生きてきて、真意を表面に出さない嫌味や格差を鼻にかけた物言い──そういう肌の下に隠した悪意には慣れたつもりでいた。
けれど、大勢の前で剥き出しの敵意をぶつけられたのはこれが初めてだった。
「魔石は扱うに相応しい者の手になければならない。このような事実のもとでは、ウェルディエは──」
何事かを語り続ける伯爵の声が遠くなる。
思考は具体的な対処法を結実させないまま霞んでゆき、私はただ無意味に、ドレスを握りしめる自分の拳を見ていた。
「──あまりにも無礼ではありませんか!」
唐突に、甲高い声と激しい物音がその霞を破った。
反射的に隣を見ると、母が椅子を蹴立てて立ち上がっていた。
私に注がれていた皆の視線が、今度は母に集まる。
「ご子息とエステルの縁談を持ちかけたのは貴方です。何の理由があって義理の娘を魔女呼ばわりなさるのですか!」
伯爵の告発よりも、ずっと驚いた。
うわずった声、吊り上がった眉、震える唇……どれも私が持つ母の印象とまるで違う。
感情的すぎる。あの人はこれほど私に──いや、何事にも執着する人ではない。
普通の母親なら、確かに激怒してもおかしくない状況だけれど。
「お怒りはごもっともだが、ご婦人。それは貴女の娘に向けるべきだ」
「いいえ、貴方に言わせていただきます。娘をそのように育てた覚えはありません!」
──普通の母親なら。
そうか。
彼女は、普通の母親じゃない。この人に「育てられた」覚えなんてない。だから気づいた。
これは演技だ。誘導だ。
母は私を誘っている。"普通の娘"のように振る舞えと。
「お母様、いけません」
私は立ち上がり、そっと母の腕に手を添えた。
静かに、それでいて周囲には聞こえるように諌める。彼女の意図に気づくと、不思議と動悸は収まっていた。
隣に役者がいる。目の前に騙すべき観衆がいる。
ここは、いつもと変わらない私の舞台だ。
「どうか落ち着いて。私のことはよいのです。きっと何かの誤解ですから……」
不安げに、けれど穏やかに。健気に。同情を引くように。
宥める私を、母は血走った目で睨む。普段の彼女を知らなければ、本気で怒り狂っているように見えただろう。
やがてその目は虚ろになり、母は胸を手で抑える。息は浅く激しく、「過度の興奮で体調を害した」ことが傍目にもわかる仕草だった。
退場しろ、ということだろう。
「お母様、しっかり……!お部屋へ戻りましょう」
私は誰にともなく一礼し、母を支えながら舞踏室を出る。
伯爵は、私たちを止めなかった。
3
案の定、母の過呼吸は客室の扉を閉じた途端に収まった。
何もかも演技だったということだ。
母は客室で待っていた侍女たちをぞんざいに外へ追い払い、窓際の椅子に腰掛けた。気まずい思いをしつつ、私もその対面に座る。
外はまだ、微かに明るい。ほんの宵の口に舞踏会を抜け出してきたことになる。
「あの……ありがとうございます。でも、どうして?」
「あなたが直接抗弁すれば角が立つでしょう。伯爵と話したいのではなかったの?」
確かに、母の狼狽を見て同情する人もいただろうし、それを制した私の株も、黙っていたり自己弁護をするよりは下がらなかったはずだ。
「ありがとう、ございます」
ただ、私が訊きたかったのは意図ではない。なぜ母が私などのために道化役を買って出たのか、だった。けれど……今は、感謝を述べた。
「伯爵の告発、あれは嘘ではないでしょう」
母は静かに、けれど厳然と言い当てる。
……そう、なるだろうとは思っていた。
私の反応は、あまりにも鈍すぎた。怒り狂う母を見た貴族たちは、その印象で私の態度を忘れてくれたかもしれない。
しかし、冷静に見れば図星を突かれた故だということは明らかだった。誰よりも冷静に、あの場での最適解を導き出した彼女が気づかないはずはない。
「……はい。申し訳ございません」
心から母に謝るのは、久しぶりだった。イネスと出会うまで、私は模範的な淑女でいたから。
母はただ、窓の外を見ている。
「他所に恋人がいることはわかっていたわ」
アルベールの怪我について伯爵に弁明したとき、彼女は気づいているような口ぶりを見せていた。
考えてみれば、それも無理はない。四六時中家に籠っていた私が、突然外出を繰り返すようになったのだから。
気づかないのは、家を空けがちな父だけだろう。
