第12話 何も失わない 後編
4
翌朝。
伯爵の侍従に声をかけると、彼は予定を空けているとのことだった。母か、あるいは私のために。
侍従に案内されて執務室に入ると、伯爵は窓辺に置かれた応接用のテーブルについていた。
昨夜見た煌びやかな舞踏室とは裏腹に、テーブルも椅子も豪奢さをひけらかすことのない簡素なものだ。
勧められて伯爵の対面に腰掛けると、その圧力に押し潰されそうになる。
イネスやアルベールと比べてもかなり上背がある彼の威圧感は、正面から向かい合うとひとしおだった。
ここで彼と相対するのは、私しかいない。誰も助けてはくれない。
鉛のような唾を飲み下して伯爵を見据えると、侍従がテーブルにふたり分の杯を置いた。
「昨夜は間が悪かったな。ウェルディエの者が──まして君が出席するとは予想していなかった」
銀の杯には、薄い紅色の液体が満ちていた。若者によく供される、水で割った葡萄酒だろう。
「用件を聞こう」
そう言うと、伯爵は葡萄酒に口をつけながら窓の外に目を遣る。その仕草はごく自然で、人形のように強ばっている私とは対極的だ。
緊張をどうにかほぐそうと、小さく息をつく。
「閣下は以前、魔石採掘そのものを否定するようなことをおっしゃいました。しかし昨夜は公の場で魔石の利用を擁護し、それでいてウェルディエへの不信を口になさった」
努めてゆっくりと、早口にならないように。
けれど弱気を悟られないように、目は逸らさない。
「その真意をお伺いしたいのです」
伯爵は杯を置き、私の目を覗き込む。その目は鋭く、巣穴に潜む小動物を探す獣を想起させる。
「目つきが変わったな。家畜の目ではなくなった」
褒められたのか、と一瞬戸惑う。けれどそれは今まで私を「家畜の目をしている」と思っていたというわけで。
浴びせられた剥き出しの言葉を消化しているうちに、伯爵は続ける──
「ウェルディエは滅ぶ。私が滅ぼす」
絶句した。
冗談のつもりか、そういう人ではない、本気なのか、何故今それを明かすのか、理由は何なのか──瞬時にあらゆる思考が駆け巡り、気が遠くなる。
世間話でもするような雰囲気の伯爵に追随しようと、どうにか声を絞り出す。
「……ご冗談では……」
「ないな。生憎だが」
ため息をつきたくなる。
ならば、少なくともその前提で話を進めなければならない。
「それは……我々を背教者だとお考えだからですか」
「違うな。私はそれほど敬虔ではない」
自らの信仰心を否定するなど、貴族として有り得べからざることだ。それなのに、彼は虫でも払うように平然と言ってのける。
「奇跡は、今や神のものではなくなった。その御業を誰の手でも為せるのなら、どうして敬虔でいられようか」
「奇跡……?」
「聖人が病を癒した、干魃時に雨を降らせた。君もそういった逸話に聞き覚えがあろう。ガルニエ家で雇った魔術師によれば、そういった奇跡と魔術の原理は同一だという」
聖人の起こした奇跡。貴賤を問わず教会の勢力圏に暮らす者ならば、ひとつくらいは聞いたことがあるだろう。
それは文字通りの奇跡でしかなく、私にとっては物語と噂話の中間にあるものだった。
ただ……魔術と同じ現象だというならば、納得はできる。
間近で目にしたイネスの魔術は、外形だけを見ればまさしく奇跡のようだったから。
「まあ、理屈はどうでもよい。問題はそれを容易に再現できることだ」
伯爵は懐から何かを抜き出す。それはやはり、昨夜と同じ魔石だった。
私の拳ほどのそれを目の前に持ち上げると、窓から射し込む陽光が透過してテーブルに青い影を落とす。
「この鉱物が、世界を変えるだろう。一握りの聖職者か魔術師しか扱えなかった超常の力……それを誰もが扱えるようになる。自在に、ではないがな」
「……戦に、使われるのですね」
伯爵はこちらに目を遣ると、どこか満足気に頷く。
奇抜な戦術と兵器で領土を広げてきた彼ならば、あらゆる手法で魔石を兵器化するだろう。
そして、ウェルディエの魔石は掘り尽くされる。
イネスのための魔石が。
「魔石のためならば、何故滅ぼすなどと……!私とアルベール様の婚姻が成されれば、少なからずガルニエの手にも渡ったでしょう。そのための縁談だったのではありませんか」
