第11話 愛すべき当家のために 前編
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イネスと共に生きるために、為すべきこと。
ただそばにいるだけならば、単に家を出て森に移り住むだけでもいい。
けれど、それは最後の手段だ。
イネスのために、ウェルディエ家の者でなければできないこともまだある。
だから私は、艶めく樫の扉の前に立っていた。
そこは父の執務室で、入ったことは人生を通しても数えるほどしかない。積極的に父と関わろうとは思わなかったからだ。
けれど──今の私は、そこに踏み入ろうとしていた。
父に自分から話しかけ、自分の望みを伝える。そんな普通の親子なら他愛もないはずの目的を帯びているだけで、目の前の扉がとてつもなく重く、分厚いもののように感じられる。
無意味に扉を見つめる私の脚に、何か柔らかいものが触れた。見ると、黒い毛玉──クルが頭を擦り付けていた。
私はクルを抱き上げる。毛並みも瞳も夜闇のように黒く、ちろりと出した桃色の舌だけが輪郭を目立たせていた。
心なしか、生まれたときよりも大きくなっている気がする。使い魔も成長するのだろうか。
「人と会うから、しばらく隠れていてね」
言うと、クルは黒い霧を残して腕の中から消える。
家人がいるときは現れず、言いつければこうして姿を消す。普通の犬よりよくできた子だと思う。
改めて執務室の扉を見ると……どこか先程よりも、重苦しさは感じなくなっていた。
いつものようにため息をついて、指の背でノックする。
入れ、という短い返事を受けて重い扉を押し開けた。
「エステル……珍しいな」
父は机についていた。手紙に封蝋を押していたところのようだ。
机の正面に立って彼を見ると、皺の寄った目元には、やや疲れが見て取れる。
「お邪魔でしたか?」
「いや、構わないが……どうした?」
今日は、間が悪かったかもしれない。もっと機嫌が良い日を見計らうべきだったかも。
いや……一度退いてしまえば、私はきっと進めなくなる。言い訳を重ねようとする自分を抑えて、切り出した。
「お話したいことがあります。私の将来について」
父は机から目を上げ、訝しげに私を見た。
無理もないことだ。私が自分の将来について口にすることは、今まで一度もなかった。
良いとも、悪いとも。
それは父が決めることであって、私が口を挟む意味はない。娘として何を言おうと、彼は歯牙にもかけないだろう。
一度父に捨てられた私が拾われたのは、そのためだから。
だからこれは、娘から父親への頼みじゃない。
雇い主への交渉だ。
「私とアルベール様の婚姻は、もはやウェルディエに益をもたらしません」
「……なに?」
「彼はこの街に魔女がいるという妄想に取り憑かれています。これから魔石採掘事業に取り組む当家に、そのような方を受け容れるのは危険です」
「待て、待てエステル」
父は掌をこちらに向け、頭痛に耐えるように目頭を抑えた。
「一体どうした?こんなことは今まで無かっただろう」
「私なりに当家の益となる道を考えました。幼い頃から、私がずっとしてきたことではありませんか?」
「……仮にだ。アルベール様との婚約を取り消したとして、お前はどうする?誰に嫁ぐというのだ?」
肝心なのはここからだ。
これが、私がウェルディエ家の者としてすべきこと。
「どなたとも婚約はしません。魔術を学んで、魔石事業のお手伝いをしたいと思います」
イネスが生きてゆくためには、森の結界が必要。結界を維持しているのは、あの森を抱く山──クワルツ山に埋蔵している魔石だ。
けれど、もう何年も前に亡くなった"先生"の計画には、父の魔石事業のことが織り込まれていない。採掘され、持ち出されれば結界が維持できなくなることも考えられる。
そこで私が事業に介入し、採掘のペースを操作する。
"先生"が結界を森の外に持ち出せないと判断するくらいだから、きっと相当な量が必要なのだろう。
だからこそ私が管理し、守らなければならない。
そして私は、誰のものにもならない。彼女の"たからもの"であり続ける。
イネスの寿命が尽きる、そのときまで。
ただ──父にとって、それは名案ではないようだった。
「何を言い出すかと思えば……軽々しく言うことではないぞ」
「魔術の知識があれば、採掘だけでなく加工も我が領で担うことができます。外部から魔術師を雇い入れるとしても、家の者にも知識があった方がよいかと」
「そういう問題ではない。婚姻を通して他家との縁を繋ぐのが女の役割というものだろう」
そう──そうだ。
この人は、こういうことを言う。奥底に秘めた本心としてですらなく、堂々と人前にさらけ出せるものとして。
ただ、その考え方は普通だ。貴賎も男女も問わず、多くの人が同意する考え方。
私だって、すこし前までなら何も感じずに肯定していただろう。そういうものだと諦めていただろう。
けれど、今は違う。
「……私も社交の場に出て数年が経ちます。結婚をせず家業を手伝う女性がいることは承知しております」
それは、今までになく危ういところへ切り込む一言だった。
弟が生まれたとき、父は私に「女には結婚する生き方しかない」と言った。
つまりこれはある種、父の嘘を指摘する言葉だ。そのせいか、父は眉間に皺を寄せて声を荒らげる。
「それは他家の話だ!当家には当家の事情と伝統がある」
「ですから、今後の当家の在り方を考慮して申し上げているのです。ガルニエ家と接近することはもはや危険でしかありません」
「魔女の噂など、伯爵の息子もすぐに忘れるに決まっている。馬鹿馬鹿しい……!」
「彼の件だけではありません。伯爵ご自身が魔石採掘に否定的だということは以前もお話したはずです」
「っ……それでも当家にはガルニエ家の力が必要なのだ!」
『当主に抗弁する』など、この家では前代未聞のことだった。それを目前にして、父は立ち上がって拳を机に叩きつける。
その勢いのまま──言った。
「そのためにいるのがお前だろう!いつまでこの家に居座るつもりだ!!」
父は、はっと目を見開く。自分の口から出た言葉に、たった今気づいたように。
しん、と部屋が静まり返る。
どんなときも会話を取り繕うことを忘れない私と父の間において、とても珍しいことだった。
何の表情も浮かべていないことを自覚する。まるで何事もなかったかのように。
それでも、その言葉の重さに気づいていない振りをするにはあまりにも沈黙が長すぎた。
失血で青褪めてゆく肌のように、空気は冷たく。静かに死んでゆく。
あの日。嗚咽をこらえることで守ろうとしたこの家の偽りは、思いのほか脆かったようだ。
私が手放せば、容易く崩れてしまうほどに。
父の本心を直接垣間見たのは初めてだったけれど、驚きとか悲しみとか──こういうときにふつう感じるべきものは、何も感じなかった。
昔の私なら泣いていたかもしれないな、と他人事のように思う。
"家族"という、心の脆い部分にできた瘡蓋。それは想像以上に硬く、厚くなっていたらしい。
「ならば、せめてガルニエ伯の真意を知らなければなりません」
交渉が決裂したのなら、ただ次の手を。
心にあるのはそれだけだった。
「近く、彼の領都で舞踏会があると聞きました。出席してもよろしいでしょうか」
「ああ……もう、好きにせよ」
父は、力なく椅子に腰を下ろした。




