第10話 誰も傷つけない 後編
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このページを読んでいるならば、お前は共に生きる相手を見つけたのだろう。
それは即ち、この森を出られない理由を知る準備ができた、ということだ。
イネスの隣にいるであろう、君。
君にも理解できるよう、すべてを順序立てて話すつもりだ。故に、この話はイネスの出生と私の半生を語るものになるだろう。
長い話になるが、イネスのことを思うならば、お付き合い願いたい。
私はかつて、アルケイゼル魔術大学に籍を置いていた。
入学の経緯はごく平凡だ。魔法を発現して両親に捨てられた、当たり前の魔法制御訓練生でしかない。
はじめは学徒として学び、やがて師の手を離れて自動魔術の研究へ携わるようになった。
古くは結界に始まり、近年では魔石灯に代表されるような、魔術師の手を離れてもなお独力で働き続ける魔術だ。
大学に籠って研究を続け、入学から20年余が経った頃、学内である気運が生じた。
それは魔術に関連する技術を学外へ放出し、大学や魔術師への印象を改善しようというものだった。
その目的に最適な自動魔術の研究者はみな担ぎ上げられ、私も周囲に巻き込まれる形で学外へ放り出された。
そして……案の定、私は失敗した。
初めは全員で諸国を巡っていた私たちは、ひとり、またひとりと人数を減らしていった。
土地に根付いたのだ。
領主に取り立てられた者。
小さな村を魔術の恩恵で豊かにした者。
魔術師への偏見は強く、旅の年月を鑑みれば引く手数多というわけではなかったが、それでも多くが人里に受け入れられた。
大勢は変わらなかった。魔術師が居着いた人里だけが、その偏見を和らげたに過ぎない。
それでも、大学の始めた運動は有意義だったと言えるだろう。
だが、私はそうならなかった。
何処にも根付かず、何処にも受け入れられなかった。
それは今にして思えば、私自身が何者も大切にしていなかったからだろう。
道端で盗賊に刺されて打ち捨てられた者がいれば、取り敢えず傷を塞ぐ。だがその者が家に帰れるかは気にしない。
立ち寄った村で困り事があれば、少しは手を貸してやる。だが村人だけで解決できそうになれば、たちまち億劫になってその場を去る。
そういう態度が、私に人を近づけさせなかったのだろう。疎まれはせずとも、傍にいてほしいとは思われない。
だから何年も、何年も。私はただ放浪し続けた。
惰性でただ続けているだけの旅。その最中だった。
街道を歩いていると、きな臭さを嗅ぎ取った。近くに小さな村があると聞いていたところだ。
臭いの源に辿り着くと、果たして村は焼け跡となっていた。
そこかしこに転がる焼死体に外傷はなく、野盗や妖魔に襲われた風ではない。
ただ、焼けていたのだ。
しかし──人も家も家畜も、全てが黒く乾いているなか、ひとつだけ白く瑞々しさを残しているものがあった。
煤に成り果てた草地に無造作に転がっていたそれは、生まれて一年にも満たないであろう幼子だった。
指をくわえ、胎児のように丸まって眠るその幼子だけが、ただひとり生の潤いを湛えていたのだ。
私はその子を抱き、近場にある宿場町へと引き返した。
この子を救えるのは自分だけだ。そう思うと、不思議とあの"飽き"はやって来なかった。
道中、身元の知れない幼子に名をつけた。
「イネス」と。
夜遅く宿に着くと、亭主に離乳食としてパン粥を頼んで部屋に引っ込んだ。
幸いにしてイネスには怪我も衰弱も見られず、数日間は何事も無かった。
ただ、このまま宿の一室で育てるわけにはいかない。里子に出すなり、血縁者を探すなり、対処を考えなければならない。
問題が起きたのは、そう考えてイネスを部屋の外に出したときだった。
イネスを抱いて部屋を出ると、酒場のカウンターに腰掛けたふたりの男が言い争いを始めたところだった。
エプロンを着た鍛冶師らしき男と肥った禿頭の男で、どちらも酔っている。
口論は次第に激しくなり、遂には鍛冶師の手が相手へ伸びた瞬間。
何も持っていなかったはずの鍛冶師が、金槌で相手の頭を殴りつけていた。
自分が何をしたのかわからない、という顔で手にした金槌を見つめる鍛冶師をよそに、酒場は大混乱に陥った。
そこにいた者のほとんどは、鍛冶師がどこかに金槌を隠し持っていたのだと思っただろう。
だが、私は違った。
その金槌が魔素塑型体であることと、その源泉である魔素の流動を感じ取っていたからだ。
腕に抱いた、イネスから。
壁際へ逃げる、あるいは鍛冶師を取り押さえようとする酔客たちに乗じて、私たちは外へ出た。そのまま誰とも顔を合わせぬように、歩いて街道へと去った。
この時点で、私はある仮説を立てていた。
その仮説が内包する危険を避け、実証し、対策を講じるために場所を移すことにした。
それがウェルディエの森。
魔女の噂故に人が近寄らず、広大な魔石鉱を抱く地。
私の仮説が正しければ、そこがイネスを生かすうえで最適の、そして必須の土地だった。
無駄に溜まっていた路銀でウェルディエの商人を抱き込み、資材を買い込んで森の奥に家を建てた。
最低限自給自足ができる体制を整えた後、すぐさま私は実験を開始した。
何度かの動物実験と魂の観察を経て、私が出した結論はこうだ。
イネスは、他者の攻撃的な感情を具現化する魔法を備えている。
他者から別の他者へ、自分から他者へ、あるいは他者から自分への感情も。
鍛冶師の手に金槌を生じさせたのは、その作用だ。
おそらくは故郷の村もだろう。
イネスの傍にいる君。魔法と魔術の区別について、私の弟子から教わっただろうか?