同じ王に仕える者の領地を攻めるということは、決して容易いことではない。事前の工作がなければ、王からも教会からも相応の責めを受けることになるだろう。
「そのつもりだった。君の父親……あれが、無防備に魔石採掘を発表するような無能でなければ」
無能。
一切の遠慮を省いた率直な評価に鼻白む。
ただ……それを否定する根拠も理由も、私の中には見つからなかった。
「教会への根回しもせずに大学と接触し、軍備も整えぬまま貴族に情報をばら撒く……目先の利益しか見えぬ人間には、魔石は過ぎた代物だ」
ウェルディエでの舞踏会の後、私は父に伯爵からの諫言を報告した。
けれど、父が耳を貸すことはなかった。我々はガルニエの同盟者であり、その利になることを否定するはずがないと。
確かに、魔石は父に扱い切れるものではなかったのかもしれない。
「挙句、その娘は魔女と通じている。ウェルディエを滅ぼして得られる実利も、大義名分も揃ってしまった」
そう──そうだ。私だって無関係ではない。
父がしていることに興味を持たず、だから自分たちの粗を探している者がいることにも気づかなかった。
きっと伯爵は、ウェルディエに密偵を放っていたのだろう。
私は、イネスとの関係自体が罪だとは思っていない。アルベールとの婚約を踏まえてもだ。私はその程度には図太い。
けれど、それがガルニエによる侵攻を招いてしまったのなら。両親や私だけでなく、民にまで危険が及ぶのだとしたら──
「私は……」
「気に病むことはない。君の件がなくとも大勢は変わらぬ。多少、大司教への言い訳が容易くなるだけだ」
そう言って、伯爵は魔石を懐に仕舞う。
もう一度私に向けられた視線は、幾分穏やかに感じられた。
「昨夜の茶番は見事であった。ウェルディエの舵を取るのが君や母君であれば、あるいは別の道があったかもしれない」
「そんなこと、私には──」
「そうだ。できなかった。君が、家畜であったからだ」
彼はどこか諭すような声色で、けれど重い言葉で私の胸を殴打する。
今まで誰に言われたわけでもなかったその言葉を、私は昨夜から引きずっていた。足首に鎖で繋がれた錘のように。
「そう育ったことについて、君に責はない。だが動かし難い事実だ」
彼は、どこまで知っているのだろう。
それとも私の境遇は、知らずとも想像がつくようなありふれたものなのだろうか。
「私が君に全てを明かしたのもそれが理由だ。君が今から何をしようと、私の策には影響しない。全ては既に動き出している」
動き出している策とは……各方面にウェルディエを攻め落とす許可を取ることと、出兵の準備だろう。
だとすれば、確かに私の力が及ぶことはない。ウェルディエにはガルニエ以外の同盟者もいなければ、教会を動かすだけの影響力もないからだ。
この事態を防ぐためには、もっと早くに──父の魔石採掘への取り組み方から変える必要があったのだろう。
だが、全ては遅きに失した。
それは……イネスに出会うまでの私が、家畜であることを選んだから、なのかもしれない。
対価と引き換えに出荷され、あるいは狼に喰らわれる。その運命を知りながら。
「故に、だ。私は君をこの場で殺したりはしない。父親を説得するなり逃げるなり好きにせよ。おそらくは、もう会うこともないだろう」
伯爵は、傲然と私を見下ろす。
自分には力があり、相手にはない。だから警戒する必要がない。敵視する必要がない。
イネスと出会ったばかりの頃、彼女に抱いていた誤解。それをガルニエ伯はそのまま体現していた。
けれどこの部屋に入ったときほどの恐れは、もう無かった。彼から生じうる最悪の展開を、彼の底を見たからだろうか。
私は、席を立って伯爵に一礼する。
「では、好きにいたします。アルベール様によろしくお伝えください」
もうここにいる意味はない。
彼が口に出さなかった──おそらくはまだ知らない手札が、私にはある。侵攻を止めることはできなくとも、まだどこかに為すべきことがあるかもしれない。
私はもう、家畜ではないのだから。
5
「父上、只今戻りました」
執務室に入ると、机についていた父さんが目を上げた。夜闇にぼんやりと浮かぶ蝋燭の火が、彫りの深い顔を照らし出す。
僕は無骨な机の前に立ち、背筋を伸ばした。
