第10話 誰も傷つけない 前編
1
寒い、とても寒い日。最近、寒い日が続いている。
寒くなったころから、先生はずっとベッドにいる。
先生のお手伝いをしていただけだった家のことを、今ではわたしが全部やっていた。
「先生。風邪、いつ治るかな」
「……おそらく、治りはしない」
かすれた声で、先生は言う。
治らないって、どういうことだろう。
家のことには慣れてきたけど、ずっとひとりで続けるのはむずかしい。
それに、元気がない先生を見ているのも嫌だった。
「イネス。私は……死ぬだろう」
「……死ぬ……?」
「歳を取りすぎた。この病にはもう勝てまい」
「わかんない。先生、そんなのおかしい」
「聞け、イネス。避けられないことだ」
動物が死んでいるところは何度か見た。先生に魔素の矢で撃たれた鹿。みちばたで腐ってる鳥。なにかに半分食べられて捨てられた兎。
だけど、先生やわたしは、あれとは関係ないと思ってた。あんな風になることは考えたことがなかった。今でも想像できない。
でも、先生は間違えない。嘘もつかない。
だから、もしかして……
「イネス……教えたことを……本のことを、覚えているな」
「うん……」
「森を出られない理由……生きるために必要な知識……全てそこに記した」
先生にもらった本を手に持つ。重いけど、いつも肩に提げておくように言われてた。
ひとりで家のことをするときは本を読んでその通りにする。
"とき"が来るまで、258ページから263ページは読まない。
先生との約束だった。
「私は結局、この世界に……どこにも……それは、自分しか……」
先生は、わたしを見ていない。ただ上を見て話している。
つぶやくような言葉はとぎれとぎれで、ほとんどなにを言っているのかわからなかった。
それでも、わたしはじっと聞いている。いつもそうしているように。
「たからものを、見つけるんだ……いいか、人にはそれが……見つけたときが、"時"だ……」
"たからもの"を見つける。そうすればいいの?
先生は、一緒に探してくれるんだよね?
「イネス……」
先生は、わたしの名前を呼ぶと、目をつむってしまった。
起きたら……もしかしたら風邪が治ってるかもしれない。
わたし、知らないことばかりだよ。
先生に教えてもらわなきゃいけないことが、まだたくさんあるよ。
先生。
2
初冬にしては気温の高い、のどかな日。庭に面した大きな窓からは、暖かな陽が差し込んでいる。
そんな日でも、寒気を覚えるような雰囲気だった。
ひとり用の客室に、4人が詰めている。
ベッドには、首に包帯を巻いたアルベール。私と父は応接用のソファに並んで掛け、残りのひとりは──ベッドサイドの椅子に腰かけた、ガルニエ伯。
「さて、君からは既に話を聞いたが、息子の主張と併せてもう一度聞かせてもらおう」
伯爵は私を見据えて言う。彼がここにいる理由は当然、アルベールが負った大怪我だ。
昨日の深夜、彼は護衛をひとりだけ連れて早馬で駆け付けた。父が鳩を飛ばしてから、たった2日後のことだった。
「この度は誠に、とんだことで……!我が領地でこのような──」
「ウェルディエ卿。恐れ入るが、今はご息女に話を聞かせていただきたい」
どう考えても恐れ入ってはいない声音で遮られ、父はすごすごとソファに戻る。
伯爵の視線は、私だけに向けられていた。
「狼に襲われた、という話だったな?その点ではふたりの主張は一致している」
「はい」
「そうです、父上。しかし──」
「狼をけしかけたのは、魔女だったと。そう言いたいのだったな、アルベール」
「……はい」
アルベールがそう訴えることはわかっていた。
だから、すでにいろいろと仕込んである。
「エステル嬢、いかがか」
「あの場にいた人間は、私とアルベール様のふたりだけでした」
「エステル……」
視界の端でアルベールがこちらを見ている。
彼の顔は見ない。きっと、信じられないという表情をしているだろう。
「狼が聖堂の扉を開けられるとは思えんが」
「私たちは聖堂の中に入ったあと、扉を閉め忘れていました。狼は私たちの後から入ってきて、好機を狙っていたのだと思います」
「アルベール」
「僕は……扉を閉めた覚えがあります」
「君の花婿はこう言っているが?」
そう。
彼が正しい。
けれど私は認めない。
「アルベール様は血を流し、意識を失っておられました。そのせいで記憶違いをされているのではないかと……魔女のことも含めて」
ベッドの上から、突き刺さる視線を感じる。
「……して、アルベールが噛まれた後、どうなった?」
「私が燭台を振り回して狼を追い払い、血を止めました」
「燭台が倒れていた、包帯代わりにスカートの切れ端が使われていた、などと話は聞いている。勇敢なことだ」
それが私の仕込みだった。
伯爵の口から話題に上った時点で、効果を発揮してくれたと言っていいだろう。
「しかし、この町に魔女の噂があることは皆知るところだ。アルベールの言うことも、笑い飛ばすことはできん」
「魔女がアルベール様を襲ったのだとして、私がその者を庇い立てする理由がありません」
普通に考えれば、そうだ。未だ大学にも行かず、人を襲うような魔女は神の敵。人の敵だ。
魔女を庇っていると疑うくらいなら──その相手とまともに話すことはできない。
そんなことをする者は、もはや社会の枠組みの外にいるからだ。息子の婚約者がそんな人間だとは、伯爵も思いたくないだろう。
「ふむ……道理だな」
「だけど、君は──」
「もうよい」
言い募るアルベールを、彼の父は厳しい声で遮る。
「敵が何者であろうとお前は不覚を取り、守るべき妻となる者に救われた。それに変わりはない」
「……はい」
父の言葉を受け止め、アルベールは俯く。
彼の言は正論だ。少なくとも貴族や騎士の論理では。
「申し訳ないが、アルベールの体調が万全となるまでは、式は延期とさせてほしい。王と教会にはこちらから伝えておく」
これで話は終わりだ、と言うように伯爵は無言で父を見つめる。
私と父は一礼して、客室を出た。
ふたりで庭に出ると、外気に触れてはじめて伯爵の視線から解放されたような気がした。
とてつもない緊張から解放されて、思わずため息が出そうになる。
私は押し殺したけれど、父は遠慮なく息を吐いた。
「肝を冷やしたぞ」
私ほどではないはずですよ。
そう思いつつ、私は一礼を返した。
「ご心配をおかけしました」
「うむ……とはいえ、よくやったぞ。田舎故に起きたことだということを差し引いても、ひとつ貸しができた」
父は私の肩を叩き、屋内に戻っていった。
確かに……これは貸しと言っていい。たとえどんな状況でも、荒事で婚約者に救われた、なんてことは貴族の令息としては恥でしかない。
そして、嫡子の恥は家の恥でもある。伯爵としても、伏せておきたいことだろう。
あんな大怪我を弱みと捉えるのは酷だけれど、この件に関しては私も父を責められる立場ではない。
「必死ね」
「……え?」
振り向くと、母がそこにいた。
彼女の方から私に声をかけてくるのは珍しい。
そういえば……客室にいたとき、窓越しに母の姿が見えた。
「あなたがあんなに頑張っている姿は、久しぶりに見たわ」
母は、私の首に片手を遣る。
何を──と思う間に、首にかかった革紐を掬って服の下から指輪を引き出した。
数秒、母は指輪をじっと見つめる。
「誰のためかしらね」
返事ができなかった。
どういう意味?
私が誰かを庇っていると……気づかれている?
「せいぜい、後悔のないようにね」
私の目を見ないまま、母は去ってゆく。
疑問を残したまま、私は取り残された。