魔法とは、強い感情や極端な精神の捻れによって一部の人間に発現する異能だ。
魔術はその構造を解読し、理性をもって再現したもの。
魔法は感情に伴って発動し、未熟なものにはそれを制御できない。だから大学で感情と魔法を切り離す術を学ぶ。元来、大学とはそのための場だったのだ。
ただ、イネスの魔法は特異であった。自身の感情ではなく他者の感情を引き金として発動し、故にイネス自身がどれだけ訓練を積んでも意味がない。
そのうえ、攻撃性への敏感さは日を追うごとに高まってゆく。
ウェルディエへの道中では明確な暴力にしか反応せず、目を隠せば発動を回避できていた。
しかし物心つくころには、眠っていても、単なる不快感や警戒心にも反応するようになってしまった。
本人には制御できない。ならば、外部から抑制するしかない。
私はイネスの魔法を感知し、その発動を抑制する自動魔術──結界を編み上げた。
その核となるのがこの本であり、動力源となるのがこの森の地下に埋蔵している魔石群だ。
魔石鉱の直上から離れない限り、結界はイネスの魔法を抑制し続けることができる。
しかし、森から出れば魔石からの魔素供給が絶たれ、魔法は再び制御不能となる。
魔法を根本的に取り除く、あるいは魔石群に依存しない程度にまで抑制魔術を小型化する試みは、ついに身を結ばなかった。
つまり……お前が安全に森を出る方法は、ない。
森を出て人里に入れば、魔法がその場にある負の感情を暴力に変換するだろう。
それだけではない。お前に向けられた不快感や警戒心が、お前自身を傷つける。
故に、私が想定していた"解決策"は、これだけだ。
お前が生涯をこの森で過ごすことだけ。
お前と外の世界が互いを傷つけ合わないようにすること。
誰にも受け入れられなかった私にとって、それが世界のために、お前のために唯一できることだと思っている。
本来……私がお前を拾わなければ、魔法の知識を持たない他の誰かがお前を拾ったかもしれない。
そうなれば魔法が抑制されることはなく、この世界を壊すほどの災厄をもたらしたかもしれない。
あるいは、それが運命なのかもしれない。
だから私は、お前が森を出ることを阻みはしない。
魔法を発現させるほどの感情や精神の捻れは、多くの"魔法使い"にとって発狂にも等しい劇烈なものだ。故に、魔法を扱う者は古くから呪われた"妖魔憑き"と呼ばれる。
赤子であったお前がそんな経験をしたことを思えば、なおさらに。
それでも。この森の中だけで生きるのだとしても、それでも世界を肯定できるほどに愛する者を、お前は見つけたのだと信じたい。
ふたりで、この森で生きてゆくこと。
隣にいる彼女と話し合い、合意に至ること。
それだけを、切に願う。
5
読んでいる間、私たちは一言も口を利かなかった。
イネスがどんな顔をしているのか。それを確かめるのが怖くて、ただ読み終えた紙面を見つめる。
意識が文章から逸れて、沈黙が鼓膜を圧迫し始めた頃。イネスの声がそれを破った。
「わたしは、そこにいるだけで人を傷つける。そういうこと?」
暗く沈んだ声が突き刺さる。
胃の底に石でも落とされたみたいに。
「だから、わたしはずっとひとりで、先生もいなくなって、ここで一生……!」
「ひとりじゃないわ」
息が詰まったように甲高くなるイネスの声に、私は慌てて彼女を抱きしめる。
「私が傍にいるから」
その肩は私よりも広く、包み込む形には程遠い。
それなのに、腕の中にいるのが小さな少女のように感じた。
私は……自分勝手だった。
イネスとの関わり方を、いつか取り残されるイネスのことを何も考えていなかった。
この子は何よりもひとりを、永遠に続く孤独をこそ恐れていたのに。
誰に対して不実でもいい。けれど、私のたからもの──イネスに対してだけは誠実でなければならなかったのに。
「ずっと一緒よ。約束する」
自分への怒りを篭めるように、固くイネスを抱く。すると、ようやく彼女は手を添えてくれた。
あの日──自分の出生の秘密を知った日以来、ずっと湿気たままでいたものが燻るのを感じる。
ただその場をやり過ごすのではなく、遠くに見えるものを目指す原動力が。
アルベールとの婚約は、私がこの手で破棄する。
この森で、ふたりで生きる道を探す。
ふたりで共に生き、そして共に死ぬための道を。