「アルベール。息災か」
「はい」
答えると、父さんはまた机に目を戻す。
彼の方も特に変わりはないようなので、家を離れている間ずっと気になっていた疑問をぶつけてみることにした。
「しかし……何故私がベルモン子爵領の視察を?」
舞踏会の数日前、僕は突然子爵領の視察を命じられた。ところが現地に到着しても、特に何か重大なことが起こっていたわけでもない。
僕はただ、突然の訪問に戸惑う子爵の家人から持て成しを受けて帰ってきただけだった。
あの舞踏会にエステルが出席したとも思えないし、別に不満はないが。
「じきにお前の領地となるからだ」
「は……?」
耳を疑った。
昔……幼い頃はベルモン領に足を運んで令嬢と顔を合わせることもあったけれど、今はもうほとんど接点がなかった。それに──
「しかし、私はエステル、いえウェルディエと……」
「ウェルディエとの婚約は破棄する。次の相手は子爵の長子……カルラといったか。あの娘だ」
「っ……お待ちください!いったい何故そのようなことに!」
わけがわからない。急すぎる。
机に身を乗り出して父さんを問い詰める。
もう何年も前から、エステルとの婚姻は決まっていた。僕も父さんも家臣たちもそれを前提に動いてきたはずだ。すこし前までは、式の日取りまで固まっていたのに。
「ウェルディエの娘は魔女と通じている。お前もそう言っていただろう」
「いえ、私は……確かに見たとは言いましたが、エステルと通じているとは……」
「密偵から報告を受けている。確実なことだ」
それは、察してはいたことだった。
魔女を見た自分の記憶と、見ていないというエステル。どちらを疑うべきなのか、僕はずっと迷っていた。
僕の記憶は正しかった。けれど、だとしても──
「僕は……私は、ずっと彼女との婚姻に備えてきました。領地のことも生活のことも全て。それは父上の、貴方の命を果たすためです!それを、そのように軽く……!」
「……あの娘は、お前には御しきれぬぞ」
深く、実感の籠もった言葉だ。そう感じて少したじろぐ。
これまでの事務的な口調とは違う。父さんには、心からそう思う機会があったのだろう。
僕にはエステルを御しきれない。僕の力不足。だからこうなったと。
「怪我を負ったときのことを忘れたか?あれが魔女と通じているならば、私とお前を謀ったということだ。密偵の報告がなければ私とて欺かれていたであろうよ」
「エステルが……僕たちを……」
その記憶が意識に触れた瞬間に、背筋が震えた。
忘れてなどいるはずがない。
喉笛を噛み砕かれるあの痛みを。
僕を見下ろす獣の息遣いを。
渇きを満たすようにエステルを掻き抱く魔女の姿を。
あれを、エステルが……
「魔女と共謀してお前を襲ったのか、あるいは魔女の独断か……いずれにせよ、真実を明かさなかった以上、お前より魔女を選んだのだ」
父さんの言うことは、正しい。いつからか彼女が僕を拒むようになっていることには、気づいていた。それは他に惹かれる者がいるのからかもしれない、とも考えてはいた。
ただ、それが森に棲んでいるような魔法使いだなんて……全てが僕の理解を超えている。
第一、魔女もエステルも女だ。僕との関係と、同性との関係は別だろう。魔女と関係を深めたからといって、僕を拒む理由にはならないはずだ。
その理不尽さに苛立ち、拳をきつく握る。ほとんど治りかけている首の傷が、すこし疼いた。
「納得したのなら、下がれ。休むがいい」
納得などしていない。できるはずがない。けれど、ここで食い下がったところで意味はない。
扉の前で、最後にもう一度机の方を窺う。すると父さんは顔を上げた。
「ああ、それから……あの娘は、既に婚約を破棄されることを察している。お前に『よろしくお伝えください』と。口にしたのはそれだけだ」
それだけか。
これだけ長い時間をかけて積み上げてきた将来が壊れたというのに。
昔の彼女は、そうじゃなかった。
僕との結婚を心から喜んでくれていた。従順で善良だった。敬虔で、人のあるべき幸せを理解していた。
僕は僕の使命を、父さんに任せられた役目を、果たすことができていた。
どこかで、全てが狂った。あるいは狂わされた。
誰のせいだ?
誰が彼女を変えてしまったんだ?