「女なのね」
母は淡々と続ける。
同性との密通という罪悪への嫌悪を、つゆほども見せずに。
「『人の万事は血が決める』。あながち、間違いでもないのかしら」
それは、父が好む言葉だった。
しばしば皮肉めいた言い方で口にするけれど、あの人が内心では本気でそれを信じていることは想像に難くない。
血が決める。
私が何を、両親から受け継いだというのだろう。
「どういう意味ですか?」
「……いま、指輪は持っている?」
問われるままに、私は旅行用の鞄から指輪を取り出して母に渡した。やや胸元の開いたこのドレスでは、首から下げるわけにはいかない。
母は、すこし骨ばった親指で艶めく金の側面を撫でる。
「これは、私がむかし侍女に贈ったもの」
それは、かつての私の予想を覆す言葉だった。
私の実母のものだという、確信に近い予想。
どこかに私を本当に愛している人がいるかもしれないという、微かな希望。
幼い私をかろうじて生につなぎとめた希望。
そう──不思議に思っていたことがある。この指輪は、金なのだ。かつてウェルディエで豊富に産出されていた銀ではなく。
なにより、あの父が戯れで手篭めにした侍女などに指輪を渡すとは思えない。
「そう……だったのですか」
「貴女の考えていたことは正しいわ。彼女が私の侍女だったというだけ」
どういうことだろう。
そもそも、母──いや、義母が自分の侍女に指輪を贈るという状況自体がよくわからない。
私の考えが正しいということは、その侍女が私の母親……?
「お父様は、お母様の侍女を……?でも、どうしてお母様が侍女などに指輪を?」
「侍女など、ね」
義母は、自嘲するように溜息を混じらせる。
もう暗闇を湛え、彼女の顔だけを映す窓の外を見たまま。
そして、言った。
「なら、貴女はなぜ魔女などを愛しているの?」
何も、言えなかった。
その言葉の意味することを悟って。
それは、私にとってのイネスと、彼女にとっての侍女が、同じ存在であるということ。
私だけが理解できて、私ならばもっと容易に理解できるはずだった事実。
それに思い至った瞬間、弾けるように全てが繋がる。
彼女から一切の幸福を感じないこと。私を避け続けていること。そして、自分が侍女に贈った指輪を、今度は私に贈ったこと。
彼女は、私の顔を見ない。
幼い頃からずっとそうだ。
私がどれだけ彼女の気を引こうとしても。私がどれだけ打ちひしがれていても。
今なら理由がわかる。同じ立場だったら、私だって見たくはないだろう。
痛いほどにその気持ちは理解できるのに、憐れみは欠片ほども湧いては来なかった。
ただ私は──彼女のすべてを諦めた表情に、自分を見た。
もしもイネスが私の侍女だったら。もしもアルベールが、父のような人間だったら。
そう仮定した未来の私が、目の前に座っている。
「……その、侍女は今……」
「死んだわ。あの子が私の侍女だったことなんて誰も知らない、ウェルディエの片隅で。5年前、貴女に指輪を渡す直前にね」
静かに、私は息をつく。
きっとそのとき、義母も死んだのだろう。
かつて。
この家の誰にも愛されていないと知ったばかりの頃、義母に対して思ったことがある。
助けてほしいと。理不尽だと。
けれどいつしか、そんな感情はなくなっていた。
きっと、気づいたからなのだろう。
彼女が私と同じく、死んでいることに。
「あのまま、ふたりで生きていくことなんてできなかったでしょうね。それでも……すべてを壊してしまうことならできたかもしれないわ」
ふたりで生きていくこと。それは今の私たちが願ってやまないものでもある。
令嬢と侍女、令嬢と魔女。どちらがより絶望的な関係だと言えるだろうか。
義母のようにすべてを壊す選択肢が、私に入り込む日が来るのかもしれない。
「私は、それを選ばなかった。何も選ばないことで、飼われ続けることを選んだ」
自分は飼われている。選択を放棄し、誰かの道具として。
その意識が、きっと私たちには共通している。
あの舞踏室で向けられた、家畜を見るような目。彼女は、ずっと自分自身をあの目で見てきたのかもしれない。
「後悔のないように、と……おっしゃいましたね」
アルベールが狼に噛まれた後、私が誰かを庇っていると見抜いたときの言葉だ。
義母は、微かに頷く。
「私は、いつも悔やんでいるから」




