第10話 誰も傷つけない 中編
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「……怒ってるか?」
森の家で私を出迎えるなり、イネスは小さな声で言った。
私より背が高いのに、上目遣いにこちらを見ている。
「怒ってる」
はっきりとそう言うと、イネスはますます俯く。
彼女が私の顔色を窺うのは、あのときかなり厳しい口調であれこれ指図したからだ。
どうにかアルベールの命を繋ぎとめ、何よりイネスの関与を隠すために。
正気に戻った私は、"狼に噛まれた"という事実には反さない程度に傷を残しつつ、イネスに魔術で治療をさせた。私が振り回して狼を追い払った、という作り話のために燭台を横倒しにし、スカートを破って彼の首に巻き、半泣きの顔を作って人を呼び──
もう、とにかく大変だったのだ。だから怒っていないわけではない。
普通なら、あんなことがあれば怒る以上に彼女を恐れるだろうけれど、そんな気持ちは全く湧かなかった。
ただ……あの行動に至った理由は聞いておきたい。察してはいるけれど。
「なぜあそこにいたの?森から出られないんじゃないの?」
「……どうしても気になって。わたしは……先生の言いつけを破った」
ただ言いつけられているだけで、本当に出られないわけではないらしい。
私はもっと、物理的に出られなくなっているのだと思っていた。例えば、イネスだけが出られない魔術の壁があるとか。
「そうしたら、またあいつがお前を……」
あのとき……アルベールは私の手を握り、顔を近づけていた。
それはイネスが度々嫌がっていた行為だ。そして、私自身も嫌がっていると伝えていたことでもある。
「わかった。もういいわ」
私を守るためにしてくれたことなら……仕方ない。過去の私の口ぶりを思い返すと、イネスはアルベールのことを、強引に私に迫る悪党のように捉えていてもおかしくない。
そもそも、アルベールとの婚約を解消できないことをわかっていながらイネスと関係を築いてしまった責は、ほとんど私にある。
安心させるようにイネスの頬を撫でると、くすぐったそうに片目を閉じた。
「でも……やりすぎよ。貴方が彼を殺したりなんかしたら、私たちはもう会えなくなる」
私が何より恐れているのはそれだ。だから釘は刺しておかなければならない。
けれど、イネスはまるで予想外のことを言われたかのように首を傾げた。
「あれはわたしがやったわけじゃないが」
「……え?」
「お前がやったんじゃないのか?」
ふたりして困惑する状況になったけれど、私の方は首を傾げるどころではなかった。
イネスじゃない?
なら、他の誰か?
だけど……あの狼は、イネスと出会った日に私を襲った狼そっくりだった。
それを知っているのは、イネスと私だけだ。他の誰かではありえない。
当然私でもない。魔術の勉強はしているけれど、狼の使い魔を作って襲わせる、なんてことはまだとてもできない。
「お前が……自分であの男を拒んだと思ったから、だから嬉しかったのに」
考え込む私をよそに、イネスは拗ねた子どもみたいに唇を尖らせて俯く。
仕方なく、思考を彼女の方に切り替えた。
「私も嫌だったけれど、言ったでしょ。彼を殺したりなんかしたら、貴方と一緒にいられなくなるの」
「……」
「私だって、貴方が私のためにしてくれたことだと思っていたから……それは嬉しかったのよ」
人が死にかけた事件を、こんな痴話喧嘩じみた雰囲気で語っている自分たちに気づいてぞっとする。
イネスにはそんな自覚はないのか、帽子を脱いでこちらに頭を預けてきた。
悪寒を忘れて黒髪を撫でると、彼女は思い出したように、ぱっと離れて言う。
「今日は、お前としたいことがあったんだ」
「……なに?」
訊くと、イネスはいつもの本を肩から降ろしてテーブルに置く。
思えば、今まではこの本の表紙を間近で見ることはなかった。イネスが肩から提げているのを見るか、開いたページを読むか、そのどちらか。
革張りの表紙には、菱形に切られた深い蒼色の宝石が嵌っていた。
「"たからもの"を見つけたから……やっとあのページが読めるんだ」
さっきまで不機嫌だった声色が嘘のように弾んでいる。
"たからもの"を見つけるまで読むな、と言われていたページ。そこにはイネスが森を出られない理由が書かれているという。
「"たからもの"って……私のことでいいの?」
「またからかってるのか?」
「違う。だって先生の言っていたものが、私……人のことだなんて確かめようがないでしょう?」
「いや、確かめる方法はある」
イネスは本を開き、重力に任せてページを流す。
そして中央辺りに差し掛かった頃、指先を挟んでその流れを止めた。
どこに何が書かれているのか、もう完璧に覚えているのだろう。そして今止めたところが、きっと例のページ。
端々が欠けた羊皮紙には、円形の奇妙な紋様が描かれている。紋章のようにも見えるけれど、動物などを模しているようにも、幾何学的な規則性があるようにも見えない。
「このページ、読まないというより読めなかったんだ。うっかり開きそうになったことがあるが、固まってて開かなかった」
「……魔術で?」
「ああ」
イネスは指先を擦り付けてページを捲ろうとするけれど、蝋で固めたみたいに動かない。
つまり──"たからもの"を見つけるまでは、理由を知ることができない。
それは「森を出るな」という言いつけとは違って、明確な強制力を持ったルールということになる。
その割に、イネスを森から物理的に出られないようにはしなかったのだな、と思う。
"先生"は、彼女が森を出ることよりも、出られない理由を不意に知ってしまうことの方を恐れたということだろうか。
「でも、今なら──」
言いながら、イネスは私の手を取って、紋様に指を置いた。その隣に、自分の指を添える。
ふたり分の指が触れた瞬間、それを感じ取ったように紋様が青く光り、焼き切れるように消えてゆく。
「ほらな」
ふたりで触れることが、このページにかけられた魔術を解く条件だった。ということは、やはり"先生"の言う"たからもの"とは、イネスのそばにいられる人間のことだったのだろう。
誰かとふたりなら、この森を出てもいい。そういうことだろうか。
そうだ──どうして思いつかなかったのだろう。
ふたりで逃げればいいんだ。森からも、ウェルディエからも。
アルベールと結婚したあとの時間を諦める必要はない。
他の場所で隠れ棲んでもいい。魔術が使えるなら生活に困りはしないだろう。
あるいは人里にいたいなら大学に行ったっていい。聞いた話では、別に魔女や妖魔憑きでなくとも入れるらしい。
イネスと、ずっと一緒に過ごすことができるんだ。
その方法が、きっとここに記されている。
「私も読んでいい?」
「当然だ」
ページを捲るイネスに、私は肩を寄せる。




